1.転生
あぁ、白米が食いたい……。
フェルは毎日変わらない食事を見て思った。普通のパンとスープが目の前に並んでいる。
ここは簡易テントの中。テーブルや椅子はなく、床に皿が置かれている。少し躊躇いながらもパンを手にする。
とはいえ、以前よりは美味しくなっているのだ。それでも、同じものを食べ続けるのには無理がある。
仕方がないと、パンにクリームを塗って食べる。
ホント、何でこうなったんだよ……。
フェルは、テントの外から聞こえる声の主たちを、見えもしないのに視線だけを向けていた。
さかのぼることひと月ほど。
気付くとそこは、見覚えのない森の中だった。私は草の上に仰向けで横になっている状態だった。視覚がはっきりすることから、ある程度成長しているのだろうと推測できる。
転生したら赤子からだと思ったが、そうでもないらしい。
ここはどこだ?
半ばどこでも良いと思いながら、私はここがどこなのか疑問に思う。
日本なのか、海外なのか。地球なのか、異世界なのか。
私は体を起こしながら確認する。
私の知る限り、知っている場所ではなさそうだ。
雪が所々に積もっており、葉をつけた木々が伸びている。周りの木々は、私の知っている木に似ていた。
ここは地球なのだろうか。
そんな私の考えを、嘲笑うかのように冷たい風が吹き、そして、いとも簡単に砕けた。
それは、ずっと気付いていたものだった。
私が生きた地球では、異質な程の鮮やかさの髪。風が吹いた瞬間、ミディアムヘアの髪がなびき、私の視界に見落としようがない程に映り込んで来た。
毛先が黒く、青系の色のグラデーションになっている。頭の方はよく見えないが、白に近い色だろう。
髪を見ると同時に、私は自分の手を見た。小さく幼い、傷一つない綺麗な手だ。
地球では、染めなければあり得ない程鮮やかな髪の色。自分は子どもで、知らない森の中にいる、と。
これだけでは、どこなのか分からない。
私は出来る限り情報を集める。
雪に埋もれて気が付かなかったが、私がいた近くに、木材で編まれた籠があった。何か分かるかもしれないと思い、籠の中を漁ると、一冊の本が目に留まった。
その本は、前世であれば片手で持てる程の大きさの本だった。
淡いカラフルな表紙に、無数の花弁のような模様が、濃い色から薄い色まで、不規則に散りばめられている。
美しく、何故か胸を締め付けられるようなこの本には、タイトルや著者などのことが一文字足りとも書かれていない。
私は本を丁寧に扱うようにして、右手で表紙をめくる。どこで知ったのか、この本の裏表や上下が感覚で分かった。
開いた本は期待外れで、どこを見ても白紙が続くだけだった。
それなのに、そんな本に少しだけ安堵する自分がいた。
未知の世界かもしれない。そんな場所の知識を、こんな容易に得てしまうのはつまらないだろう。
それに、ここが地球だとしても、書かれていたことが、私の知っていることだとしても、それはそれでつまらない。
転生したのなら、楽しい生活を送りたいと思うのは当然だ。
まあ、ここが異世界かは分からないけど………。少なくとも、自分が日本人や外国人と同じではないことは分かる。
ひと先ず本に関してはおいておくことにして、私はまた籠の中を見る。
中には、ナイフと黒いローブが入っていた。
分厚く頑丈なナイフ。つまり、サバイバルナイフである。それが二本、革でできた鞘に収まった状態で入っていた。
それに加え、今自分が着ている服は、戦闘服に似ている。
動きやすく、収納ポケットがいくつも付いている。ズボンではなくスカートだが、これもまた動きやすいものだ。
靴は底の厚いブーツで、サバイバルナイフを取り付けられるようになっている。
私は片方のナイフを右足のブーツに取り付け、もう片方は腰のベルトに括り付けた。
神からの試験か何かなの?
