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翻訳

賢者の贈り物

作者: 高石すず音

定番のクリスマス・ストーリーです。本作は、O.Henry原作『賢者の贈り物(原題:The Gift of the Magi)』を新たに翻訳した上で、朗読用に編集したものです。

挿絵(By みてみん)


 1ドル87セント。たったこれっぽっち。そのうち60セントは、ぜんぶ小銭。雑貨屋、八百屋、肉屋ーー買い物に行っては細かく値切り、せっせと貯金に回しました。


(こんな切羽詰まったやり取りをするのは、本当は恥ずかしいし、心が痛い......)


 デラは、情けない気持ちになりました。


 貯金箱をひっくり返し、入っているお金を勘定すると、1ドル87セントしかありません。2回も勘定し直しましたが、結果は同じ。やっぱり、1ドル87セントしかないのです。


(明日はクリスマスだっていうのに......)


 デラはなくて、ガタの来たちっぽけな椅子に、力なく崩れ落ちるしかありませんでした。


(人生には、雨の日も晴れの日も、嵐の日もある。でも、雨が降り止むことなんて、滅多にないのね)


 万策尽きて、膝に顔をうずめていると、そんなふうにさえ思えてきます。



 ***

 彼女が今こうして思いあぐねているのは、家賃週8ドル、家具付き安アパートの一室です。目もあてられない、とまではいかなくても、どう言い繕っても、掃き溜めのようなみすぼらしさを隠せないこの部屋で、毎日、夫の帰りを待っています。


 アパートの入口の郵便受けには、一向に手紙が届く気配がなく、呼び鈴は壊れて使い物になりません。そして、「ミスター・ジェームズ・ディリンガム・ヤング」と書かれた小さな表札が、申し訳程度に懸かっているばかりです。


 かつては、この部屋のあるじが週に30ドル稼いできて、順風満帆、この表札も、暖かな風にそよいでいたものです。しかし、それも今は昔、収入は週 20ドルにまで減ってしまいました。この夫妻は、「ディリンガム」といういかめしいミドルネームが、なんだか今の暮らし向きに不釣り合いなような気がして、いっそのこと、頭文字だけ残して、表札を「ミスター・ジェームズ・D・ヤング」にしてしまおうか、と真剣に迷ったくらいです。


 そんな中でも、夫である「ミスター・ジェームズ・ディリンガム・ヤング」こと「ジム」が家に帰ってくると、妻である「ミセス・ジェームズ・ディリンガム・ヤング」、つまり「デラ」が、夫を力いっぱいに抱きしめて、「おかえり」を言うのです。その光景といったら、本当に微笑ましいものです。



 ***

 ひとしきり泣いたあと、デラは化粧直しを済ませました。虚ろな瞳に映る窓の外はモノクロの世界で、灰色の猫が、殺風景な裏庭の煤けたフェンスの上を歩いて行きます。明日はクリスマスだというのに、デラの手元には、1ドル87セントしかありません。


(これじゃあ、ジムに何も買ってあげられないな)


 何ヶ月ものあいだ必死で貯金した結果が、この有り様です。週に20ドルという収入の、なんと頼りないことでしょう。思ったよりも毎月の支出が嵩んでしまうのはいつものことで、その積み重ねが、今のこの状況です。たった1ドル87セントで、いったい何を、ジムに買ってあげられるというのでしょう。


(大好きなジムのために、何かしてあげたい)


 彼の喜ぶ顔が見たくて、デラはずっと計画を練っていたのです。


(世界にたったひとつの、心の籠もった素敵な贈り物ーー少しでもジムに相応しいものを、プレゼントするんだ)



 ***

 この部屋の窓側の柱には、細長い壁掛け鏡があります。家賃週8ドルくらいの安アパートにはありがちな、細身で器用な人が辛うじて全身を一瞥できるような代物です。細身で華奢なデラは、その要領をよく心得ていました。デラは、窓からくるりと向き直って、美しく澄んだ瞳で鏡の前に立ちました。しかし、その顔色は、少しの間にみるみる青ざめていきましたーーと、とっさに髪をほどいて、長い髪をおろしました。


 ジェームズ・ディリンガム・ヤング夫妻には、ふたつ、宝物がありました。ひとつは、金でできた、ジムの懐中時計です。これは、ジムが、お父さんとお祖父さんから受け継いだ物です。そして、もうひとつはーーデラの長い髪です。


