7. 信じてみる
喫茶店でダウンズと共にデザートに舌鼓を打った後、レイラはダウンズと共に外に出る。喫茶店での時間は、本当に幸せなひと時だった。今まで食べたことも無いような2種類のデザートを味わったのもそうだが、その幸せをダウンズと共に分かち合えたのだ。
レイラの中で、ダウンズという存在がどんどん大きくなってきているのを感じる。彼はいつも、レイラに喜楽と安心感を提供してくれるのだ。
だけど、それと同時に、レイラの中では恐怖もより一層大きくなっていく。ダウンズに対する恐怖ではない。もうダウンズを怖いと思うことはほとんどなくなった。
なら、いったい何が怖いというのか。それは、この幸せな時間が失われてしまう事への恐怖である。
ダウンズとの日々は、レイラにとって今までに無いくらい、幸せな時間である。まだ出会ってたった一週間であるが、確かな幸せを感じていたのだ。
そんな幸せな日常が失われてしまうんじゃないかという恐怖が、今日という日を境に、さらに大きくなってしまった。
もしダウンズが前の主人のように、暴力を振るい始めたら?もしダウンズが、レイラの前から急に居なくなってしまったら?そうなると、レイラは一気に天国から地獄に落ちる。それがレイラは怖いのだ。
握っていたダウンズの手を更にぎゅっと握る。こうすれば恐怖は薄れる。
ダウンズは突如手を強く握られたことに驚きつつも、彼もレイラの手を強く握り返してくれた。こうしていつも彼は安心感を与えてくれる。
大丈夫。ダウンズはここにいる。今はまだレイラの傍にいるんだ。
レイラは自らの中に芽吹いた恐怖を押し込め、ダウンズの横を歩き続ける。
しばらく街を歩いた後、突如ダウンズが慌てたような様子で大通りの脇に逸れて、レイラに言う。
「悪いレイラ!ちょっとここで待っててくれるか?」
「はい。大丈夫です」
「ごめんな。すぐ戻るよ」
そう言ってダウンズは駆け足でレイラの視界から消えた。何の用事?とは聞けなかった。ダウンズが慌てていたからだ。急いでいるようだったので、レイラが時間を取るのはダウンズに迷惑だと思ったのだ。
レイラは一気に心細くなる。やはりレイラの中ではもう、ダウンズという存在は大きくなり過ぎたみたいで、彼がいないと一気に不安や恐怖で一杯になる。先ほど感じていた恐怖が、一気にぶり返してくるのだ。このままダウンズがいなくなってしまうのではないか。そんな恐怖がレイラを支配する。
奴隷時代のレイラは、1人でいる時間の方が安心できた。前の主人は、暇さえあればレイラに手を上げたからだ。1人でいる時は暴力を振るわれない。レイラにとっては唯一、安心できる時間であった。なのに今は、この体たらくだ。ダウンズがいないと、心細く感じるようになってしまったのだ。
そんな心細くなっていたレイラに、2人組の男が話しかけてきた。
「ねえ君。1人?」
「え?」
突然知らない男に話し掛けられ、硬直してしまうレイラ。
「ねぇ?もしも~し。聞いてんの?」
「え、あの………」
「ああよかった。今一人なの?」
男2人はニタニタとした表情を浮かべながら、レイラの顔や身体をじろじろと見る。男性経験のないレイラにもわかる。これは身体目当てのいやらしい目である。
「つ、連れがいますので」
「ほんとに?どこに?こんなに可愛い子を置いてくなんて、酷い男だねぇ」
「ほんとだよ。そんな奴放って置いて、俺たちと遊ぼうよ」
「い、いやです!」
恐怖を押し殺しながらなんとか拒否するレイラだが、それでも男2人は食い下がる。
「ねえ、いいじゃん」
「ほら。いいから来いよ」
「い、いや!放して!」
男の内1人がレイラの腕を掴んだ。レイラの背筋に強烈な悪寒が走る。恐怖で足がすくみ、ガタガタと足が震える。
