20. 現代の日常の続き
ダウンズは夢から覚めて身を起こす。なんだか懐かしい、長い夢を見ていた気がする。忌々しいほどに鮮明な、ダウンズの過去だ。忘れたくても忘れられない、今の自分を作り出した最悪の過去。
できるなら、あの時の自分を殴り殺してやりたいと切に思う。大切なキセラを守りきれず、醜く生き延びた自分を、殺せなくなる前に。
ダウンズは立ち上がって鏡を見た。そこに映るのは、やはり死人の姿である。目の奥は淀み、表情からは生気が感じられない。久しぶりに自分の過去を思い出したからであろうか。レイラによって少しづつ戻って来ていた色も、今朝は失われてしまっている。
ダウンズは自らの両頬を激しくひっぱたく。パンッ!と大きな音を立てて震えた両頬は赤くなり、少しずついつものダウンズの表情を形作っていく。
張りぼての笑顔を張り付けた、軽薄な男の顔。キセラが死んでから作り上げた、ダウンズという仮面である。
上半身の服を脱ぐと、左胸には紅い宝石のような魔王の心核が、自らの肉体と一体化している。この死体を動かす、核のようなものだ。
だが、この魔王の心核のお陰で、今は騎士団長の命令をこなすことができている。魔王の心核と一体化してから得られた力。勇者の剣でしか殺すことのできない身体と、魔王のみが扱える闇魔法である。この2つが大いに、騎士団長の命令をこなす手助けになっているのは皮肉なことだ。
魔王がもう1つ持っていた特徴である魔物との会話であるが、これはフィリーズにはできない。どうやら、ダウンズは人間の肉体であるため、魔物との意思疎通はできないようだ。その代わり人間とは意思疎通ができる。不幸中の幸いである。
ダウンズがバレンツ子爵を殺してから1か月程度経過していた。ダウンズが日課のランニングを終え、剣の素振りをしていると、起床したレイラが庭にやってきて、素振りをするダウンズを眺めはじめた。
最近のレイラは朝早いこの時間に起きるようになり、ダウンズの日課を見るようになったのだ。自身の拙い剣を見られるのは、少しだけ恥ずかしい。
「レイラ。おはよう」
「おはようございます。ダウンズさん」
「腹減っただろ?飯にしよう」
「はい!今日も手伝います!」
素振りが終わり、ダウンズとレイラは朝の挨拶を交わした。最近のレイラは料理も手伝ってくれるようになった。ダウンズにとって、彼女とキッチンに立つ時間は、日々の楽しみの1つである。
今日も元気よく、レイラはダウンズに抱き着いてくる。ランニングと素振りをし、水浴びもしていないため、汗臭くないかと思うのだが、彼女は全く意に介していない様子である。「ダウンズさん臭い」なんて言われる日が来ないことを、切に願うダウンズであった。
最近のダウンズはレイラに文字を教え始めた。ミスト王国では、文字というのは書けなくても生きていくことは事態はできる。そもそもこの国の識字率は20%を切っている。平民のほとんどが、字の読み書きができないのだ。
だが、ダウンズはレイラを独り立ちさせようとしている。1人で生きていくにあたっては、文字の読み書きはできた方が勿論いいのだ。その為、最近はダウンズがレイラに、文字を教えているのだ。
今日も今日とて、ソファに座るダウンズの隣にレイラが座る。頭をうんうんと唸らせながら、ダウンズの作った小テストを解いている。
そんな幸せな時間を邪魔したのは、ダウンズ宅への来客であった。
「レイラちゃん!ダウンズ!いる!?」
聞き馴染みのある女性の声。カナだ。
「カナさん!?」
レイラが解いていた問題をほっぽって、玄関に直行する。やはり直接は言わずとも勉強は嫌なのであろう。その顔は笑顔に変わっている。
レイラの反応の速さに苦笑しつつダウンズも玄関に行くと、丁度カナにレイラが抱き着いている所であった。最近のレイラはカナにも甘えるようになったため、少しだけ独占欲が顔を出してしまうのは内緒だ。
「また来たのか」
「別にいいでしょ?レイラちゃんに会いたいし」
「私もカナさんに会えて嬉しいです!」
