2.始まり
金髪を長く伸ばし、緩い三編みで結っている。
森の緑を写し取ったような、鮮やかな緑の瞳は、優しいことが読み取れる。
腹黒かもしれないが、少なくとも、向けられた笑顔は嘘ではない。嘘なら分かる。
それが、転生して初めて会う人間。
私の目に初めて映った、生き物だ。
彼は私のことを歓迎してくれているようだった。不思議と危険は感じない。
私は彼に引かれるがまま、家に上がった。
可愛らしい家の中には、これまた可愛らしい、お伽噺に出てくるようなリビングがあった。奥にはキッチンが見える。
自然の木をそのまま利用しているように見える。
むしろ、木が自らの意思で家具になっているみたいだった。
テーブルにイスが6つある。
キッチンを向くようにして、真ん中の席に、よじ登って座った。
私が物珍しそうに辺りを見渡していると、視界の隅で、彼がお茶を入れようとしているところが見えた。
たどたどしい動きからは、彼が最近、お茶を入れていないことが窺える。
対応は良く、私を客として扱ってくれているようだ。
こんな辺鄙なところに訪れてくれる者など、滅多にいないからかもしれない。
私は彼に対し、何か話そうと口を開いた。そしてすぐに閉じる。後悔が胸にしみる。
そもそも言葉が異なっていては、会話が成り立たない。
それに加え、私はこの世界に来てから一度も、声を出していなかった。
これでは話そうにも話せず、知りたい情報も手に入らない。
翻訳機能カモン!
なんて叫んでも、意味なんてない。……分かっている。
彼がこちらを向いていなくてよかったと、二度思った。
一度目は、口を開いたとき。
二度目は、溜め息をついたとき。ついさっきだ。
言語を覚えるのは、骨が折れる。
挫けそうになりながら、それでも知りたくて努力する。数十種類もの言語を覚えたいが為に、勉強を始めたころは、何度も諦めかけた。
結局いくつの言語を覚えられたのか、今はもう覚えていない。他にも、医療や商売用品、技術、技能などの専門用語なんかを、多岐にわたって覚えてきた。
ぶっちゃけ、覚えているわけないだろう?
誰に言うでもなく問うた。
覚えてはいるのだろう。そう感覚では気づいているが、思い出せないものは仕方がない。
原因は考えられるが、今は必要のない情報だろう。
私は目で彼を追う。
鼓動が五月蝿い。
怖いわけじゃないし、緊張もしていないはずなのに……。
恐怖心はない。緊張感とも少し違う。
それでも五月蝿く鳴り響く心臓に、私は疑問符を、裏拍を打つようにして並べていた。
きっと、楽しいのだろう。これから、この世界を生きていくということを考えるだけで。
この鼓動は、ただ興奮状態を表していただけなのだ。
彼は、それはもう嬉しそうに、ティーカップにお茶を注いでいる。
踊り出しそうなほどだ。
彼を眺めているうちに、今後の計画を立てることを忘れてしまった。窓の外は闇に等しいほど暗い。
今晩はしっかり眠れそうだな。
そっと息を吐き出す。この身体には、随分無理をさせたのかもしれない。ほっとするのと同時に、転生ということへの戸惑いも交じる。
短な沈黙を破ったのは、当然私ではない。彼だ。
相変わらず五月蝿い音は消えず、耳に心臓があるのではと思ってしまう。
「お茶を淹れるのは久しぶりでね」
驚きのあまり固まったのは言うまでもない。
まさか言葉が通じるなど思ってもみなかった。
包み込むような声が、鼓膜に余韻を残した。しばらく意識が飛び、固まっていた。
その間に、カップが目の前に置かれる。コトリと小さな音がした。白いシンプルなデザインで、模様も何もない。だが、それがこの家の雰囲気に合っている気がした。
白い湯気が香りを運んでいた。ブレンドしているのか、知識にない茶葉を使っているのか、香りから種類を推測できなかった。
言葉については、ひとまずおいておくことにした。
念の為だが、毒がないか確認する。
匂いに異常はない。
口に含んだ。舌の上で味わうように、しびれがないか、変な味が少しでもしないか確認した。
毒はなさそうだ。遅効性なら毒味も何も意味がないけど……。
口に含んだ茶をゆっくりと嚥下した。面白い味だ。
緊張が和らぐ。引きつった頬の筋肉が、役割を忘れたかのように緩んだ。
美味しい。
「変じゃなかったかい? 口にあうといいんだけど」
彼が心配そうにこちらを見つめる。
少し気恥ずかしい。自分の姿がわからないからだろう。
私は言葉の代わりに、笑みを返した。下を向いてしまった為、上手く返せた気はしない。
だが彼が、安心したのか笑ってくれた為、おかしくはなかっただろう。
自分の笑顔には確かに、言葉を理解できたという喜びもあったのだろうと思う。
「自己紹介がまだだったね。やあ、僕はユノアナ。よろしくね。ユノでも、ノアでも、好きなように呼んでくれていいよ」
いきなりそんなことを彼から言われた。
いや、もう彼ではなくユノアナといった方がいいだろうか。
私は一言も返せなかった。