そんな状態でもなお、拒否しようとするレイラに腹を立て、男は遂に強引な手段に出る。
「ちっ!いいから言うこと聞けよ!」
「ひっ!」
レイラの腕を掴んだ男がもう一方の手を振り上げ、レイラに暴力を加えようとしたのだ。今まで奴隷時代に受けてきた暴力への恐怖が再燃し、レイラは思わず目を瞑った。
男が振り上げた手が、レイラに向かって振り下ろされる、その瞬間――――――
「何をやってる」
聞き馴染みのある声、だが、聞き馴染みのない声音がレイラの元へ届いた。
レイラが瞑っていた目を開けて声の主を確認すると、そこに立っていたのは、男が振り下ろそうとした手を掴んだ、ダウンズの姿であった。
レイラを暴行から守るように男の手を掴んだダウンズの顔は、鬼の形相で男性たちを睨みつけていた。
「ナンパにしちゃあ、随分と手荒じゃねえか?ああ?」
ダウンズの声色は、いつも聞いている優しい声でも、楽しそうな声でもなく、身震いしてしまうほど低い、氷点下の声であった。
「ダウンズか、丁度良かった。俺たちこれからこの子と遊ぶんだが、一緒に来ないか?」
その言葉を聞いた瞬間、ダウンズが眉間をピクリと動かし、更に顔が険しくなった。この男たちはダウンズを知っているようだが、ダウンズはこんな男たちは知らない。
「その子は俺の連れだ。手を放せ」
「なんだ、お前の連れだったのか。じゃあ俺らも混ぜろよ」
「聞こえなかったか?手を放せと言っている」
ダウンズが掴んでいる男の手首をギリギリと締め上げる。
「いて!いてぇ!!わかった!放すよ!」
あまりの握力に男はダウンズの言葉に従い、レイラの手首を放した。ようやく自由になったレイラは男から距離を取り、ダウンズの背中に隠れる。
「んだよ!なんでそんなに怒ってんだよダウンズ!」
「さっきからダウンズダウンズうるせえな。俺はてめえらの事知らねえんだよ」
ダウンズの後ろに隠れたレイラを庇いながら、掴んだ男性の手をダウンズは突き放す。急に後ろに押された男性はバランスを崩し、後ろに倒れて尻もちを付いた。
「いてて………なんなんだよ!お前だってナンパしてんだろ!?ここらじゃ有名だぞ!?」
「お前らのはナンパじゃねえ。ナンパってのはな、一度限りの出会いをお互いに楽しむもんだ。お前らがやってんのはただの誘拐だ」
ダウンズの持論だ。嫌がっている女性を無理やり連れ去るのはナンパなんかじゃない。ただの拉致監禁だ。女性が嫌がるならすぐに引き下がる、それこそダウンズの信条である。
「クソが!女の前だからってカッコつけてんじゃねえよ!!」
ダウンズに自らの行動を咎められた男たちはいきり立ち、ダウンズに向かって同時に殴りかかってくる。
ダウンズは両サイドから襲い掛かってくる男の拳を屈んで避け、突っ込んできた勢いを利用して、男2人の腹に両拳で腹パンを喰らわせた。
「ぐぉっ!!」
「ぐへぇ!!」
あまりの痛みに、くの字に折れ曲がる男2人。
ダウンズは右の男の、腰付近まで下がった顔面目掛けて、思いっきりアッパーカットをお見舞いする。
「ぶふぉっ!!!」
あまりの威力に弧を描きながら空中に吹き飛ばされた男は、10メートルほども後ろに弾き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられて、意識を刈り取られた。
ダウンズはその後すぐに左の男に向き直り、胸ぐらを掴み上げて、男を空中に持ち上げる。
「2人だからと舐めてかかったな?お前ら程度じゃ相手にもならんよ」
「そう言えば元騎士だって噂だったな………クソッ!」
