エピソード6 事件はいつも唐突に
〜前回までのあらすじ〜
大都市ネクスシティの嫌われ者ヒーロー、ナイトメア。
他のヒーローが活躍して時に颯爽と現れては手柄を横取りする"自称"ダークヒーロー。
アルバイト先であるカフェ『Paix Noire』で働きながら、事件が起これば仕事を放棄して駆けつける。
事件が起きていない今。
いつものように彼は働いて………なかった。
ネクスシティの片隅に、ひっそりと佇むカフェ『Paix Noire』。
空気と混ざり合うコーヒー豆の香り。
レコードプレーヤー特有の柔らかなノイズ混じりのジャズ。
柔らかい日差しに輝くインテリアたち。
時刻は正午手前。
店のドアは一向に開く気配を見せない。
客の姿はない。
あるのは静まり返った空間とオレンジの明かりだけ。
光の下では白シャツと黒エプロンの男女が2人──
1人はカウンターの中でマグカップを磨き、もう1人はテーブルに突っ伏していた。
「マスター」
「何だ、ナイトメア」
「暇です」
「じゃあ働け」
「いやいや、無茶言わないでくださいよ。店には誰もいないのにどう働けと? 」
顔を上げることすらしないままの抗議。
だらけ切った声がスピーカーのノイズと共に店内に溶けていく。
「だったら床を拭くなり何なりしたらどうだ? ただでさえ真面目に働いてないだろ」
彼に目もくれず、マスターはマグを並べる。
磨かれた陶器の肌が、日に照らされより白くなっている。
「床掃除ですか… 今はそんな気分じゃないんですよねぇ」
「バイトが気分で仕事を選ぶな。黙ってやれ」
「はーい」
重たげに身体を持ち上げ、ナイトメアは掃除道具を手に──
取らず、代わりにマスターが並べたばかりのマグカップを掴む。
「何してるんだ? 」
「仕事の前に紅茶でも飲もうかなと」
「……それ掃除する前に必要なことなのか? 」
彼女の質問にナイトメアは沈黙で返す。
時計の針がわずかに横に動いた頃、彼は口を開く。
「いえ、特に。強いて言えばリフレッシュですかね」
カウンターに肘をつけて、マスターは額に手を当てる。
山ほど出てくる言葉の代わりに、大きなため息が口から出る。
一方、ナイトメアはカウンターからティーポットを持ってくる。
綿毛のように軽い足取りと軽快な鼻歌に、マスターの顔の皺は増える一方。
「……客いないし一発くらい殴ろうかな」
「……な、何か言いましたか? 」
「いや別に」
「そうですか? 今なんか寒気のようなものが……」
ポットを傾け、お茶を注いでいく。
赤みがかった細いオレンジが湯気を出しながらキラキラと輝く。
マグに満ちる数秒の間に、店内で茶葉の香りが漂っている。
「それ飲んだらさっさと働けよ」
「はいはい、分かってますって」
ナイトメアはゆっくりと持ち上げて、鼻で大きく息を吸う。
紅茶の芳香に充分満足したのか、その表情は実に穏やかなものだ。
「では、いただきます」
白いマグの肌と彼の唇が重なり合い、オレンジの香りの源が吸い込まれていく──
──同時刻。
ネクスシティ、U市のスクランブル交差点。
日々、数えきれない人波が行き交う場所。
肌をジリジリと炙る日差し。
鼻の奥にこびりつくコンクリートの匂い。
耳の中で何度も響く足音と人の声。
青信号になれば誰もがこの場から離れていく。
隣を歩く人にすら気にも留めない。
やがて全員、通行人の波に飲まれていく。
──"彼"を除いて。
「何、あの格好? 」
「怪しすぎんだろ。今日暑いってのに… 」
集団の奥。
少し遅れて一つの影が交差点に足を踏み入れる。
その姿は、どれだけ周りに人に囲まれていたとして異彩だと分かる。
全身を覆い隠す薄汚れた灰色のマント。