 たとえば、シバの女王さまが、アパートの谷間を隔てて斜向かいに住んでいて、たくさんの宝石や贈り物を持っていたとしましょう。それでも、デラが髪を乾かそうと、窓の外の風に吹かれているだけで、女王さまの持ち物は、たちまち色褪せてしまうことでしょう。


 それから、もし、ソロモン王が、このアパートの管理人で、地下室に山のように宝物を蓄えていたとしましょう。それでも、ジムが通りすがりに懐中時計を取り出すと、その度に、立派な顎髭を掻きむしっては、羨んだことでしょう。


 デラの長い髪は、膝くらいまであって、ただそれだけで、彼女の身体を纏う衣装でした。まるで、きらきらと鼈甲べっこう色に輝く水が、幾重にも重なる小さな滝を流れていくような美しさでした。


 デラは、神経質そうに髪を縛り直して、しばらく考え事をしていたかと思うと、こんどは、呆然と立ちつくしてしまいました。零れ落ちた涙が、ほんの少し、擦り切れた赤色の絨毯を濡らしました。


 まだ涙の乾かないうちに、慌ただしくスカートを履き、古ぼけた褐色のジャケットを羽織り、褐色の帽子を被ります。そして、ばたばたとドアを開けて階段を降り、街へと繰り出して行きました。



 ***

『毛髪に関する製品各種。マダム・ソフロニーの店』という看板のところで、デラは足を止め、階段を駆け上りました。呼吸を整えて店に入ると、「ソフロニー」という柔和そうな名前とは程遠い、大柄で、かなり色白の、冷酷そうな女性がいました。


「あの、私の髪を買って頂けませんか?」


 デラが尋ねると、ソフロニーは「ああ、買うよ。帽子を脱ぎな、見てやるよ」と、慣れた手つきでデラの髪を持ち上げ、質感を確かめながら値踏みし、冷たく言い放ちました。


「20ドル」


 すると、デラは迷わず答えました。


「それで結構です。すぐに、お金に換えて下さい」


 それからの数時間は、まるで夢のように、あっという間に過ぎました。こんなありきたりな言い方では足りないくらい、デラは店から店を訪ね歩き、ジムへのプレゼントを無我夢中で探しました。


 そして、遂に見つけたのです。他の誰でもなく、ジムのためだけに作られたに違いない物が、あったのです。これほどの物は、他の店ではまたとありません。どこの店もくまなく見て回ったデラには、それがわかります。見つけたのは、プラチナでできた、懐中時計の鎖でした。上等な物がいつもそうであるように、余分な飾りがなく、シンプルで上品なデザインで、それだけで確かな価値がわかるものでした。この鎖を見た瞬間、それがジムのものだという直感があったのです。


(きっと、ジムのあの懐中時計にぴったりだわ。だって、まるでジムそのものだもの。穏やかで、かけがえのないものーーそんな言葉がよく似合う。ジムにも、この鎖にも)


 デラは、この鎖を21ドルで手に入れ、残りのたった87セントを握りしめて、家路を急ぎました。


(この鎖があれば、ジムがいつ、どこで時計を取り出したって、恥ずかしくないわね)


 ジムはこれまで、懐中時計の鎖の代わりに、ぼろぼろの革紐をつけていました。それが、気品のある懐中時計の雰囲気にそぐわなかったせいで、人目をはばかりながら時計の針を見ることがあったのです。



 ***

 家に着いた時、デラは少しだけ興奮がさめ、冷静さを取り戻しつつありました。そして、コテを取り出すと、火にあてて、ジムへの愛と大胆さゆえの傷痕ーーつまり、バッサリと切りっぱなしの毛先を巻いて、手直ししました。こういう作業はいつだって、かなりの苦戦を強いられるものです。


 努力もむなしく、小一時間かけて出来上がったのは、いかにも学校の授業をサボって遊んでいそうな、くせっ毛のやんちゃな男の子でした。デラはその姿を、鏡越しにじっとりと、恨めしそうに見つめていました。


(ジムなら取って食うようなことはしないだろうけど、こんなの、ひと目見た瞬間に、「コニーアイランドにいるミュージカル女優みたいだ」って言われてしまいそうだわ。でも、どうしようもない。だって、1ドルと87セントしか、なかったんだから......)



