カウントダウン
僕は、あと──日で死ぬ。
十四歳の僕は、不登校児だった。理由がある訳ではない。
ただなんとなく仮病で学校に行きそびれて、そこからズルズルと理由なき欠席を積み重ねてしまった。
自室で起きて、トイレと風呂以外は自室にこもり、駄菓子を食べながらパソコンでオンラインゲームを繰り返しプレイした。お陰で十四歳でありながらギルドマスターを務めるまでになってしまった。
引きこもり始めて二年経った、ある夏の夜。「それ」は枕元に立った。何かは解らない。が、不思議と僕は「それ」をすんなりと受け入れてしまった。
「それ」が手をかざすと、頭の中に数字が浮かび上がる。
その数は、3650。
この数字はどういうことかと尋ねた僕に、「それ」は悲しそうな笑顔で応えた。
──お前に残された、日数だよ。
それでも僕は信じなかった。何かの怪奇現象と片付けた。
しかし3650という、ちょうど十年分の日数を示す数字がやけにリアルで、いつしかそれを残りの寿命として受け入れていった。
あと十年しかない。いや、実際には閏年もあるから、十年足らずだ。
僕は、あと十年で死ぬ。
そう思ったら、居ても立っても居られなくなった。
部屋着のジャージのまま、真夜中の住宅街を走り抜け、気がついた時には、大きな川の河川敷に寝転がっていた。
十七歳なのに、二年以上まともに運動をしていなかった僕の肺や筋肉は、もう限界を迎えている。その癖、直ぐに動き出したい衝動に駆られる。
人間とは、現金なものだ。
いざ自分に時間が無いと思ったら、こんなに焦るのだ。今まで散々怠けていた癖に。
息が整った瞬間、また走り出した。行く先なんて分からない。ただ、止まっていたくない。
時間が、もったいない。
何かせずにはいられない。
それからしばらく、夜中に家を抜け出しては走り回る日々を過ごした。
しかし、それもまた何も産まない行為だと悟る。
くやしい。悔しい。口惜しい。
このまま死ねるか。何もせずに死ねるか。
せめて、せめて普通に、人並みの人間として死にたい。
それから、手当たり次第だった。
大検合格を目指し、勉強した。予備校にも通わせてもらった。年齢制限のない資格も取った。何とかして現世に名前を、生きた証を残したかった。
親たちは涙を流して喜んでいた。胸が痛かった。
父さん、母さん。ごめん。
俺が頑張っているのは、死ぬのが判ったからなんだ。
決して更生したとか、改心したとかじゃないんだ。
僕は、両親たちよりも先に、死んでしまうんだ。
予備校で、一人の女性と出会った。僕と同じ、中学から引きこもっていた、ひとつ年上の女性。
最初は、ただ挨拶を交わすだけの間柄だった。
それが一緒に勉強をするようになって、互いの過去を打ち明け、いつしか惹かれていた。
彼女は、父親を知らなかった。
母親の実家で育った彼女は、学費を稼ぐ為にアルバイトをしながら大検合格を目指していた。
彼女は、優しかった。
予備校が午前と午後にまたがる日は、忙しい中で弁当を作ってきてくれた。玉子焼きの味付けがちょうど良かった。
残り時間、九年。僕は、初めて幸せを実感していた。
彼女と一緒に、国立の大学に合格出来た。高校をすっ飛ばして、晴れて大学生。
彼女の母親、僕の両親、それぞれに赦しをもらい、二人でアパートを借りた。
大学も、バイト先も、家でも一緒だった。
残り時間は、あと八年を切っていた。
就職が決まった。
小さな会社だけど、彼女の就職先とも近かった。
就職祝いを、彼女の実家と僕の両親に貰った。
お揃いの腕時計。銀の、丸い、革ベルトの時計。
彼女も僕も、笑顔だった。
残り時間は、あと五年半。
初めての給料で、ネクタイとスカーフを買った。両親へのささやかなお礼。
初めてのボーナスで、指環を買った。彼女への、お礼を兼ねたプレゼント。同時に、彼女からプロポーズされた。
正直、結婚なんてする気は無かった。僕はあと五年足らずで、この世からいなくなる。
そんな僕が、彼女の戸籍に傷をつけるのは嫌だった。
だから包み隠さず、頭の中の数字も含めて、彼女に全てを話した。
彼女は信じられない様子だったけれど、泣きながら話す僕の言葉を最後まで聞いてくれた。
彼女は、こう言った。
