1.目が覚めたら知らない場所だった
ぱち、と目が覚めた。
(おや?)
先ほどまで自分が置かれていた状況からするとそんなふうに意識がはっきりと覚醒することはありえなかったので、リデルは首を傾げ――ようとして、何故か薄汚れた石畳に寝転がっていることに気付いた。
(おやおや?)
リデルの真横に転がっていたものが、逃げたがるようにカタカタと揺れた。それは世間で『七聖具』と呼ばれている、創世神がこの世界に落としたとされるものの一つだった。
それの回収はリデルの当面の目的であったので、とりあえず無造作にひっつかむ。
(なんかよくない感じの魔力まとってるな……。本来の性質からねじまがりかけてる。どんな保管されてたんだ?)
淡々と思考し、リデルの所持する空間にしまおうとしたが、思うように体が動かなかった。リデルはそこでやっと体を起こすことに思い至った。
上半身を起こし、『七聖具』を空間に収めようとしたものの、なぜかうまくいかない。三度試して一旦諦めたリデルは、仕方なく『七聖具』を懐に収める。頬についた土を軽く払い、身体を見下ろし――違和感に首を傾げた。
(……こんな格好してたかな)
足元まで覆う、漆黒のマント。その下に着ている衣類の全貌は見えないが、どちらも艶消しされた漆黒の衣であることは間違いない。感触からすると通気性は良さそうだ。靴もまた漆黒。旅に向きそうな頑丈なつくりのものだ。
再び首を傾げるリデル。別に黒は嫌いではないが、この格好のように全身黒尽くめを選ぶほどではなかったと思う。何故なら全身黒尽くめとか目立つしぶっちゃけ怪しい。髪と目も黒なので印象が重すぎる。
まあ長く生きていれば、気付いたら服が変わっているようなこともあるか、とリデルは思考を放棄した。身体の調子を確かめつつ立ち上がる。その過程でも違和感を覚えたが、それがなんなのかはよく分からなかった。
「……さて」
呟く。またもなんだか違和感を覚えたが、とりあえず気にしないことにする。
辺りを見回して、どうやらここはそこそこ栄えた通りに近い路地のようだと判断した。
きょろきょろと路地の細部を確認して、そのどこも自分の記憶に引っ掛からないことに首を傾げる。少なくとも自分の意思でここに来たわけではないのかな、と考えつつ、リデルはひとまず路地の先に見える大通りらしき場所に出てみることにした。
「うーん……」
至って普通の大通りだった。店先から客を呼び込む声が響き渡り、道行く地元民やら観光客らしき人物がそれに応えていたりする。とりあえず建築様式と看板の文字からすると【黒金の大陸】のようだが――。
「――なんで、【黒金の大陸】?」
誰にともなく問うように呟いて、リデルは首を捻る。
少なくともあの路地で目が覚める前、リデルがいたのは【白銀の大陸】だったはずなのだが。
(……うん、【白銀の大陸】の白の森で間違いなかった)
うっかり迷い込んだというかトラップによって飛ばされたというか――の白の森の最奥の泉で、そこそこの時間、魔力を吸い取られていたはずだ。
魔力を失う感覚というのは眠りに落ちる様に似ている。うとうとと微睡み続けていたリデルは、別に多少魔力を吸い取られても構わないけれど、ちょっと抜け出すのが面倒だからどうしようかなどと考えていたところだった。
それが何故、いきなり【黒金の大陸】に。しかも路地に寝転がった状態で。
てくてくと周囲を観察しつつ歩きながら、リデルはその理由を考えてみることにした。
その一。移動魔法を無意識に発動させた。
(……流石にそれはないか)
即座に否定する。
移動魔法の発動には、移動先の指定が必要だ。移動先を明確に思い浮かべるなり、地名を口にするなりしないと発動が完了しない。
暴発した場合はその限りではないが、生憎とリデルが移動魔法を暴発させる可能性はゼロに等しい。というかそもそも、白の森から移動魔法で移動することはできないようになっていたと記憶している。
その二。白の森から【黒金の大陸】に至るまでの記憶を失くした。
(……ありえないことはない、かな?)
少なくとも理由その一よりはあり得そうな筋だ。その記憶を失くした理由がさっぱり分からないという状態ではあるが。
とはいえ、やはりそれも可能性は低い。
自身の体その諸々が頑丈、というのを超越した次元にあることをリデルはよく知っている。記憶を失くした原因が身体的な衝撃によるものとしても、精神的負荷によるものとしても、そもそもそれを為せるような者がこの世界に居るとは思えなかった。
否、若干一名、それを為せそうな者は居るが、彼がリデルに近づいてくることはないと断言できる。むしろ現在も絶賛リデルから逃亡中のはずだ。好き好んで近づいてくることは、この世界が滅びるくらいしないと――むしろ滅びても起こりそうもない。
(うーん。だとすると何で……)
首を捻りつつ更に思考を続けようとしたその時、道の脇に並んでいる店の一つから、何やら焦った様子の男が二人飛び出してきた。
(んん?)
何事かと思いながら視線を向ける。店から出てきた内一人はそのままどこかへと駆けていき、残る一人は出てきた店の前に留まり、往来に向かって大声で呼びかけ始めた。
「誰か、医術の心得のある奴はいないか⁉ 神聖術か治癒魔法が使える奴でもいい‼ 怪我人が……っ!」
(ああ、なるほど)
走り去った方の人物は、恐らく近辺の医者か術士か魔法使いの元へ行ったのだろう。怪我の程度はわからないが、それなりに急を要する事態らしい。
リデルは歩調を変えないまま、声を張り上げ続けている男に近づいた。
「もしもし」
「……ッ⁈」
「魔法が使える。案内してくれ」
「っ、助かる! 入ってくれ‼」
顔を一瞬喜色に染めた男は、けれどすぐに表情を引き締め、リデルを店の中へと誘った。
特に何の気負いもなく店に足を踏み入れたリデルは、その瞬間に鼻をついた濃い血の匂いに眉根を顰める。
問題の怪我人は、扉にほど近い床に横たえられていた。腹のあたりに傷があるようで、血が流れ出ているのが見て取れた。
この店は酒場らしい。入って右手にカウンターがあり、左手には間を空けてテーブルが幾つか点在していたが、それらの並びは乱れている。捕縛された状態の人間がいるのを見て、乱闘か何かがあったのだろう、とリデルは推測した。
「彼の傷を治せばいいだろうか?」
怪我人を指さし、問う。リデルをこの店に誘った男が、ぶんぶんと音が鳴りそうな様で頷いた。
「わかった」
怪我人の傍にしゃがみ込み、ぺろりと服をめくる。傷の具合と出血量を確かめて、これはただ治すだけではだめだな、と判断した。失った血の量が多すぎる。
「『癒しを』『再生を』……あー、そうだな、念のため『魔力の回復を』。『あとはなんかいい感じにしておいて』」
世界に満ちる魔力、それを管理する精霊に聞こえるように精霊言語を使って魔法を行使する。
みるみるうちに怪我人の傷口が塞がり、血の気を失っていた顔の血色がよくなった。体に魔力が満ちたので、意識もすぐ戻るだろう。
「すぐ目を覚ますと思う。それじゃ」
立ち上がり、すたすたと出入り口に向かう。背後から、「え⁉ 早っ⁉ いや、待っ……」とかなんとか聞こえてきたけれど、リデルは頓着せずに扉を閉めた。