13.名前
彼の名はユウギ。そう、私は呼んでいる。彼の本当の名を私は知らない。ゲームばかりをやっているから、一方的に名をつけた。
『名前がないならつければいい』
『呼べばそれが名前になる』
『呼ばれればそれが名前になる』
『私の友達がそう言ってた』
『だから、ユウギ。これから君の名はユウギ』
私が、名前をつけた。
ふわふわした感覚が身体に纏わりついて、空にいるように心地良い。でも、ここは何かが違う。
軽かった身体が重力の存在に気づき、落下していく。浮遊感が失われ、替わりに内蔵が落下に合わせて動く。気持ち悪さは感じず、逆に気持ち良いとも思えてきて、面白くなって笑った。
そうだった。名前をまだ決めていない。彼らに名前をつけてあげよう。始めは三匹だけでも……。
……息が、できない。視界がいつまでも黒い。
目、開けたよね…………?
目を開けても暗い視界に、未だ夢なのかと自己を疑う。叫ぼうとしても叫べずにいると、上に乗っていたものが退いていった。
「良かった……」
不意を打つように流れ込んだ意思に、思わず息が止まる。間違いなく、退いていった狼から伝染したものだった。驚きのあまり汗で身体中が湿っていることにも気づかなかった。寒気が走り初めて気づき、べたべたとした感触に眉の間を狭めた。それは一匹の狼への疑問も含めたものだった。
確かにはっきりと聞こえた。想いより強い言葉が。試しに話し掛けてみるが、返事は当然ない。何だったのか不思議だ。
とりあえず、夢の記憶が消える前に彼らに名前をつけよう。正直思いついたときはこれで良いのか悩んだ。我ながら捻りがなさすぎるとも考えた。しかし、一度浮かんだ名に執着してしまった。自分が、ここから曲げることがない性格だということも自覚している。
狼の見分けはできない。それでも、どれがどの狼だったかはわかった。だから……
「ガロウ、ガレウ、ガラウ」
私を死に追い詰め、二度目では始めに襲い掛かってきた狼をガロウ。
左頬を舐められたが、身体を支えてくれた狼をガレウ。
聞き間違いかもしれないが、確かに安心した感情と良かったと言ってくれた狼をガラウ。
一匹ずつ指し示しながら、その決めた名を呼ぶ。声が彼らに届いたと思われたとき、自分の中にあるものが動き出し、色を変えていくような曖昧な感情が心を満たした。変化を己の身をもって感じ、魔物の名付けを行ったのだと実感する。
夢が未だ鮮明に残っているためか、ユウギのことを思い出しほんの僅かだが涙ぐむ。目尻に浮かぶそれを指先で拭い、「あ」と声を漏らす。口を「あ」の形で固定し、身体をも硬直させる。頭だけが高速で動いていた。
記憶が戻りそうになり、生命活動と脳以外の活動を停止させ――
《黒狼・白狼・灰狼の命名を確認しました》
――ていたところに、イレイアの機械的な堅い声が割り込んできた。浮かんだ記憶は輪郭がぼやけ、曖昧なものになっていた。ガロウ達の名付けがデジャヴのように記憶と重なって見えたのは、ユウギの夢の所為だろう。私のことなど気にも止めず、実際はスキルとしての使命を全うする為、言葉が続く。
《個体名の取得により、進化条件を満たしました。従魔三体の進化が可能です。
進化を開始しますか?》
…………ん、………………は? はい?
戸惑い、疑問形になりながら返答する。訳がわからない。
あぁ。ここ、異世界か。
うん、納得した。
名付けられた狼三匹が、次々に倒れていく。眠るように静かな呼吸音が聞こえ、視線だけを向けて確認する。壊れたように動けない。茫然とした状態のまま思考を巡らし、私は関係のない方向へと思考を逸らした。
今、何時だっけ……?