 ***

 時計の針は、夜の7時を指しています。すぐに肉が焼けるように、ストーブの上には熱々のフライパンが載っています。コーヒーの支度もできています。


 ジムはいつも、決まった時間には帰ってきます。デラは、今日手に入れた時計の鎖を握りしめながら、ドアにいちばん近いテーブルの隅に腰掛けて、夫の帰りを待ちました。もうすぐ、このドアを開けて、ジムが帰ってきます。


 階下に、彼の足音がしました。すると、一瞬、血の気のひくような思いがしました。デラは、日常の些細な事にでも小さな祈りを捧げるのが癖で、この時も、「どうか、ジムに嫌われたりしませんように......」と、小さな声で、神に祈りました。


 ジムが、ドアを開けて帰ってきました。細身の、真面目そうな、まだ22歳の青年ですが、もう一家の大黒柱です。でも、かわいそうに、オーバーコートは擦り切れ、手袋も買えずにいます。


 彼は、ドアの前で立ち止まると、まるで、獲物の匂いを嗅ぎつけた猟犬のように、微動だにしないで、瞳を見開いたままデラを見つめていました。二人の間には沈黙が流れ、デラは固唾を呑みました。それは、怒りでも、驚きでも、落胆でも、嫌悪でもない、全く思いがけない反応でした。ジムはただただ、普段とはかけ離れた表情のまま、妻の姿に釘付けになっています。


 すると、デラは椅子から立ち上がり、夫の方へと向き直りました。


「お願いだから、ジム、そんな目で私を見ないで! 髪の毛は、切って、売ってしまったの。だって、あなたに何もあげられないクリスマスなんて、嫌だったから。髪の毛のことは、心配しないで。またすぐに伸びるわ。ただ、必要があったから、切っただけ。ほら、私の髪って、あっという間に伸びるでしょ? だから、ねえ、ジム。『メリー・クリスマス』って言って、一緒に楽しく過ごそうよーーそうだ、あなたにとっておきのプレゼントがあるのよ!」


「髪を、切ってしまったの?」


 ジムは、未だに目の前の現実を呑み込めないまま、声を絞り出しました。


「そうよ、髪を切って、売ったのよ。前のほうが、よかった? 長い髪じゃなかったら、私じゃない?」


 そんなデラの質問にも答えられずに、ジムはまだ呆けた様子で部屋の中を見回していました。


「君の長い髪が、もう、どこにもないって......どういうことなの?」


「もう、探しても無駄なの。売ったの。売ってしまったのよ。だから、もう無いの。それより、さ。今日は、クリスマス・イブだよ。怒らないで、きいてくれる? 髪は、あなたのために使ったの。私の髪は、数えられるもの、何かに代えられるものだけど......」


 デラは、真剣な眼差しで気持ちを伝えました。


「私の、あなたへの愛は、誰にも量れないし、何にも代えられないわ」


「ーーねえ、ジム。もう、お肉、焼いてもいいかな?」


 すると、ジムはようやく我に返り、まるで夢から覚めたように、デラをぎゅっと抱きしめてやりました。



 ***

 ここで、いま少し、回り道をすることにしましょう。家賃週8ドルの安アパートの住人と、億万長者とでは、いったい何が違うのでしょうか? 数学者や知識人だからといって、この問題の答えに辿り着けるわけではありません。イエス・キリストが生まれた時、東方から三人の賢者が、それぞれ価値のある贈り物を携えてやってきましたが、その贈り物でさえ、この問いの答えではありませんーーとなると、答えが気になるところですが、それは、この物語の最後までとっておくことにしましょう。



 ***

 ジムは、オーバーコートのポケットから包みを取り出すと、テーブルの上に投げ出しました。


「ねえ、デラ。もっと僕を信じてくれよ。君がどんな髪型でも、何で髪を洗っていても、どんな手入れをしていても、大好きな君のことを、嫌いになったりなんかしない。でもね、この包みを開けてみて。どうして僕が、さっきあんなふうになったか、わかるはずだよ」


 デラは、その白い指で、スルスルと紐を解き、包みを開けました。そして、嬉しさのあまり、声を上げました。しかし、それも束の間、喜びは抑えきれない涙と嗚咽に変わってしまいました。デラがあんまり泣きじゃくるので、ジムは息つく暇もなく、必死で彼女をなだめて、落ち着かせなければなりませんでした。


 包みに入っていたのは、ひと組の髪飾りでした。それは、デラが、ブロードウェイのショーウィンドウ越しに、吸い込まれるようにして、うっとりと眺めていた、こめかみとうなじを飾る櫛でした。宝石で縁取られた美しい鼈甲の髪飾りは、今は跡形もなく消えてしまった、デラの美しい髪にぴったりでした。この髪飾りが高価なことは、デラにもわかっていました。あの時は、欲しいと思うことさえできずに、ただうっとりと、眺めることしかできなかったのですから。その髪飾りが今、こうして自分の手元にやって来たのです。なのに、髪飾りを留める、あの豊かで長い髪は、もう何処にもありません。


