トイレ掃除サボりと、聖域の結界
深夜の『デイリー・ネクサス』は、静寂に包まれていた。真木 悠斗は、魂の抜け殻のようにレジカウンターに立っている。
(あー、暇だ…。暇なのは楽でいいけど…)
カラン、とドアベルが鳴り、体格のいい男がよろよろと入ってきた。全身から酒の匂いがする。
男はトイレに直行し、数分後、何事もなかったかのように店を出ていった。
しばらくして、悠斗は(面倒くさいな…)と思いながらも、ルーティンであるトイレの巡回に向かった。
ドアを開けた瞬間、悠斗は息を止めた。
「……は?」
床は謎の水浸し。便器は目を覆いたくなるような惨状。凄まじい異臭が鼻をつく。
(嘘だろ……。なんで俺がこんな……。あの酔っ払い客か!)
悠斗は本気で絶望した。時給数円アップしたところで、この地獄のような作業(汚物処理)に見合うはずがない。
(無理だ。絶対に無理だ。掃除、面倒くさすぎる……)
悠斗の脳は、この過去最高クラスの「面倒」から逃れるため、フル回転を始めた。
彼はバックヤードに戻ると、掃除用具室から「清掃中」と書かれたプラスチックの札を掴んだ。
そして、再びトイレの前に立つと、ドアノブにその札をぶら下げる。
(よし。これで客は入ってこない)
だが、悠斗はまだ安心しなかった。万が一、札を無視して入る客がいたら、結局自分が対応する羽目になる。
彼は意を決すると、トイレの中に入り(息は止めたまま)、内側から乱暴に鍵を閉めた。
「……完璧だ」
これで物理的に誰も入れない。
(どうせ朝まで誰も気づかないだろ。俺はバックヤードでスマホでも見て時間潰そ…)
悠斗は、最悪の事態(掃除)を回避できたことに安堵し、足早にその場を離れた。
◇
その頃、シスター・アリアの司令室は、新たな脅威の出現に緊張が走っていた。
「シスター! 新たな敵性組織『混沌の使徒』の動向をキャッチ!」
「連中は、都市の水道網を経由し、人々の理性を汚染する異能ウィルス『混沌の雫』を散布する計画です!」
「なんだと…?」
アリアが眉をひそめた、その時。別の監視班から緊急報告が入る。
「シスター! 聖域にて、導き手が動かれました!」
ディスプレイに、悠斗がトイレに「清掃中」の札をかけ、さらに内側から鍵を閉めて「封鎖」する様子が、克明に映し出される。
アリアは、二つの情報を即座に結びつけ、戦慄した。
「……まさか!」
部下たちが息を呑む。
「『混沌の使徒』の狙いは水道網…。聖域の『浄化の間』も当然、汚染経路に含まれる」
アリアは、鍵が閉められたトイレの扉の映像を睨みつける。
「導き手は、この『混沌の雫』による汚染を予見されていたのだ…!」
「『清掃中』…あれは『浄化の儀式』の始まりの合図! 外部からの『招かれざる者(=敵)』と『穢れ(=ウィルス)』を拒絶するため、自ら『聖域の結界』を張られたのだ!」
アリアの解釈に、部下たちが「おお…!」とどよめいた。
◇
同時刻。コンビニ店内。
『混沌の使徒』の実行犯が、一般客を装って潜入していた。
彼の任務は、このコンビニのトイレの水道管を使い、「混沌の雫」の原液を流し込み、聖域(と彼らが知らずに呼ぶ場所)を汚染の起点とすることだった。
(よし、監視カメラの死角は把握済みだ。さっさと済ませるか)
実行犯がトイレのドアノブに手をかける。
ガシャ。
(…ん?)
ドアが開かない。見ると、「清掃中」の札がかかっている。
(チッ! なぜだ!? 『清掃中』? この深夜に? 事前調査では、この時間はフリーだったはず…!)
実行犯がドアノブをガチャガチャと揺らすが、内側から施錠されており、びくともしない。
その様子は、敵の司令部でもリアルタイムで監視されていた。
知性派で知られる『混沌の使徒』のリーダーが、部下から送られてきた映像(悠斗が「清掃中」の札をかける瞬間)を見て、冷や汗を流していた。
(……バカな。なぜだ。我々の侵入経路とタイミングが、ピンポイントで読まれている…?)
(まさか…あの『清掃中』の札は、我々『混沌の使徒』に対する警告…!)
リーダーは、悠斗の無気力な表情(に見える顔)を拡大する。
(あの男…『終焉の導き手』…。間違いない。あれは『お前たちの汚染計画は把握済みだ。この聖域を浄化(清掃)してやる』という、絶対強者からの宣告だ…!)
◇
「神託(=トイレ封鎖)に従え!」
アリアの厳命が飛ぶ。
「敵の狙いは水道網! 『混沌の雫』の本流(浄水場)を制圧し、導き手の『浄化の儀式』を支援せよ!」
アリアの部隊が、浄水場に控えていた『混沌の使徒』本隊を電撃的に制圧。ウィルス散布計画は、実行犯がコンビニのトイレの前でオロオロしている間に、完全に阻止された。
「リーダー! 浄水場が…! 本隊が壊滅しました!」
『混沌の使徒』のリーダーは、悠斗の映像を見て震えていた。
「(計画が…筒抜けだった…。あの店員、恐るべし…! 我々の『混沌』すら、あの『無』の前では無力だというのか…!)」
「全軍撤退だ! あの聖域には二度と近づくな!」
◇
長いシフトが終わり、悠斗はバックヤードから出てきた。彼は周囲をこっそり確認すると、トイレの鍵を開け、「清掃中」の札を素早く回収する。
(よし。結局、朝まで誰も気づかなかったな)
最悪の肉体労働(掃除)を回避できたことに、悠斗は心から安堵した。
「(掃除せずに済んでラッキー。まさに地獄からの生還だ…。早く帰って寝よ…)」
悠斗が欠伸をしながら帰路についた、その数分後。
早朝シフトの新人バイト、佐藤が出勤してきた。
「おはようございまーす…。さて、まずはトイレチェックから、っと」
佐藤がトイレのドアを開け、そして絶叫した。
「ぎゃああああああああ!!?」
聖域の「浄化」は、彼に託された。