ギギギ……と音が響きそうなほど錆びついたまま、仰ぐように顔を上げる。いつの間にか、空は雲に覆われて太陽の位置が分からなくなっていた。何分何時間寝てしまっていたのかも分からない。だから、時間の計算もしようがない。
どうしようもないので諦め、今できることを考えることにした。崖に立って下を覗けば、土魔法で作った足場が異物感満載で存在を主張していた。
安全重視で作ったからか、狼が一匹乗ったも余裕なほどだ。
雲行きが怪しい為、できるならば屋根のあるところで野宿がしたい。足場に狼が通れるくらいの穴を開け崖に進めば、丁度良い洞穴ができる……はずだ。
魔力は回復途中で、疲労感は未だ残っている。あまりやる気にはなれない。それでも濡れるよりはマシだと自分に言い聞かせ、私はまた魔法を使った。
あ〜〜〜、しんど。
声には出さないまでも、思ってしまえば従魔であるガロウ達には届いてしまう。感情が筒抜けというのも困りものだと思う。
水魔法で水を土に染み込ませ、軟らかくして掘ってきたのだが、三十分以上掛けて元々の崖だった土に辿り着いた。今までの努力が水泡に帰した気がしながらも、崖に魔法をかけ続ける。
魔力で物質から生成するときと違い、現存する物質を使用した魔法は、少ない魔力で発動できる。崖の土を動かすだけならば、魔力の節約もできているばずだ。それでも、残りの少なかった魔力を使うのは骨が折れ、砕かれるように疲れる。
掘った土は全て崖下に落としているが、音はあまり聞こえない。谷ならば向こう岸があって反響するはずだ。広くて反響しないか、向こう岸などないのか。
今は下りた後のことを考える気力がない為、谷であって向こう岸を登ることになろうと、どうでも良かった。
刻一刻と暗くなる。そんな中、進化中のガロウ、ガレウ、ガラウの三匹ではない狼の一匹が、崖上から私に瞳を向けていた。どうかしたのかと、感情を乗せた目で見つめ返す。狼の澄んだ瞳に私が映ったが、髪が乱れた見窄らしい幼女がいるだけだった。あまりにも乱れた髪の所為で、その顔を覗くことはできない。
ほんとにどうしたんだろ?
微動だにせず見下され、不安が胸を過ぎろうとしていたときだった。伏せていた狼が起き上がり、降ってきた。軽やかな足取りで私を華麗に躱し着地する。
私を避けて崖に近付いたと思うと、前足で土を掘り始めた。私の二倍も三倍も早く穴が広げられて、狼が一匹入れるほどの穴が出来上がった。そんな中、私は一人、睡魔という敵と闘っていた。
朦朧とする意識で、私は目の前の狼達を眺めた。ふらつき立っていることもままならなくなり、その場に座り込む。
洞穴と呼べるくらい大きい穴が掘られた後、進化中のガロウ達が運ばれてきた。結構雑な扱いに、ちょっと不憫に思う。進化したら彼らは、他の狼達より上位になるはずなのに……。
ポツリ、と頬に滴が掠ったのを最後、今度は深い眠りについた。
光の射し込まない暗がりで、私は狼よりも早く目を覚ました。濡れていなかったことから、運ばれたことがわかる。
今日は崖下に下りようと考え、朝の支度を済ませる。着替え、顔を洗い、服が汚れるのも厭わずに裾で拭う。
水が入らないように埋められた背ほどの壁を魔法で壊すと、一昨日のような晴れ渡った空が目を焼いた。
…………十日目の朝。
魔法を使い、エレベーターのようにして下りることにした私は、狼達を起こすことなく作業を行った。ガロウ達の進化は終わらず心に焦りがあることに私は気付かずにいた。
日記を付け、本の解読を進めようとしたとき。ふと、夢でのゲームを思い出した。ゲームは多種多様性で、リアルに近いものから、SFや近未来なものまで。主人公はあらゆる者になることができる。ジョブや種族を選ぶことも可能だった。
ステータス。
名前、種族、職業、技能。
異世界にはありがちなそれを、転生に舞い上がっていた頃にも思いつかなかったとはと、少し落ち込んだ。
色んなゲームをしてきた為、プレイヤーだけが見える。登場キャラも見える。鑑定のような能力を持つ者だけが見える。そのどれなのかは分からない。そもそも、ここが異世界だとしてゲームと同じかは不明なのだから。
聞いてみるか。
イレイア先生をお呼びしよう。
ステータスを表示して。
《ステータスを表示します》
答えられる質問には応えるイレイアが、反応を示した。ヴゥンと音が鼓膜を震わし、目の奥に文字が浮かぶ。
名前:ヴァイオレット
性別:不明
年齢:不明
職業:未定
技能:――
称号:――
従魔:黒狼、白狼、灰狼。
黒狼、他五匹。
白狼、他四匹。
灰狼、他四匹。
武器装備:――
1/1
1分の1……?
頁数だろうか。本には頁数などなかったが、ステータスだとあるのか?
技能、称号、武器装備が表示されないのは何でだ?
