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決して振り返るな

作者: しおり 雫

夜勤明けの体は、いつも鉛のように重い。


深夜二時。住宅街を抜ける細い道を、俺は足を引きずるように歩いていた。

三上恒一、二十四歳。コンビニの夜勤バイトを終えて、アパートまであと十五分ほどの距離だ。


街灯が少ない。この道はいつもそうだ。

月明かりだけが頼りで、アスファルトの継ぎ目すら見えにくい。

人通りはほとんどない。こんな時間に歩いているのは、俺くらいのものだろう。


足音だけが響く。自分の靴音。規則的で、単調で、眠気を誘う。


「(早く帰って寝たいな…。)」


ぼんやりとそう思っていた時だった。


「三上」


背後から、声がした。

男の声だった。低く、ぼそりと。名字だけを呼ぶ声。


俺は足を止めず、歩き続けた。


誰かの勘違いだろう。

この時間にこんな場所で知り合いに会うはずがない。それに——。


振り返ってはいけない。


祖母が言っていた。

夜道で名前を呼ばれても、絶対に振り返るな。返事もするな。

それは人間じゃない、と。


子供の頃は迷信だと思っていた。

でも、大人になった今でも、その言葉は妙に重く残っている。


だから、俺は歩き続けた。


「三上」


また、声。さっきより近い。

背筋に冷たいものが走る。いや、気のせいだ。音の反響がそう聞こえただけだろう。


足音を速める。靴音が少し乱れる。


「三上」


これで三度目。

明らかに近づいてきている。


心臓が跳ねた。緊張で喉が渇く。


誰だ。なんで俺の名前を知っている。

いや、考えるな。無視しろ。振り返るな。返事もするな。ただ歩け。


俺は呼吸を整えようとしたが、うまくいかなかった。息が浅い、肩が上がる。


「三上」


「三上」


「三上」


立て続けに三回。声はもう、すぐ後ろにあった。

歩く速度が落ちる。足がもつれる。


やばい。走った方がいいのか?でも、走ったら——追いかけてくる気がする。


 そもそも、本当に何かいるんだろうか?普通に不審者か?


俺は耳を澄ませた。

自分の足音。荒い息。聞こえるのはそれだけだ。


後ろから追いかけてくる足音は、聞こえない。


なのに、耳元に声だけが響く。


「三上」


今度の声は、少し高かった。

男の声のはずなのに、どこか——聞いたことがあるような声。


幻聴だろうか。俺は疲れているのか?

いや、おかしい。明らかに最初とは違う。


「三上」


また同じ声。これは…自分の声か?。


鳥肌が立つ。これは何だ。録音か、いたずらか?いや、そんなわけがない。


「三上」


聞こえるのは完全に、俺の声だった。

自分が自分を呼んでいる。


ありえない。ありえるはずがない。


足が震える。歩幅が狭くなる。


息が荒い。喉がひりつく。


走れ。今すぐ走れ。

でも、足が動かない。


「三上」


耳元で聞こえた。


いや、違う。

首筋に、息がかかった。


生温かい。湿っている。

人の——いや、何かの息遣い。


すぐ後ろにいる。触れるほど近くに。


俺は唇を噛んだ。血の味がする。


歩け。歩き続けろ。振り返るな。


足を前に出す。一歩、また一歩。


息遣いは消えない。ずっと首筋にある。歩いても、離れない。

背中に何かの視線を感じる。じっとりと、まとわりつくような…。


汗が額を伝う。シャツの背中が濡れる。


もう限界だ。このままじゃ——。


「あの」


前方から、声。人間の、普通の声。

顔を上げると、街灯の下に人影があった。


女性だ。二十代くらいか。スマホを手に持って、こちらを見ている。


「すみません」


彼女は少し怯えたような表情で、俺を見つめた。


「あ、あの…あなたの、後ろ——」


言葉が途切れる。


彼女の目が、俺の背後を見ている。


何かが、いる。彼女の目線が、それを証明している。


俺の後ろに、何かが。


「——いますよ」


その瞬間、俺の体は反射的に動いた。


考えるより先に振り返った。


そこには——


 


 


 




 


 


 


翌朝。

住宅街の道端に、男物のスニーカーが一足、揃えて置かれていた。


持ち主は現れなかった。不自然に揃えられている靴だけが、そこにあった。


ただ、それだけだった。


【完】

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