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リリーの花

作者: 冬乃秋猫


 リリアンナが心のうちに秘めて、ずっと思いを寄せていたジルベールは、思いがけず別の人のものになった。




 幼い頃から気心知れない仲で、それこそ何でも言い合った。喧嘩も無視も絶交も、色んな言葉を口にしても、二人はいわば腐れ縁のように。


 ―――運命の人、だと思っていた。


 相手はジルベールから見れば格上の家柄の一人娘。街中にある流行りの店で偶然知り合ったのだという。

 リリアンナが家業の手伝いに明け暮れる毎日にやっと体が慣れてきた春、友人からその話を耳にして、思わず目を見張った。けれど、自分でも驚くほど瞬時に笑顔を張り付けて平然を装うことができた。


 仕事に打ち込んでいた適齢期のジルベールは、断る理由も選択肢も持ち合わせていなかった。何より、ころころと笑う愛らしい婚約者の隣で、ジルベールも優しい笑みをたたえていて、リリアンナは口を引き結んで精一杯の言葉を紡いだ。

 聞けばジルベールは、あと半年もすれば父親になる。


「おめでとう、ジル」

「ありがとう、リリー」


 日夜床に伏せて枕を濡らすような性格ではないと、リリアンナは自分に言い聞かせた。

 そして、リリアンナが涙をこぼす前に、お前の嫁ぎ先が決まったと、父から呼び出しがあった。




 大公国の朝は早い。夜明け前に朝食の準備を済ませて、リリアンナは規則正しい寝息が聞こえてくるドアをノックした。


「エルヴィスさま、おはようございます」


 返事を待たず部屋に入り、枕元に近づく。何度か肩を揺らせば、少し骨ばった指先がぴくりと動き、ゆっくり瞼が開いた。


「……おはよう、リリアンナ」

「おはようございます」


 嫁いだときからずっと、八つ離れたエルヴィスにリリアンナは敬語を崩さない。周りでは、二人だけの時は歯に衣着せずくだけて接する夫婦が多い中、リリアンナは頑なに突き通した。


 どこかで、誰かとエルヴィスを比べてしまう自分がいることに気づいている。


「着替えは準備できております。朝食は」

「道中で食べるよ。バゲットはある?」

「はい、一緒に包んでおきます」


 エルヴィスは袖を通してカフスボタンを留めると、姿見でちらりと確認し、足早にリリアンナの横を抜けて寝室を出る。


 二人が一緒に過ごす時間は少ない。

 エルヴィスは夜明けと同時に家を出て、夕闇が濃くなる頃に戻ってくる。仕事内容を詳しく聞いたことはないが、一般より長い勤務時間に愚痴の一つもあってもいいだろうに、仕事の話は食卓に上らない。


「行ってらっしゃいませ」

「うん、ありがとう」


 帽子のつばに手を添えて、エルヴィスは玄関先で一度リリアンナを振り返り、藍色の瞳を向けた。


「え、…」


 リリアンナが一瞬言葉に詰まっているうちに、エルヴィスはきびすを返して、街頭にいる乗り合い馬車へと向かう。


「……お気をつけて、エルヴィスさま」


 手を挙げかけたまま、リリアンナが呟いた言葉は声にならず、エルヴィスに届くこともなかった。

 しばらく呆けてたたずんでいたリリアンナは、木立の隙間から差し込む朝陽に目を細めた頃、ようやくシーツを洗濯しようとしていた事を思い出した。


 ただその日、乾ききったシーツで寝室を整えても、夕食のスープを温め直しても、一向にエルヴィスが帰宅する気配はなかった。




 満月が天に昇る。深夜を回り、窓から月明かりが差し込む1階の寝室は静まり返っている。


 リリアンナとエルヴィスは同じ寝室を使っていて、同じ時分に床についても、だいたいリリアンナの方が先に眠りにつく。一度だけエルヴィスが寝るのを待とうとしたが、リリアンナは結局睡魔に耐えきれず意識を手放した。


『旦那さまがプレゼントをくださって』

『今度の休暇に東の領地へ旅行に行くの』


 午後のティータイム時の会話が断片的に思い出される。

 珍しく気持ちが上向きだったリリアンナは、嫁いでから顔を合わせる機会がめっきり減っていた友人の誘いに乗り、心ばかりの洒落たワンピースに身を包んで街のカフェに出掛けた。