名前はヴァイオレットになっている。
性別と年齢が不明なのは予想通りだ。
ステータスがあったことよりも、表示された内容に思考がいく。魔法を一度止め、ステータスについてイレイアを交えて考える。
自身の抱いた感情に気付かない私は、その感情が激的に色を変えるのにもまた、気付くことはなかった。
ステータスの表示は、視界が二重になるように透けて見えた。ステータスと本を同時に視界に入れ、意識すれば片方の視覚情報を気にせず集中できる。
本に没頭し、ステータスの情報に脳の大部分を使い、イレイアの説明を聞く。イレイアの説明に集中しようと、普段の二倍になった視覚情報を遮断すべく目を閉じる。
何度も繰り返し、時間を忘れ、魔法を止めていることも忘れていた。
「……い、…………い!」
煩いなぁ、忙しいから後にして。
「おいッ! 聞いてんのか!!」
煩わしい声に集中が途切れ、苛立ちから「煩い」と声を荒げる。煩いと言ったにも関わらず、その声は大きさを増した。苛立ちが怒りに変わり、声の主に振り返って怒鳴る。
「煩いって言ってるの!」
吊り上げた目で睨み怒鳴る。そのまま睨み続ける、つもりだった。
気付けば狼達は目を覚ましていた。その背後に、三人の少年を隠すようにして。
瞼がなくなるほど目を開く。声の主であろう者は、黒髪と吊り上がった目をこちらに向け、牙のような歯を口から覗かせたいた。
他の二人は、黒髪の少年と比べて比較的大人しそうな印象だ。
…………うん。うん? …………………………………………誰?
「えっと……つまり、進化したら人になった? 本当のほんとにガロウ達なの?」
「だから言ってるだろ。俺がガロウで、こっちがガレウとガラウだって。ご主人サマなら気付けよ」
ガロウと名乗る少年は、進化して人の姿を手に入れたと言う。ガレウとガラウをそれぞれ示し、確かに名を呼んだ。
なんとなく、不満な気持ちが流れ込んでるのは分かるけど。
《従魔ガロウ、ガレウ、ガラウの三体は、進化によりEXスキル『人化』を獲得しています》
否定できない情報がっ……。
なるほど。だから、服着てないのか。
最初に服着ろよとか思ってごめん。
男の子なのは見て分かった。服を着ていなかった為近づかないようにしていたけど、可哀想なので適当に服をやる。私より少し大きいが、収納魔法の中にある服が着れて良かった。
兎に角、前向きに考えることにした。EXスキル『人化』の名からして、狼に戻ることもできそうだ。
狼を乗せた足場を動かすのには、相当な魔力を使っている。それが、ガロウ達が人の姿であるだけで大きく消費量が変わるのだ。
試せていなかったことができる。
崖にくっついた足場が、文字通りのエレベーターと化す。魔力は有り余っていた為できることだ。
使っていなかったっていうのが理由だけど。
隣で元気な悲鳴が響く。狼の毛を掴み、必死にしがみつくガロウ達は、きっと内臓が浮かぶ感覚は初めての体験だろう。私はそれどころではなかったが。
始めからこうしてれば良かったんだ…………。
そう、後悔に苛まれていた。無駄に魔力を消費したとしか考えられなくなっていた。
魔法を使うことに関して、無駄ということはない。魔力は使えば使うほど洗練されていくものなのだから。
しかし、私はそれを考えられるほどの余裕がなかった。
頭を抱え情報を整理しようと脳を動かす。
ステータスの存在。
ゲーム世界の可能性。
従魔の進化及び人化。
〝1/1〟の意味。
遂に崖下に下りた。
崖下まで辿り着き、先ずは遅めの朝食となった。
狼達には肉を与え、私は果物を食べる。何故かガロウ達も果物を所望するので、同じ物をやった。
咀嚼音と風音だけが響く中、新たな音が私に問う。
「で、名前なんてんだ」
「…………?」
質問の意図が分からず黙りこくる私に、ガロウが言い直してくれる。
「ご主人サマの名前だよ。なんて言うんだって聞いてんの」
「あぁ、名前か」
やっと理解できた私だが、それに更に声を詰まらせた。
どれを名乗ればいいのか、分からない。
ミコトか、ヴァイオレットか、その他の名前か。
この世界に来て、私はミコトと名乗ることはしないつもりだった。私のような転生者や異世界人がいるかもしれないとは考えもした。ミコトという名が嫌いな訳ではない。ただ、ミコトとは、呼んで欲しい人に呼ばれたいとも思った。
ヴァイオレットは、ユノアが付け、気に入ってくれた名だ。ミコトでないのなら、ヴァイオレットと名乗るのが妥当なのだが、声に出せなかった。出そうとした瞬間、フラッシュバックするようにユノアとの数日間が鮮明に思い起こされる。だから、これも違うと思った。
その他の名前と考えたとき、これは彼の求める答えではない気がした。
これも違う。
『君の心に触れたいと思ったから』
『良い名前だろう?』
そうだね、ユウギ。
「フェル。俺の名前はフェル」




