第二回
とある街の、とある駅前。儒服を着た、年配の男性が旗の下で何やら語りを聞かせている。
その隣りにのぼりが立っている。大書された文字はたった二文字。
「完璧」と。
「さてみなさん、本日も集まりいただき、まことにありがとうございます。先週は完璧という言葉の由来について、藺相如が秦への使いとなったところまでお話いたしました。初めての方もいらっしゃるようですし、説明が長いものですからかえってわかりにくかった、なんて方もいらっしゃるかもしれませんので前回のあらすじをここでもう一度お話しましょう。
まず、趙という国が‘和氏の璧’という国宝級の宝石を楚という国から、もしかすると秘密同盟の証として、手に入れました。それを聞きつけた秦が外交政策の一環として、趙に和氏の璧と十五の城との交換を申し込んできました。その申し出というのはは脅しを含んでおりまして、もし断れば国交の断絶と戦争を招いてしまいます。秦は大国なので力ではかないません。しかし、璧を渡しても十五城が手に入るという保証はありません。璧を奪われて泣き寝入りになってしまうかもしれません。趙は君臣とも困り果ててしまいました。
そんな時、宦官の長、繆賢という者が藺相如ならば使いを果たすことができる、と趙の王、恵文王に打開策を提示しました。そこで自ら藺相如を引見し、彼が勇士であり、智謀も持っているのをみて恵文王は彼を秦への使者としたのでした。ここまでは前回までにお話ししたかと思います。
さて、藺相如と彼を中心とする使節団は趙の都、邯鄲を出発して、歩を南へ向けたのではないかと思われます。少し西によりながら黄河まで下がり、黄河に沿って西進し、秦の都、咸陽に入ったことであろうと思います。
邯鄲という町は山東半島の付け根から真西に進んで、太行山脈とぶつかる手前、華北平原の西端にあります。この当時は趙の都として大いに栄えており、堅固な城壁で町はぐるりと取り囲まれておりました。後に始皇帝が生まれた地であり‘邯鄲の夢’‘邯鄲の歩み’といった故事でも知られております。これらの故事については、また機会がございましたら皆さんの前でご披露させていただくことにしたいと思います。なお現在は石炭やセメントなどの盛んな工業都市となっているそうであります。
一方咸陽のほうですが、こちらは名前のほうからまず説明をしてみたいと思います。‘陽’という字は山の南、河の北を表します。また‘咸’という字は‘みんな’という意味を表す字であります。この都市は陽という字の意味を二つとも満たしておりまして、そのために咸陽、みな陽、という名前が付けられたのであります。
この地が都となったのは昭襄王の祖父、孝公のときであります。彼の在世中に秦は商鞅の改革によって法治国家へと生まれ変わり、それによって中華一の強国にのし上がったのでした。
咸陽は関中、あるいは関西と呼ばれる地域にあります。この関というのは具体的に、ある関門を指し示しております。知っている方もあるかもしれません、その関門とは函谷関です。この関門は難攻不落という言葉がぴったり当てはまる場所で、抜かれたことはほとんどありません。ちなみに項羽はこの関門を破った数少ない一人でありまして、鴻門の会の直前に函谷関を閉ざしていた劉邦の軍勢と戦いこれを突破しております。
藺相如もこの関門を通ったことでしょう。これを越えるといよいよ秦の中心部です。
使節団の者は秦に使いするのだということは聞かされておりましたけれども、その内容まではほとんどの者が知りませんでした。せいぜいどうやら何か贈り物を持っていくのだそうだ、という程度のことにしか思っておりません。ですから、この使いが趙の命運を握っているなどとは露ほども頭の中にありません。その認識をもっているのは藺相如と副使の者だけでありました。
この副使は先祖代々趙に仕えているもので、誠実さのほかには何のとりえもない男でした。位はまあそれなりで、それなりということは趙の副使としてそれなりということでしたが貴族には違いありません。それでどうしても彼の上司がもともと宦官の家来であったことが気に入りませんでした。それで誠実と言えるのか、と思われる向きもありましょうが、当時の感覚としては当然というべきで、そもそも宦官というものはおよそ人ではない、いわば影のようなものだと考えられておるのですから、彼の目には上司は影以下の何者かという風にしか映っておりませんでした。が、しかし、副使の任務は趙王から与えられたものですから逆らうわけにはいきません。こういったことと、さらには任務の内容とがあいまって彼の顔は暗く沈んでいるか、青ざめているか、とにかく首から上はいつも下を向いておりました。
一方彼の上司の方はどうかといいますと、こちらはずっと上を見上げております。何を見ているのか、と問われると彼は一言、
「天」
とだけ言いました。その顔はきりりとしまり、口は堅く結ばれております。その決意に満ちた顔つきを見て、周りの者はなんとなく声をかけ辛くなりました。
彼は一体何を考えていたのでしょうか。
藺相如は人一倍旺盛な名誉欲と、それに劣らぬ愛国心の持ち主でした。いつか没落してしまった自家を再興するのだという思いと、それをするなら故郷の趙でなくてはだめだ、という思いが同居しております。そのために、かつて学問をしながら各国を流れ歩いていたときも、仕官しないかと言う誘いをすべて断って生国に帰ってきた程でした。繆賢に見出されたときは、さすがに宦官に仕えるべきかと悩みましたが、彼が王からたびたび諮問を受けるということを伝え聞いており、ひょっとすれば自分のことが王の耳に入るかもしれないと思い、また生活が立ち行かなくなっていたこともあって彼の家来となったのでした。