目深に被ったフードの中は顔すら見えない黒い闇。
数えきれない視線に晒されても、歩みを止めない。
堂々と前を行くその姿がかえって異様に見えた。
正体の知らない恐怖が、日差しの中で身体を冷やしていく。
信号が点滅し始め、全ての歩行者たちは駆け足で渡り終える。
しかし、たった一人だけ交差点をゆっくりと歩いている。
彼だけ別空間にいるかのように遅い。
そして交差点の中央。
マント男の足が止まった。
赤信号。
車列が一斉に動き出す。
それでも彼は動かない。
「おい! 何やってんだお前!! 」
「こんなところで突っ立ってんじゃねぇよ! 危ねぇだろうが! 」
怒号とクラクションが交差点中で反響する。
「何あいつ。どうかしてんじゃない? 」
渡り終えた人々もカメラで彼を捉える。
シャッター音も加わり、喧騒がついにピークに達する。
「コノ辺デイイカ……」
男に動きが出たのは、まさしくそのタイミングであった。
マントの奥から伸びた手が、フードを掴んで静かに捲る。
その瞬間。
クラクションも、怒号も、全てが止んだ。
「な、何あのマスク…? 」
「悪魔…? いや、ピエロ…? 」
白塗りされた皮膚。
裂けるように吊り上がった目と異常なまでに歪んだ笑み。
こめかみからは黒い角が生え、顔の中央には野球ボールほどの真っ赤で丸い鼻。
道化に扮した悪魔が、交差点のど真ん中に舞い降りた。
ざわめきしか聞こえない交差点。
悪魔が動く。
「ジャア、始メルトスルカ──」
腕がマントの下に引っ込む。
再び現れた時、手に握られていたのは──
「え……? あれ、ピストル?? 」
「いや嘘でしょ? おもちゃだよね、あれ」
日差しを黒くはね返す一丁の銃。
銃口は天に向けられ、引き金には指が置かれている。
「──トビッキリノ、"悪イ事"ヲ……!!」
引き金が彼の指によって沈む。
その瞬間、世界がひっくり返った──
"ドォン!! ドォン!!"
──カフェ『Paix Noire』。
静寂を打ち破られたのはここも同様だった。
"ドォン! ドォン!!"
「ブフッ!! な、何です……ゲホッ!ゴホッ!」
「銃声!? かなり近かったぞ! 」
紅茶の霧を噴き出したナイトメアを突き飛ばし、マスターは棚に置かれた一台のラジオを手に取る。
ダイアルを回すと、スピーカーから大量のノイズ音が流れ始める。
『ザザ……速報で…ザ、ザー……ネクス…シ……市内で…謎の……ザー…』
「ケホッ…… マスター、もうちょいマシなラジオ買ったらどうです?」
「う、うるさい! 店の雰囲気に合わせたんだ! 」
叫んでもラジオが発するのはノイズばかり。
このままでは一文字を聴くことだって困難になるだろう。
痺れを切らしたのか、マスターはラジオの頭に平手打ちを叩き込む。
ノイズを打ち消すほどの打撃音が店内に響く。
彼女の怒りが届いたのか、ラジオ音声はようやく澄み始める。
『ザザ… 繰り返します! U市内中心のスクランブル交差点で、謎のヴィランが暴れてます! ザ、ザー… 皆さんは速やかに──』
「U市のスクランブル交差点か。早くヒーロー協会に…! 」
マスターは急いで電話に手を伸ばす。
しかし受話器を取る直前、思い出したかのように目を見開く。
「お前は行くなよナイトメア。今日こそは店の──」
振り返る彼女の視界。
そこにはナイトメアの姿はなかった。
ドアベルを揺らしているドア。
外から聞こえるのは、遠ざかるバイクのエンジン。
そして、無人の空間。
彼女は喉から込み上げてくる怒りを声として解き放った。
「あいつ…!!またサボる気かぁあ!!! 」
怒声と共に響く机を叩く音。
その反響だけ残して、店内は再び静寂を取り戻した。