「人間、いつ死んじゃうかなんて、みんな分かんないんだよ。もしかしたら、あたしの方が先に死んじゃうかも。でもね、だから。結婚しよう。どっちかが死んでも、残った方の戸籍に名前は残せるんだよ。いつまでも、ずっと二人の名前が並ぶの」
彼女も、泣いていた。
二人ともぐしゃぐしゃの顔の、締まらないプロポーズ。
だけど、最高の気分だった。
それから仕事も頑張って、彼女とも思いっきり笑い合った。
同時に、生命保険にも入った。少しでも彼女に、何かを遺したかった。
冬のボーナスで、新婚旅行に行った。行き先は、夢のハワイ。
あいにく雨の日が多かったけれど、二人で食べたパンケーキはすごく甘くて、幸せな味だった。
それからも幸せな日々は続いた。
同時に、頭の中の数字も日に日に減っていった。
彼女が二十七歳を迎えた日、頭の中の数字は三桁を切った。
あれ、と彼女が僕を見て云う。
「99って……なに」
彼女にも数字が見えてしまったらしい。
僕の人生の残り時間だと伝えたら、泣きながら抱き締めてくれた。
──とうとう、残り時間は九日になった。
彼女と僕は、有給休暇を取った。職場に無理をお願いして、十日間。
その十日の内、二日を使って遺書を書いた。
両親への謝罪とお礼。
そして、彼女へのお礼。
彼女も俺につき合って、遺書を書いてくれた。
けれど僕は、その遺書を見ることは無いだろう。
残りの日々は、普通に、普段通りに、二人だけで過ごすことにした。
幸せだけど、やっぱり恐い。
もうすぐ僕は、彼女と会えなくなる。
それが堪らなく寂しく、悔しい。
震える手を、彼女は握ってくれる。暖かいけれど、ちょっぴり冷たい手。
僕たちは、身を寄せ合って夜を過ごした。
ついに、残りの数字が1になった。
彼女は朝から泣きっぱなし。僕は、なるべく泣かないようにしている。
最後に見せる顔が泣き顔になるのは、嫌だから。
彼女は、何か食べたい物はないかと聞いてくれた。
その時、無性に引きこもり時代が懐かしくなった。戻りたいとは思わない。けれど、久しぶりに駄菓子が食べたい。
彼女は、そんなものでいいの? と笑って、近所のコンビニに買いに行く。
ああ、僕はもう、彼女に逢えないかもしれない。
あの日、僕の枕元に立った「それ」、いや、お祖父ちゃん。
もう少しだけ、時間をください。
贅沢は言いません。あと少しで良いのです。
携帯電話が鳴った。
知らない番号だった。
急に胸騒ぎがして、手が震える。左手で右手の震えを止めて、僕は電話に出た。
病院からだった。
夢中で走った。
あの夜、河川敷まで走った時と同じように。
病室には、彼女が寝ていた。
「奥さま、妊娠してらっしゃいますね」
確認するような口調で、白衣の男性が告げてくる。
妊娠。
なに。なにを言ってるんだ。
なんでそんな最高の出来事を、死ぬ間際に知らされたんだ。
僕はこれから死ぬんだぞ。
それなのに、子どもが。
僕は、まさか、この子に。
暑い夏の日だった。
彼女は、無事に出産した。女の子にしては、大きな赤ちゃん。
体重は、3650グラム。
頑張ったね。
ありがとう、奥さん。
僕の頭の中の数字は、あの日から消えてしまった。
お母さんになった奥さんは、
「貴方が頑張って生きたから、きっと神さまがご褒美をくれたのよ」
なんて笑っていた。
二年後の春。
広い河川敷に僕らは来ていた。
二歳になった娘を抱いている奥さんの横に、僕は腰を下ろしている。
広い広い川の向こう。甲高い音と共に、子どもたちの歓声が響いた。
十年前。
引きこもりだった僕は、混乱した頭を抱えて、この河川敷に辿り着いた。
そして今。
僕の隣には、幸せがある。
あのままだったら、あり得ない光景。
結局あの頭の中の数字が何だったのかは不明のままだ。
けれど、あの日の残りカウントだけは消えることなく、ずっと心にある。
僕がいつまで生きられるかなんて、解らない。
でも。
いつか奥さんが言ったように、人の寿命なんて分からないのだ。
だからこそ、明日に悔いを残さないように。
懸命に、懸命に。
いつでも、残りカウントは1の、つもりで。
お読みくださいまして、ありがとうございました。
ちょっと思うところあり、勢いで書いた短編です。
ご意見、ご感想などいただけたら嬉しいです。