最近は週に一回くらいの頻度で、カナがダウンズの家を訪ねてくるようになった。別に訪ねてくるのは大いに構わないのだが、他にやることは無いのだろうか。例えば恋人とか。まあ、そんな事を言えば、殴られるのは目に見えているので言わないのだが。
「別にいいんだけどさ。とりあえず上がれよ。茶くらいは出す」
「あ、ミルクと砂糖は多めでね」
「はいはい。いつも通りね」
ダウンズはカナを家に上げると、キッチンで紅茶を用意して全員に振る舞う。カナとレイラの分は、ミルクと砂糖を多く入れて甘口にしてある。
「見てくださいカナさん!こんなに字が書けるようになりました!」
「へぇ~、凄いわね。もう私より書けるんじゃない?」
レイラが自らのノートをカナに見せ、カナがそれを見て感心している。カナの言う通り、レイラの読み書きを覚える速度は凄まじい。もう普通の平民よりは読み書きができるような状態にまで成長している。
「ダウンズが教えてるんでしょ?あんたほんと、何でもできるわね。字なんて私、仕事で使う分しか書けないわよ?」
「レイラの吸収が早いだけだよ」
「それにしてもよ。ほんとあんたって、何者何だか」
カナがそんな事を呟く。カナはダウンズが普通の平民ではないことに、とっくに気付いているのであろう。だが、彼女は深くまで踏み込んでは来ない。ダウンズはそんなカナの距離感を、心地よく思っている。
「そういえば聞いた?少し前に隣町の貴族様が何者かに殺されたんだって」
「へぇ。となると、また例の?」
「そうみたい。貴族殺しによる仕業だって」
「またか。物騒な世の中だ」
「でも、私たち平民にとってはありがたいわ。だって、殺すのは悪徳貴族ばかりなんでしょ?」
「そうなんだけどな。人殺しは人殺しだ。いつ俺たちに牙が向くかわからんし」
その貴族殺しが自分だとは、口が裂けても言えない。
「それで、その貴族様も悪い奴だったのか?」
「そうなの。玉響の鶯って盗賊団と実は繋がってて、よく人攫いをしていたらしいわ。その玉響の鶯も、壊滅させられたらしいけど」
「道理で最近は行方不明者が多いなと思ってたんだ。けど、壊滅させられたんだとすると、多少それはマシになったのか?」
「それがね………実はマンタンの街では、行方不明者の数はそう変わってないらしいわ」
「ん?盗賊団は壊滅したんだろ?なんでだ?」
「それがわかったらとっくに騎士団が動いてるわよ」
「確かに………」
騎士団のアプヒズ隊が壊滅させた盗賊団の玉響の鶯。そのお陰で人攫いの数は減ったと思っていたのだが、実はマンタンの街ではそう変わっていないらしい。
玉響の鶯以外にも、人攫いを行っている者たちがいるのだろうか。
「とすると、マンタンの街もまだまだ危険だな。カナも、あまり1人で出歩くなよ」
「心配してくれるの?」
「まあ、見てくれ”だけ”は美人だし、そりゃあ心配くらいするさ」
「”だけ”は余計よ」
実際、ダウンズの家は街から少し離れた所にある。その道中で人攫いに遭う可能性もある。あまりカナを危険な目には合わせたくないダウンズである。
「今日も1人で俺の家に来たんだろ?危険だ」
「心配し過ぎよ」
「心配し過ぎる方が丁度いいんだよこの国は。レイラに会いたいなら、今度からは俺がレイラをカナのとこに連れてくよ」
「いいの?」
「別に構わないさ。レイラも外に慣れさせたいしな」
ダウンズがそう言うと、カナは少しだけ嬉しそうに表情を緩めた。
「レイラも、それでいいよな?」
「はい。勉強の息抜きもできますし!」
「やっぱり勉強は嫌なんだな………」
ずっと真面目に勉強しているレイラであるが、やはり本音は遊びたい年頃なのだろう。
「じゃあ今度、また私の店に遊びに来なさいよ。サービスするわよ?」
「まだ服買わせる気かよ………」
「まだおめかししたいわよね?レイラ?」
「はい。その、可愛いって思って貰いたいですし………」
レイラはそう言って、顔を紅くしながらダウンズを見た。ダウンズに普段見せない綺麗な姿を見せたいのだ。
「そうか。綺麗なレイラを見るの、楽しみだな」
「はい!ぎゃふんと言わせて見せます!」
「それ使い方間違ってないか?」
まだまだ言葉の勉強は必要なようだ。