そんな考えが頭に浮かぶ。日本人で、一つの宗教に入っていないせいか、神に仕えるどころか、信じることさえはっきりとは難しいのだ。ましてや別世界の神を信じるなんて、神話を読んで初めて考えるようなことだ。
もう異世界ってことでいいか。
たとえ地球に生まれ変わったとしても、同じ世界とは限らない。赤子からではなく幼児で、家や施設ではなく森。この時点で異世界の可能性が最も高いのだから。
先ず、森で生き抜く為に食料と水の確保をしなければならない。水分が多い木の実があればいいのだけれど。
私は籠を手に辺りを歩き回る。
闇雲に歩いてしまうのは、自分の身長が低いせいだろう。木の葉で太陽の位置が掴めない上、どこを見ても景色が変わらない。
私は食べられる木の実を探す。地球ではない可能性が高い為、毒があるかもしれないが。
しばらく歩くと、遠くの木に橙色の実がなっているのを見つけた。近づいて見てみると、夏みかんだということが分かった。
時期的に少し早く感じる。狂い咲きが起こったのかもしれないし、そもそも夏みかんではないのかもしれない。
転生ということもあり探究心を唆られるが、ここはひと先ず自重しておく。
ナイフで取り皮を剥くと、口に入れる。
案外いけるな。
酸味と甘味のバランスが程よく、このままでも十分美味しく食べられる。
私は籠に何個か取って入れた。栄養が傾くが、そんなことは言っていられない。何せこれがなければ、私は転生して数日で異世界とおさらばしなくてはならなくなる。
そしてまた、闇雲にでも歩く。
私は前世のど田舎暮らしを活かして、食べられる木の実や茸を採っていく。怪我をした際、傷口から菌が入り込む可能性がある為、使える薬草なんかも採っておいた。
籠に入る分だけ入れる。お腹が空いたら食べる。そして歩く。
そんなことを繰り返しているうちに、森の中は少し薄暗くなっていた。
小さな身体で歩き続けて疲れたのか、休憩したくなった。
日も落ちる頃だし、この身体なら仕方ないと私は思った。
籠の中から黒いローブを取り出す。羽織ろうとすると、中が白いことに気づいた。
リバーシブルなのか。オシャレだな。
などと、感想が出てくる。
羽織ると風が遮られ暖かい。着ておこうと思う。
これから暗くなるだろうから、今日はもう眠ることにする。身を隠して眠れる場所を探す。
丁度良い木を見つけると、根と根の間に入り、幹に寄りかかるようにして座る。思った以上に疲れていたらしく、目を閉じたら瞼が重く感じた。
羊を百匹数える時間がないくらいの早さで、私は転生して初めて眠った。
目が覚め、周りを見ようとしたが見れなかった。厳密には、見えない訳ではない。目は開いている。私が見ているのは、暗闇だった。
前世での幼少期、私はど田舎暮らしのおかげで自然の中で生きることに慣れていた。山、森、海。どこも、夜は星がなければ完全に闇の世界だった。
どうやら私は、夜中に起きてしまったらしい。別に文句も何もないが、夜には動きたくはない。だからと言って、二度寝しようにも眠れそうにないのだ。
脳内でうんうん唸っていたら、だいぶ目が暗闇に慣れたのか、少し辺りが見えるようになった。
仕方ないので、夜の街もとい、夜の森を探検しようかと思う。
夜の街なら夜景が綺麗で良いのだが、夜の森は綺麗というより怖いだろう。自分はそれほど怖くはない。慣れている。
鳥や虫の鳴き声が聞こえるかと思ったが、風の音しか聞こえない。わたしは妙に思いながらも、暗い森の中を歩いていった。
何もすることがないというのは酷なものだ。今の状態は、何もしない方が良いからなのだが、転生したというのにつまらない。
魔法やスキル的なものがあれば良いのだが、今のところ調べる術がない為、保留となってしまっている。
それはさておき、衣食住の住を手に入れなければならないわけだが、ここは森の中だ。
森で暮らすという選択もあるが、子供の身体では無理だろう。その為森を抜け出し、街や村を探すことになるのだが、森を抜け出そうにも、現在地も方角も分からない。
闇雲にではあるが、歩いてきた場所に道らしきものはなかった。この近くに人がいるとは考えづらい。
森を出る為、私は高い木を探すことにした。
木に登って見渡せば、方角が分かるだろう。なるべく高く、周りの木と差があれば、森を見渡しやすくなる。
雲がないのか、木漏れ日のように月の光が差し込む。
どれほどだろうか、長いとも短いとも感じられる時間が経った。
広葉樹が立ち並ぶ中、ひときわ大きい針葉樹の巨木があった。一番低い枝まででも、自分の身長の何倍も高さがある。
前世でど田舎暮らしだったことに感謝したい。
薬草や山菜などの知識も、幼い頃の暮らしがあってこそなのだ。だが、母の職業柄、どちらにしろ学んでいただろうが。
私は、木の実を採ったときのように、前世での経験を活かして、木に登る。幹にしがみつき、最も近い枝によじ登る。そこからまた、近い枝へと移る。
小さな身体は、前世のど田舎暮らしの頃に似ていて、あの頃に戻ったかのようで懐かしい。
枝から枝へと移り進んで、飛び降りることができないほどの高さまで登った。
移り進むことを繰り返すうちに、体力が限界に迫っていた。高校生時代を基準に考えていた為、自身の限界が分からなかったのだ。それに加え、籠を持ちながらだと余計疲れる。
少し休憩するとしよう。
太い幹に寄りかかり、籠を抱えて座る。寝たときと視線の高さが違って面白い。
ま、どこを見ても木しかないんだけどね……。
一息ついたところで、また木登りを進める。相変わらず夜は明けず、暗いままだ。時刻では、ニ時から四時と言ったところか。