 いつもなら家事を理由に断るが、今日は早々に各部屋を片付けてキッチンに花も飾った。


 まだあどけない幼子を抱いて、友人たちは嬉々として週末の予定を語り合う。

 リリアンナも素直に友人たちの優しい旦那を誉めた。


 そう、エルヴィスは優しい。声を荒げることもない。口喧嘩したことさえ、一度も。

 どこか物足りなさを覚えるのは贅沢なんだろう。


 日中忙しなく動いた反動か、疲労感が頭をもたげる。窓際で月を見上げていたら、つ、とリリアンナの頬をなにかが伝った。慌てて手で拭う。


 熱を持った滴は、甲の上ですぐに冷めて乾いていく。


 夜風がざわりと肩を撫でた。暖かくなってきたといえ、夜はまだ肌寒さを感じる季節だ。

 開けていた窓を閉めようと伸ばしたリリアンナの手が、空を掻いた。


「えっ、…」


 バランスを崩した体は、低い窓の桟を越えて外に投げ出される。


 ほとんど、衝撃はなかった。


 彼が抱き留めてくれたら、なんて少しだけ考えた。


 若葉の青い香りにむせ返る。目の前にはびこる草は、幸いまだつぼみも付けていない。

 虫の鳴き声を間近に感じた。


 何やってるんだろう。


 はだけた白い寝間着から華奢な足が覗くのもそのままに、リリアンナは体をよじってやわらかい庭土の上で仰向けに、しばらく紺碧の空を見詰める。


 倦怠感と眠気でぼうっとしていたリリアンナには、近づく足音が聞こえていなかった。

 真上の月が人影に遮られ、リリアンナの顔に影が落ちる。


「何しているんだい、リリアンナ」


 脱いだ帽子を手に、エルヴィスがリリアンナの顔を覗きこむ。なぜか肩が少し揺れている。夜道の寒さが堪えて震えているのだろうか。


 リリアンナはしばらくぱちぱちと瞬きを繰り返し、土が付いた腕で体を起こそうとして、やめた。


「お帰りなさい、エルヴィスさま」

「………何をしてるんだい」

「……。何も」


 リリアンナはエルヴィスから視線を外してそっぽを向く。

 エルヴィスがまた肩を揺らしたのが視界の隅に入った。くつくつと声が漏れる。どうやら笑いを抑えているらしい。


 しばらく経っても無言を貫くリリアンナにエルヴィスは笑いを収め、背中に隠していた左手を差し出した。

 白い花が数輪、握られている。


「何ですか」

「ああ、これは」

「………?」

「……いや、何も」

「え、…?」


 花を手にしたまま、わざとらしく首をかしげてみせるエルヴィス。かといって教えてくれる訳でもないようで、リリアンナは仰向けのまま腕だけ伸ばして受け取った。


 薄い花弁を月の光に透かしてみる。儚げな花姿は、月明かりのせいで星が鳴りを潜めた夜空に映える。


「どうして泣いていたの」

「…泣いてなんかいません」

「そう」


 何を言っているんだと、リリアンナはいぶかしげに顔をしかめて見せた。さっき不意に涙がこぼれてしまったことを自分でも忘れかけていたのに。

 花を握った手でぞんざいに頬を擦ると、余計に土で顔が汚れた。



 ふと、エルヴィスが背を伸ばして空を見上げたので、リリアンナの顔が再び月明かりに照らされる。


 満月の光が眩しい。


「月を見ていたのか」


 合点がいったようにエルヴィスがリリアンナを見下ろす。リリアンナが答える前に、エルヴィスは隣に腰を下ろしたかと思うと、仰向けに並んで寝転がった。


「エルヴィスさま、」

「ああ、服を汚してごめん。」


 そういうつもりじゃないのに、とリリアンナは嘆息するが、訂正する気もどこかへいった。


 エルヴィスは口を開かない。リリアンナの方もエルヴィスに言いたいことや聞きたいことがいくつもあるはずなのに、この静けさを崩したくなかった。


 胸の上に置いた花が揺れる。

 さわさわと夜風に葉が擦れる音が耳をくすぐる。というより耳がくすぐったく感じてリリアンナが顔を動かすと、エルヴィスがリリアンナの栗色の癖っ毛を指先でいじって遊んでいた。


 エルヴィスと目が合う。笑い皺が刻まれた目尻が下がる。


「いい夜だ」

「はい」

「月が綺麗だね」

「そうですね」


 それだけ言ってエルヴィスはまた口を紡ぐ。

 そしておもむろに上体を起こしてリリアンナの顔に唇を寄せた。


 軽い音が静まり返った庭園に響き、夜空に溶けて消えていく。

 何をいきなり、とリリアンナはエルヴィスを見やった。


「エルヴィスさま」

「何だい」

「……何でもありません」


 端正な人は街に沢山いるけれど。

 どこか柔らかな彼の顔つきに毒気を抜かれて、リリアンナは胸の花をきゅっと握った。


 月が二人の顔を白く染める。

 静けさが心地いいとは、ジルベールに感じたことはなかった。


 ―――運命の人、だったんだろう。

 リリアンナはふっと顔をほころばせた。

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