なみだあめ
泣かないでね、と笑う君からは、終わりの匂いがした。
へたり込んだ私はただ君を見返すことしかできなかったね。君はやはり笑ったままだった。
草原に佇む白い服を纏った君に、私はなんて言うべきだったのだろうか?
今なお立てないまま、そんな私の前に君はさも当然のようにしゃがみ込んだね。ゆっくりとその手を私に伸ばしてきた。
一瞬だけ差した光。…それはすぐに消えてしまったけれど。
伸ばされた指先が、私の頬を掠める前に透けていってしまいそうで。微かに吹いた風にも靡いて消えてしまいそうで。
だから、その手が届く前に私は君の手を、この左手で握りしめた。…その手はとても冷たかったね。
覚えている。忘れられる訳がない。私が君の手を握りしめたことに、君は気が付かなかったんでしょう?
分かってるよ。君はほんの少しも狼狽えた風もなく、そのままあくまで自然に私の頬に触れたからね。
あまりに自然な動きだったから、私はそのままその手を離してしまった。…離さなきゃ良かった、なんて何度も何度も思ったよ。
君はあれから私のことをどれぐらい考えてくれたかな?
力を失ったこの手が、ぱたりと太ももに当たって落ちた。君の手が私に触れるその瞬間を、この目に焼き付けようとしていたの。
…でも、その時はいくら待っても来なかったね。
肌と肌が触れる間際の、ほんの少しだけ伝わるそれは、すぐ近くにそれがあると言う感覚。それに委ねるようにして、目を閉じてしまったのは私の愚かさ故なのかな?
強い風が吹いた。私の髪を巻き上げて、スカートもその風に煽られた。…風はそれだけでは飽き足らず、君までも。
鼻先に掠めたのはさっきよりも濃い、終わりの匂い。ううん、終わった後の匂い。
目を開けた私の目には、何も映らなかったよ。君がいないこの場所を直視して耐えられる私じゃないの。
…君は分かっていたのかな?だから私に最後に、泣かないでね、なんて言ったのかな。私が君の言うことを破れる訳ないのを知っていながら。ううん、知っていたから。
気がついたら、目の前にあった芝をちぎっていた。ぶちり、ぶちり、と。何度も何度も。指の間に草を挟んで、力を込めては引きちぎる。その度に鳴る音が、妙に心地良い。…なんでだろうね。
私にとって、君は全てだったの。だけどそれを言ったとて、何かが変わるだなんて思えないから。私が変わるね。
泣かないよ。
君が言うなら。君が言ったのなら。私は君の言うことを破れるほど、君を軽んじられないの。…だから、この涙腺はもういらないね。
私は自分の左目に触れた。瞼を押し上げて、人差し指が眼球に触れる。柔らかくて、温かい。君に触れて冷えたこの手が、ほんの少しだけ温まった。
土に汚れた指先が左の眼球に映る。生理的に脳みそはそれを拒もうとする。だけど右手によって広げられた瞼は、脳の指令に従えない。
ぐ、と眼球に触れた左の指先に力を入れると、ぐにゅりと眼球が反発するようにして身を捩った。固いゼリーのようなそれは、もう、いらない。
ごめんね、と呟いたのは、私なのか私の中の君なのか。そんなの今更どうでも良い。
ぶちり、と耳元で音が鳴る。頭蓋が反射で危険だと身を捩ろうとする。
もう遅いのにね。馬鹿みたい。
さらに追い込むようにして、上瞼も引きちぎる。そのあたりに涙腺があると、どこかで聞いたことがあった気がするから。
捻り出した目玉を、握りつぶす。にじゅりと音を立てて、それは呆気なく手のひらに負けた。
手の中に残った感触は、酷くぬめぬめとしていて、だけどその感触がどこか心地良くて。私はそれを指先に、手のひらに、擦り付けるようにして手の中でその感覚を味わっていた。
ただの窪みと化した、かつて眼球があった場所を晒すように上を向く。喉元を逸らすようにして、上を向く。すると、雨がどこからともなく降り始めた。
…なみだあめ。
脳内で誰かが囁いた。ぱらぱらと降り始め、次第に雨足が強くなる。ただ淡々と、溢れた何かを洗い流して払い落とそうとするように。
落ち窪んだ眼窩に溢れ出した血液と降り注ぐ雨水が混ざり合う。流れ出す血は止まらない。この雨も降り止まない。
残った右目は宙を眺めたまま。何も揺らぐことなく、ただ曇った点を見上げている。
いつからか、だらだらと眼窩から血と雨が混ざり合ったそれが目尻から溢れ出していった。
これは君を思って流す、血の涙。…いつか君に届くといいな。




