第一部:個の物語 ―内省の時代― 第1話「沙織――描く女」
平日の夜、晴れていた。
沙織は街角のベンチでスケッチをしていた。
展示会が終わった解放感と、いつも付きまとう罪悪感が混ざったような気分だった。
彼女は鉛筆を走らせながら、通り過ぎる人々を眺めていた。
ふと、一人の若い女性が目に留まった。
ベンチに座り、ノートに何かを必死に書き込んでいる。
目が少し充血していて、唇を強く結んでいる。
何かを追いかけているような、でも追いかけきれていないような——そんな目だった。
沙織は無意識にその女性を描き始めた。
線を重ねるたびに、胸の奥がざわついた。
(私はまた、誰かを「選んで」いる……この人を描くことで、他の人を描かないことを決めている)
描き終えた後、沙織はスケッチブックを閉じ、ため息をついた。
その女性の名前が光莉だとは、まだ知らない。
その夜、沙織はカフェ「あおい」に来た。
窓際の席に座り、カプチーノを注文した。
向かいの席に、誰かの気配を感じる。
誰もいない。
でも、確かにいる。
沙織は小さく息を吐き、話し始めた。
「今日、街角で知らない女性を描きました。ノートに何かを書き込んでいて、すごく必死な目をしてました。私はそれを、ただ線にして、影にして、形にしました。描いている間、ずっと胸がざわついていました。
私はいつもそうなんです。
描くことで誰かを『選んで』しまう。
描かない人を、知らないうちに切り捨ててしまう。それが、怖いんです。
優しい絵を描いていると言われるけど、本当は……誰かを支配しているような気がして、罪悪感でいっぱいになります」
彼女はスケッチブックを開き、光莉の絵をもう一度見た。
「でも、描かずにいられない。描かないと、私自身が消えてしまいそうで……。あなたは、何も言わない。それが、救いです。
ここでは、描くことも、描かないことも、ただそこにいるだけで許される気がする」
沙織は静かに微笑んだ。
「ありがとう。また来ます」




