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本と神様の約束  作者: 全無
第一章 冒険者と商人の奴隷
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そして旅に出る

 黒く煤だらけの部屋に足を踏み入れる。空気が波を立て煤に波紋を生んだ。


 ……何も、起こってない。


 トラップは作動しなかった。杞憂だったとわかった男は安堵の息を吐いた。心の臓が耳の横にあるのではと疑う程煩い。


 何か変化は……って、そういや入ったことなかったな。


 部屋は黒いばかりで、これといったおかしな点は見られなかった。人が三十人は入れるかと思われる広さの部屋だったが、何もないお陰か、入口から全てが見渡せた。


 人の気配もない。

 トラップによる爆発だったのか……? 今思えば、人がここに来る確率より、古い罠が何かの拍子に作動する確率の方が高い。なんで誰かがいるかもなんて、バカなこと考えたんだ。


 何もなかったことへの安心と失望。どちらも彼には虚しい感情だった。

 もっと心躍る冒険の旅。彼の望んでいるものは安心でも失望でもないのだ。


 その運命を変えるが如く、一つの呼び声が彼の背中にぶつかった。


「おはよう。よく眠れたかな?」


 バッと音が鳴るのではないかと思われる速さで、彼は背後へと顔を向けた。まるっきり感じ取れなかった気配に驚くよりも先に、その聞き覚えのある声を追いかけた。確かめたくてならなかった。


 思い、出した。


 感嘆の溜め息とともに、口から吐き出されたかどうかの判断もつかなかった。ただ、静かな現実が男の夢を染めた。


 夢を見ていた。と、思っていたんだ。夢じゃなかった。聞き覚えのある声がそれを証明してくれる。


 そのことがこの上ない喜びのようで、これだけで終わらないでくれと神に祈った。神などとうに信じるのをやめたというのに。


 振り向いた先には、一人の冒険者がいた。




 十歳前後。背丈の低いその冒険者は、キノエルと名乗った。場所を移し町中の酒場へとやってきた二人は、女性店員への注文をしていた。


「俺は果実水で」

「ここで一番美味しい料理を」


 男とも女ともつかない声。珍妙なのか、酒場の客の視線が向く。男は少し居心地が悪かったが、ダンジョンで助けてくれたであろうキノエルを無碍にはできなかった。


「君がいたダンジョン、近頃復活するかもしれなかったんだ」


 唐突に、酒場の熱気より冷めた小声でキノエルが言った。男は一瞬何のことだか分からなかったが、あの爆発のことだと思い至った。


 復活? 廃迷宮が再活動するなんて聞いたことがない。


 キノエルは男の疑問など知らず話を進める。


「魔物が最近活発化して、付近の村の被害が増えている。それは君も耳にしたことがあるんじゃないかな」

「あ、ああ」

「僕は旅をしながら、魔物が活発化する原因を探しているんだ」


 冒険者で余所者ならば、大抵は旅をしてきた者だと分かる。だからか、キノエルは『冒険者』という言葉を一度も出さなかった。すぐにその理由が分かる。


「僕は冒険者の資格は持っていなくてね。ただの旅人だよ」


 キノエルが薄い笑みを浮かべて言った直後、二人がそれぞれ注文した品が席に届けられた。

 男には果汁を薄めた果実水を、キノエルには香料の効いた分厚いステーキを。去り際に「ごゆっくり」と店員が言った。初めて見る愛想の良い店員に、男は受け取ってすぐ飲もうとした果実水を吹きかけた。或いは、キノエルが丁度良く言った冒険者ではないという言葉によってか。

 運ばれたステーキに涎を垂らしそうになるキノエル。男が吹きかけたことなど気にも留めない。いや、気付いてすらいなかった。


 話を進めようという気がなくなったキノエルは、ステーキにナイフを入れる。今は目の前の食事にしか意識がいっていない。綺麗に切り分け、フォークを使って口へと運ぶ。

 キノエルの表情はあまり豊かではないが、少々興奮しているように見受けられた。


 一方男の方はというと、先程よりも一層、話の続きが聞きたくてならなかった。

 ただの旅人というのは珍しい。吟遊詩人や旅商人ならまだ納得がいった。しかしキノエルは、ただの旅人だと言う。旅人の収入源は、情報提供、物々交換、指名手配者や盗賊の討伐などだ。そのどれもが、他に専門と呼べる職が存在している。このご時世、旅人といえば冒険者になれないお坊っちゃんか、引退した名の知れた冒険者くらいだった。


 自分の向かいの席に座り、肉を頬張るキノエルを名乗る旅人。無言で食べているが満足はしているようだ。

 ただの食事だというのに、相変わらず視線を感じる。町の冒険者は余所者に警戒するものではあるが、あまりにも露骨で苦笑するレベルだった。


 どんだけ鈍いんだ……。


 半ば呆れのような思いでキノエルの食事を眺める。男は咽たときに果実水を飲みきってしまっていた。


 もう一杯頼むか。


 貯金の為あまりお金を使うことはできないが、今日は特別だと割り切って追加の注文を行った。

 何故だか女性店員はキノエルへの好感度が高かった。


 酒場が再び活気づく。分厚くそこそこの大きさがあったステーキが、いつの間にかキノエルの胃袋に収まっていた。最後の一口がゆっくりと咀嚼され、男が四杯分待った話の続きが始まった。


「魔物の活性化の原因を探るのとは別に、僕には行きたい場所があるんだ。アイヴィジアフロレシア王国って言ってね、特殊能力者が唯一生まれる国なんだ」


 男は言葉を失った。驚きに耐性をつけたらしい彼は、今度は咽ずに済んでいた。


 アイヴィジアフロレシア王国。誰ものが知る世界三大国家の一つであり、別名バケモノの国。

 百人に一人が特殊能力者であると言われており、国力は世界第二位。中には特殊能力者一人で一国を滅ぼせると言われている。故にバケモノと呼ばれているのだ。


 あのバケモノの国に行くのか……? 流石、旅してる奴は違うな。


 恐怖からか感心からか、男はそう思いながら身震いを一つした。脳が勝手に生み出した愚策に夢を見て、そして目を伏せた。


 年はそれほど変わらない。貯金は旅をしながらでもできる。寧ろ外国の方が早く、古の迷宮に潜れるかもしれない。


「そこでやらなきゃいけないことがあって……」

「な、なあ!」


 彼はキノエルの話を遮り、歯切れの悪い口調で言った。


「お、俺も、……い、一緒に、行っても……いい、か?」と。

 キノエルは軽く、とても軽く返事をした。そう、まるで手洗いにでも行って来ると言うように。


 「うん、いいよ」。




 男は明らかに興奮していた。あの後、キノエルが何を話していたのか記憶になかった。それでも良いと思ったのだ。

 彼は夢に酔っていた。酒を呑んだ訳でもなく熱が上がる。

 男は自分が住む狭い部屋に、宿をまだ取っていないと言うキノエルを誘った。建物の二階の、日当たりの悪い部屋だ。けれども熱を冷ますには丁度良かった。窓際は、冷めた空気が風のない夜に漂っていたから。


 この数日後、男は永らく暮らした町を去った。何の前触れもなく町から消えた彼を、町の人は皆、死んだと思った。

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