 デラは、髪飾りをだいじそうに抱きしめました。そしてようやく、俯いていた顔を上げ、泣き腫らした目のまま、にっこりと微笑みました。


「私の髪は、あっという間に伸びるんだから......!」


 しばらくすると、今度は「大事なことを忘れていたわ!」と、猫が驚いた時のように飛び起きました。まだ、あの素敵なプレゼントを、ジムに見せていなかったのです。デラは、想いを籠めて、握りしめた掌をゆっくりと開き、ジムに見せてあげました。その燻し銀のような輝きは、まるで、デラの素直で一途な心を映し出しているようです。


「見てみて、これ、格好いいでしょう? 街じゅう探し回って、やっと見つけたんだ。もう、何回時計を見ても足りないくらいよ。ねえ、ジム、あなたの時計を貸してちょうだい。この鎖をつけたところを、見てみたいわ」


 すると、ジムは時計を差し出す代わりに、頭の後ろに手を組んで、ドサッとソファーに座りこみました。そして、穏やかな顔つきで言いました。


「ねえ、デラ。僕たちのクリスマスプレゼントは、まだ使わずにとっておこうよ。あんまりにも素敵だから、今すぐ使ってしまうのは、もったいないよ。実はね、僕、あの時計を売ってしまったんだ。君の髪飾りを、買おうと思ってねーーそろそろ、肉、焼いて食べようか」



 ***

 さっき、皆さんと一緒に少し回り道をした時に、東方の賢者のお話をしました。彼らは、それはそれは賢い人達で、葉桶ばおけで眠る、生まれたばかりのイエス・キリストに贈り物を持ってやって来ました。この賢人達の贈り物が、クリスマスプレゼントの始まりです。彼らは賢明ゆえに、贈り物はどれも賢明なものでした。もし、どれかひとつでも同じ物があったら、何か別の素晴らしい物と交換することだって、できたかもしれません。


 閑話休題。これまで私がしてきたお話は、アパート住まいの、まだ若くてあどけない夫婦に起こった、とても些細な出来事です。この二人は、家宝として一番大切にしてきた物を、お互いへのプレゼントに代えてしまいました。それは、本当に愚かなことです。


 とはいえ、今を生きる賢明な人達に、最後にひと言申しましょう。この二人は、お互いにとって、一番賢明な贈り物をしたということを。そんな二人こそが、最高の賢者であるということを。いつの時代に、この世界の何処にあっても、こうしてお互いを愛し、愛をわかち合える人達こそが、真の賢者ーーすなわち、東方の賢者なのです。

ご覧いただき、ありがとうございます。本作は、私が翻訳者としてネット小説サイトに投稿した最初の作品です。


高校生の頃、冬休みの課題で読んだことを思い出して、この作品を選びました。あの頃はなんだか腑に落ちなかったことが、今になると納得することもあって、「自分も大人になったもんだなぁ......」と、しみじみしてしまいました。


本作から着想を得て『マダム・ソフロニーの憂鬱』を執筆しました。こちらも併せてご覧いただければ幸いです。

<https://ncode.syosetu.com/n8064fz/>


♪ファルさんのブログ『おすすめのWEB小説紹介』にて本作をご紹介頂きました♪

<https://aetherdesign.studio/fal-20200523-1030/>


ファルさんの丁寧で的確な実況朗読で、物語の世界がより一層身近になりました。感想、(ノベルゲーム風)試し読み、そして実況朗読まで揃ったご紹介です!


Photo by Pexels.com

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― 新着の感想 ―
[良い点] あー、クリスマスなのにぽかぽかするお話でした。 翻訳、本当に尊敬します。 僕も動画や洋楽を通して、この人はなんてかっこいい、愛しい声で、何を言っているんの?何を伝えたい?何を教えてくれる…
2020/09/15 23:18 退会済み
管理
[良い点]  この話はあらすじとしては知っていましたが、あらためて本編を読み、心を打たれました。  高石さん、あとがきに翻訳者とありました。  まずそこに驚き、翻訳された本物語の文章のすばらしさに驚か…
[良い点] 気になってこちらも読ませていただきました。 無知ゆえ原作や翻訳に関してはよく知らないのですが、こういった翻訳は翻訳者の方によって微妙に内容や受け取り方が変わってくる印象を持っています。 …
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