第一部:個の物語 ―内省の時代― 第3話 「E――普通の女」
日曜日の朝、快晴だった。
Eは都心に向かう電車に乗っていた。
座席に座り、窓の外をぼんやり見ていると、隣の男性が立ち上がった拍子にポケットからハンカチが落ちた。
Eは素早く拾い上げ、声をかけた。
「あの、落とされましたよ」
男性(拓)は少し驚いた顔をして、すぐに頭を下げた。
「ありがとうございます……本当にすみません」
それだけのやり取りだった。
Eはまた席に座り、窓の外を見た。
(ただハンカチを拾っただけ……でも、こんな小さなことでも、誰かの役に立てたのかもしれない)
その日、Eはカフェ「あおい」に来た。
カウンター席に座り、本日のコーヒーを注文した。
向かいの席の気配を感じながら、Eは静かに話し始めた。
「今日、電車で知らない男性のハンカチを拾いました。ただ、それを渡しただけです。でも、その瞬間、思ったんです。私にも、こんな小さなことならできるんだって。
私は普通なんです。普通に育って、普通に就職して、普通に働いてる。特別なことなんて、何もない。何もできない。でも、こういう小さなことは、できる。それでいいのかな、って」
コーヒーカップを見つめる。湯気が立っている。
「普通でいることが、誰かを傷つけているんじゃないかって、ずっと考えてました。特別じゃない私が、特別を求められている場所にいるだけで、誰かの期待を裏切っている気がして。
でも、そうじゃないのかもしれない。普通でいることにも、意味がある。誰かの役に立てることがある。今日拾ったハンカチのように、ほんの小さなことで、誰かの一日が少し良くなることがある。
特別なことをしなくてもいい。それが、普通であることの意味なのかもしれません」
Eは小さく笑った。
自分でも不思議なほど、自然な笑顔だった。
「ありがとうございます。また来ます」