結果として、彼の選択は正解でした。いや、正解になるかもしれないと言ったところでしょうか。もしも使いに失敗すれば、下手をすれば秦王に殺され、生きてかえっても趙王に首を刎ねられてしまうかもしれないのですから。ところが彼は不思議とそんな不安を一切感じませんでした。使者に任命された時点でうまくいったという感があり、またもし自分が死ぬ結果になったとしてもその死はおそらく自分の才能の無さよりは殺す側の器量の狭さによるものだと考えております。
秦王によって殺されるならば、秦は璧を奉じてやってきた使者を殺して趙から璧を奪い取り、自ら持ちかけた城と壁との交換の申し出を自ら踏みにじることになり、天下の諸侯はみな秦に非ありと見て趙に同情するでしょう。そうすれば自分の死は趙のために役立ったことになります。彼は別にそれでもいいと思いました。あるいは趙王が自分を抜擢したのも、もし自分が秦王に殺されても趙は賎臣を失うだけで天下の輿望を秦から離すことができると考えたためでないかという考えすら浮かびました。安い買い物、という訳です。
趙王に殺される、ということはないという確信がありました。恵文王は道理をわきまえており、滅多なことで自分を処刑したりしないはずだと思っておりました。ただし、処刑されるような失敗はしないという自信もありました。
いずれにせよ、結局は天が決めることであり、己が天に恥じぬ行動をとればそれでよい、天よご照覧あれ、といった覚悟が出来上がっておりました。そういう気持ちでもって天を仰いでいたに違いありません。何か不思議な高ぶりが彼を包み込み、またそれが徐々に使節団全体へと広がっていきました。
副使の方もこの藺相如の居住まいに知らぬ間に感化され、やがてずっと地面ばかり見ていた顔が段々前を向くようになってきました。宦官の家来の部下に甘んじている、といった最初の意識もいつの間にか消えております。彼自身もそうした自分の心の変わりように不思議さを感じずにはおれません。それが上司の堂々たる姿によるものだと思いあたると、自然と上司に対する物腰にも変化が現れます。そして彼もまた藺相如と同じく、一種自らの命を大海に放り出してその行き着く先を運に任せるような、そんな気持ちにもなるのでありました。
秦の都、咸陽に着いた一行は翌日秦王との会見に臨みました。このとき秦王は正式な宮殿ではなく、章殿といわれる属国の君主などが秦王に拝謁するときに使われる宮殿を使いました。このあたりにも秦の高圧的な姿勢がうかがえます。もっとも秦の側からみれば大臣でもないような使者との会見にわざわざ正殿を使うこともない、ということは言えるかもしれません。
藺相如は璧をささげてすすみました。
秦王は璧を受け取るとたいへん喜び、そばに侍っていた侍女や側近たちにもまわして見せました。側近たちは皆そろって、
「万歳」
と、唱えました。
藺相如は一歩下がってこれを見ておりましたが、秦の態度が礼を欠いていること、さらには趙の手に渡るはずの城を示すものが見当たらないことから、
――――秦は趙に城を渡すつもりはない。
と、見て取りました。この当時、城を与えるということはその周辺の土地をも与えるということで、いわゆる領土割譲なわけですが、戸籍に地図を添えて相手に渡すという手続きをとります。この場ですぐにその手続きを踏むということはないにしろ、趙が璧を渡した時点で秦も与える城を明確にするのが筋というものなのです。ところが昭襄王は侍女や側近たちと共に璧を鑑賞するばかりで一向に十五城を示そうという気配は見られないのです。
このことは藺相如の想定の中にあり、彼は後ろで怒りに肩を震わせている副使を目でなだめるとすっと前へ出て、
「璧に瑕があります。それを王にお見せ致しましょう」
と言って昭襄王たちを驚かせ、璧を受け取りました。
副使も名宝、和氏の璧に瑕があるとは知りません。まさか、という顔をして上司の背中を見ております。彼には藺相如が一体何をしようとしているのか見当もつきません。
と、その時藺相如は璧を持ったまま後ずさりして宮殿の柱に寄りかかりました。その形相たるやすさまじく、司馬遷は『史記』の中で怒髪上衝冠、怒髪冠を衝く、と表現しております。髪が逆立って、冠を衝き上げそうだった、というのです。
これを聞いてピンと来た方もいらっしゃるでしょう。そのとおり、この怒髪冠を衝く、こそ怒髪天を衝く、の元の形なのです。冠が天へと変わったのは、そのほうが怒りの程度をより甚だしく見せるからか、あるいは単に庶民は冠をつけないからか、とにかく昔からの言い回しというのはこういうところに端を発していることがよくあるものです。
おや、いま雷の音がしましたね。どうやら一雨きそうです。風邪など引くといけません。どうも中途半端で申し訳ありませんが、今日のところはこのあたりで失礼させていただきたいと思います。次週、また同じ時、同じ場所でお会いしましょう。それでは皆さんごきげんよう」
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