籠を持ちながらの木登りもだいぶ慣れ、五分足らずで森を見渡せる高さまで辿り着いた。
綺麗だ。
口を開けはしたが、声が出なかった。無理もない。転生してこの身体になってから、一度も声を出していないのだから。
だからといって、今喋ろうとは思わない。
辿り着いた先に広がる景色は、何度も見たことのある景色。しかし、何度見ても絶景だと思える景色だ。
闇に輝く星々は、気持ちを落ち着かせてくれる。見える星は、記憶にあるものと重なる。春の星空。
しばらくの間、その景色を眺めていた。星も星座も、地球のものと同じだ。
そのとき、眺める星空の視界の左側が、白くなりかけていた。夜明けだった。つまり、そこが東というわけだ。
光る星がだんだんと消えゆく中、牡牛座と牡羊座が微かに見えた。
私は、まだ星がはっきり見える西の空を見る。反射的に、枝の上に立っていた。西の空には、よく目立つ夏の大三角があった。
時間、星の位置からして、春。見える星座から、五月頃ってところかな。向いている方向が南か。
ある程度、知りたいことは知ることができた。
ここから森の境が見えないかと期待したが、どこまでも続く森の木々が見えるだけだった。
やがて、闇を照らす白い太陽が昇る。自分の髪のように、空がグラデーションに塗り替えられる。私はそれを、立ったまま眺めていた。
日が完全に昇り、森の木々は数時間ぶりの日に背を伸ばす。
起きていたおかげで、目を痛めることはなかった。
木の上から眺める森は、下から見た鬱蒼とした景色とは違い、明るく生き生きとしている。
ある程度知りたいことは分かったし、そろそろ下りよう。
何も見なければ、このまま下りていただろう。
東の空に、一本の線が立ち上がった。遠くはない。
速く歩けば、この身体でも今日中には着けるくらいの場所だ。もっとも、着くのは夜になるだろうが。
狼煙、いやただの煙かもしれない。火事などではなく、意図的につけられた火によって出た煙に見える。
たとえ人ではない別の生き物だったとしても、今の自分にとってそれは、宛のない旅に行き先を見つけたようなもの。
ここは恐らく異世界。何が出るか分からないが、進まなければ意味がない。
ひとつ飛び出た針葉樹の大木が、まだ昇ったばかりの太陽の光を、周りの木々たちよりも独占する中。
私は生い茂る葉に、眩しい光から逃れるように入って行った。
方角は確認済みだった。コンパス(注・羅針盤)があるわけではないが、だいたい北よりの東方向だったと記憶している。
下りるのにそれほど時間は経っていない。人が野営しているのであれば、移動される前に着かなければならない。子どもの身体で追いかけるのはつらい。
そうなれば、一刻も早く進む必要がある。
私は重い脚を動かす。慣れない為に重く感じてしまう。
できる限り速く、目的の地に向かって進んだ。
どれほどの時が経ったのか、正直よく覚えていない。ただ、もう随分と進んだだろう。
籠の中の食料――食料というよりは採集物というべきもの――は、3分の1ほどなくなった。
昨日は集めながらではあったが、今日ほどは食べていない。
木漏れ日が頭上から降り注ぐ。わたしは、ローブのフード部分を深く被った。
それからまた時が経ち、辺りが微かに、本来なら気づかない程度に暗くなった。
そう、本来なら気づかないはずの暗さ。空の色が、木の葉が邪魔することもなく、確認することができた。
目の前にたつものは、幻ではないだろうか。
目の前にひろがるものは、夢ではないだろうか。
よくよく考えてみれば、大人の足だとしても半日以上はかかる森の奥。そんな場所に住むような物好きなのか。あるいは人ではないのか。
どちらにしろ、見た瞬間、ここが異世界だと確信した。
異世界にも物好きは存在するのか……。
いや、異世界ならあり得るな。
私は立ち尽くしていた。
冷静になればなるほど、この状況に疑問符が貼られていき、頭が蒸発するかと思った。
ぽっかりと穴が空いていた。真上から見ればクレーターのように見えるだろう。木々のない空間。
ほぼ中央には、小さなログハウスが建っている。
森を背景にしたそれは、小人の家のようでもある。
お伽噺にしか出て来ないようなログハウスの煙突からは、白い煙が雲を追うように上っていく。
「✕✕✕✕✕」
何を言ったのか、私には上手く聞き取れなかった。声が聞こえなかったのではなく、音を理解できなかったのだ。
恐らく、日本語を含む地球の言語、それ以前に、発音の仕方ですら違うのかもしれない。
そのときの私には、言語よりも、目の前のそれに意識がいっていた。小さな家の、可愛い木の扉から出てきた人物に。
綺麗だ。
初めに見たときの感想は、それだけだった。
森の妖精かとも思った。ただただ、背景に似合い過ぎて、絵の世界に入った気になる。
日本人ではない。それ以外でもない。外国人という容姿に近いが、少し違う。
もういっそのこと、妖精ということで終わらせたい。
でも妖精ではない。人間だ。
自分の目には、そう映っている。
綺麗な人だった。初めて出会った人間というだけで感謝したい。
美しいが、妖精の可愛らしいイメージは全くない。
神秘的な雰囲気をまとった肖像画に見える。
華奢だが、均整のとれた、森で暮らすには充分な筋肉を持っている。
誤解しないでほしいが、別に見たくて見たわけではない。
着ている服が悪いのだ。
胸や腕の露出したゆったりとした服は、綺麗に写された緑をしていた。葉の色だった。
その人物は、女と見紛うくらい美しい。
男だった。
この世界で初めて会う人間だった。