言葉が通じるのか分からない。だからといって、何も言わないのは失礼というものだ。それでも、言葉が出てくることはなかった。
「………」
ティータイムが、しばらくの間続いた。口を開く度、話そうかと考える。それでもやはり、話すことはない。
その時間は両者とも無言で、物音と鼓動だけが、脳が耳になったかと思うほど、響いていた。
「君の名前は何かな?」
ユノアナが、しばらく経ってから聞いてきた。
「………」
変わらず無言で返す。
「何処から来たんだい?」
無口キャラを貫くことにしよう。
変な設定ができてしまった。
「………」
「一人なのかい?」
一人といえば一人かな。
「………」
無口で居続けていると、ユノアナは質問の仕方を替えてきた。
「……帰る場所はあるのかな?」
私は首を横に振った。初めて示した意思だった。
髪がびしびしと顔にあたるが、そんなこと気にしない。
自分がどんな顔をしているのかは、分からない。
「………ここに、いるかい?」
最後の質問。ユノアナは、囁くように優しく、そう言った。
ユノアナの心情を読み取ることはできない。何か企みがあるのかもしれない。ないかもしれない。
わかることは、今は生き抜くことを最優先にするべきだってことだ。
当然、返事は『YES』だった。
それ以外に選択肢など、ないのだから。
こうして、この世界で暮らす場所を手に入れた。
居候ではあるがな……。
そしてこの日、この後の記憶はあまりない。
疲れて寝てしまい、とても良く眠れたことだけは覚えている。眠りが深くて、夢を見ることはなかった。
目が覚めると、見慣れぬ天井が目に入った。
木組みのきれいな組み目だ。
おまけに背中に痛みがない。ふかふかのベッドが感触で判る。
このまま二度寝しよう。……うん、そうしよ。
昨日までのことが全て夢であると。
ふかふかのベッドに、違和感はあまりない。天井は、どこかの洒落た病院だと思えばいい。
頭を打って見た、おかしな夢だったのだと……。
溜め息が漏れる。
いつもなら、今頃雪乃が叩き起こしに来るのにな…………。
穴が、胸に黒い斑模様をつくる。
『もう、雪乃には会えない』
そんな台詞、私に言う権利はない。
言えばきっと、怒るに決まっているから。
体を起こし、眠気を覚ますと同時に、心に蓋をする。
バシッ。
気合いを入れる為、両頬を叩いた。
いい音が響いた。できれば誰かに殴ってほしいところだったのだが、流石に頼むのはやめた。
自分でやったのだが、結構痛い。
数十秒して、自分から見て右奥にある、部屋でひとつだけの扉が、内側に開いた。そこには、ユノアナが立っている。
さっきの音が聞こえていたらしい。
「どうかしたのかい?」
私は何も言わず、ベッドから飛び降りてユノアナのもとに向かう。自分の身長が低いのか、ユノアナの身長が高いのか。ユノアナと約1mの距離に立ち見上げると、首が痛くなった。
じっと見つめていると、「朝食にしようか」と言って道をあけてくれた。察するのが上手い。
ベッドの隣の机に置いてある荷物を持ち、私はユノアナの後を追った。
部屋を出ると長い廊下だった。向かって右に進んだ。
金属らしきものでできた照明が、等間隔で壁についている。その間には窓があるが、外は見えなかった。
夜ではないはずなのに。
部屋の扉がいくつか並び、一番奥の扉の前に来る。
ちょうどユノアナの胸の高さに、宝石のような飾りがある、他とは違う扉だ。
ユノアナはその宝石のような装飾に手をかざした。すると、扉はひとりでに開いた。自動ドアというものがあった前世を考えると、驚くことはなかった。
扉の向こうは、あのリビングだった。
昨日、茶をもらった席に座り、朝食を食べた。ユノアナはその向かいに座っている。
朝食は、フレンチトーストにミルクで、特に変わったものではなかった。
勿論、私は終始無言で、ただ食べていた。
ユノアナはというと、朝食後、部屋の案内をすると、用事があるからと出かけた。
私はユノアナの背中を、呆然と見上げていた。
………見上げていた。
この世界に来てよかったなどと、今はまだ思っていない。
スタート地点が森で、体は子どもで。
よかったことをあげるとすれば、ここに家があったことと、夜空がきれいだったことだけだ。
ここがファンタジーかなんて、考える余裕もなかったんだ……。
「……魔法、だ」
感動が、口から溢れた。
喋ることができたことを認識するまで、数秒を要した。
『試験をクリアしました』
!?
突然、頭で機械音声のような声がした。
…………え??
頭が爆発するのではと思うほど、混乱しているのが自分自身でも分かった。
機械音声のような声は、またも私を混乱させた。
『消去された記憶を復元します』
『成功しました』
声の言った通りに、記憶が戻った。過去の記憶が押し寄せ、無理矢理流れ込んでくる。
これって………。
このとき、私は知らなかった。この世界のことも。自分自身のことすらも。