胸ぐらを掴まれて持ち上げられている男が悪態をつく。男の言う通り、ダウンズは元々騎士であった。理由があって騎士をやめたが、その時の経験や鍛錬は、今もダウンズの中に根付いている。そこらの輩にどうにかできるほど、やわな人物ではないのだ。
ダウンズは持ち上げた男を投げ飛ばした。投げ飛ばされた男性はまたも尻もちを付き、怒りに満ちた顔のダウンズを震えながら見上げる。
「すり潰されたくなかったら去ね!クソガキが!!」
「ひ、ひぃっ!!」
ダウンズのあまりの形相に腰を抜かした男は何とか立ち上がり、意識を失った男を置いて一目散に逃げだした。
ダウンズは消え去った男の背を見送ると、すぐに後ろのレイラに向き直り、片膝をついて問いかける。
「大丈夫か!?ケガはないか!?」
「は、はい!大丈夫です!」
口ではそう言っているが、レイラの身体は怯えて震えたままだ。両手をプルプルと震わせて、荒い息で両肩が上下している。
ダウンズはそんなレイラの両手を取り、ダウンズの大きな手で包み込んだ。ごつごつとした、温かいダウンズの手だ。
「怖かったよな。ごめんな、1人にしちまって」
「だい、丈夫です。1人は慣れてますから………」
「こんな時に強がらなくていい」
ダウンズはレイラの手を握り締め、レイラの瞳を真っすぐに見つめて言う。
「怖い時は怖いと言っていい。辛い時は辛いと言っていいんだ」
「………で、でも、怖いって言えば、辛いって言えば、前の主人は、暴力を振るいました………」
「言っただろ?俺は絶対にレイラに手を出さない。―――まだ、信じられないか?」
レイラも信じたい。ダウンズはいつも優しくしてくれた。色んなものを与えてくれた。そして今回は、レイラを暴漢から守ってくれた。そんなダウンズを、レイラも信じたいのだ。
「―――信じたいです。でも、怖いんです。いつか前のご主人様みたいに、急に暴力を振るわれないかって………!ダウンズさんに、捨てられないかって………!不安で、不安で………!」
レイラが胸の内に秘めていた不安や恐怖を吐露した。瞳から涙を流しながら、レイラは嗚咽を漏らす。
ダウンズはそんなレイラを引き寄せて、自らの大きな体で抱きしめた。
「………!」
突然のダウンズの抱擁に、レイラは目を丸くする。
「レイラ、約束する。俺は絶対に、レイラに暴力は振るわない。レイラを絶対に見捨てない。―――だから………だからどうか、俺を信じてくれ!」
ダウンズはレイラに約束しながら、レイラをぎゅっと抱きしめる。ダウンズの温もりが、優しさが、レイラに伝わってくる。
「本当、ですか………?………ダウンズさんを信じても………いいですか?」
「ああ、約束する!―――だから、俺を信じろ!」
ダウンズの言葉で、レイラの心の中のダムが決壊した。心の中に押し込めていた感情が、一気に外に溢れ出した。
レイラの瞳から、大量の涙が溢れだす。決壊したダムによる涙の激流が、レイラの不安や恐怖を押し流す。
「ダウンズさん………!ダウンズさん………!」
レイラは嗚咽を漏らし続けた。ダウンズの名を何度も呼び、すぐ近くにダウンズがいることを確かめる。ダウンズの背中に両手を回し、レイラもぎゅっとダウンズを抱き締め返す。もう離さないと、そう訴えかけるように。
レイラはこのダウンズという男を、もう一度だけ信じてみることにした。
今まで何度も裏切られ、身も心も傷ついてきた。傷付き、ボロボロになった心は、他者を信じない、他者に期待しないことで、何とか守り抜いてきた。
だけど、ダウンズはそのレイラの心を、何度も癒してくれた。レイラの冷え切った心を、暖めてくれた。
だからレイラは、彼の前に、自らの心をさらけ出そう。彼をもう一度だけ、信じてみよう。
ダウンズの優しさに、ダウンズの温かさに、答えるように。
レイラはダウンズの腕の中で、自らの感情の赴くままに泣き続けた。