序段?
必要かなって思ったので。
エッセイの導入、序章というと、どうしても「徒然なるままに~」とか言い出したくなる。
吉田兼好の「徒然草」は実に良い導入だと思う。
いや別に、書いてる自分はやることなくて暇(忙しいよ、人並みに!)とか、吉田兼好も暇人だったらしいとかそういうことに共感してるわけじゃなく、入り方が親切だよなと思うわけだ。
鴨長明の「方丈記」もそうだけど、序段において「俺、今からこの本で色々語るけど、それってこういう気持ちから来てて~」みたいな、ソフトな解説というか前書きから始まっているわけでしょ。くっそ短いけど。
そういう文章があると、読む側としても「はあ、とりとめもないことを馬鹿々々しいなと思いつつも書かずにはいられなかったのね」みたいな心構えというか、準備ができるわけだ。
それに対して、清少納言の「枕草子」とか、びっくりするよね。
いきなり、「春はあけぼの」ですもんね。
いや、その唐突感というか、インパクトも含めて評価されてるからこその日本三大随筆の筆頭になってることは十分わかりますよ。
でもさ、いきなり「春はあけぼのだよ!」って言われても、「はい?」ってなるでしょ。
隣の席で黙って座ってたやつがいきなり、「春はあけぼのだと思うんすよね!」とか言い始めたら、「お、おう…?」ってなるでしょうが。
口挟む間もないままに、「でも、火桶の中の炭が白い灰ばっかりになっちゃうとかっこ悪いすよね~」まで聞かされて、一段落したのかなと判断したら、「で、どうしたのいきなり?」って聞かざるを得ないでしょ。
で、そいつは「え?普段思ってることを言ってみたんですけど?」って悪びれもせず、さも当たり前かのように言うんだと思うんだが、そんなこと言われたらこちらとしては「え、大丈夫か、こいつ…」て思うでしょ?「言いたかったんだろうなってことは分かるけど、なんか前置きとかないわけ?せめて、『前から思ってたんですけどね~』とかでも良いからさぁ…」って。
だから、前書きとか、序章とかがあるエッセイは入り込みやすいし、親切だと思うわけですよ。
でも、いざ自分が書いてみると、逆に「徒然草とか方丈記って、どのタイミングで序段書いたのかな…」と疑問に思ってしまう。
例えば、人気ブログとか雑誌のコラムの書籍化にあたり、前書きを改めて執筆しました、とかそういうのとは違うと思う。
徒然草だって、本質的にはブログに日記や日々の考察を書いたりするのと変わらないんだろうし、ネットという媒体がなく、書くなら紙に、見せるなら冊子にまとめて、っていう方法しかなかっただけなんだろうが、わざわざ序段で「今からこういうこと語るけど~」みたいなこと書くのは、見せる人がいることありきじゃないですか?
いきなり、「この世にとって理想的な生き方は~」から言い出したら、読んだ人びっくりするんじゃね?みたいな心遣いがあっての序段だと思うんですよ。
もちろん、あの時代、自分の日記とか手紙とかを第三者に見せることに対して、あんまり抵抗ないというか、そもそも見せて評価を得るってのが大事なのも分かるんですけど(本当に見られたくないものは、ひた隠しにした挙句、死ぬ前に焼き捨てるはず)、それにしたって、その気遣いって知り合いに見せるとかいうレベルじゃなく、見も知らない第三者が読むことを前提とした気遣いだと思うわけだ。
なぜなら、今私が前書きを書いているのは、「いきなり私の日常とか書かれても、読んだ人は『何それ、戸惑う…』てなるんじゃない?」って考えたからです。
てなると、むしろ序段のない枕草子のほうが、日々の出来事や感じたことを書き溜めておいたんですよ。ってかんじがする。
もちろん、清少納言は自分が仕える中宮さまがいかに素敵で、ときめいているかを宣伝するために枕草子を書いているんでしょうけど、出だしが唐突な分、「誰に見せるつもりもなかったんだけど、口コミで評判になっちゃったぁ」みたいなニュアンスが感じられる。唐突こそナチュラル。あざとい。
まあ、何が言いたいかというと、私は前書き書いたよってだけです。
前書きだよって言えば、前書きになるよって(なってない?聞こえない)。
一番思い出しにくい導入は、方丈記。なぜか奥の細道と間違える。