03 お仕事
シノンの家に住んでいるのは、彼とそのメイドであるモニカの二人だけである。それに加えてこんな山の上に住むのは彼らだけで、周辺に家が立ち並ぶこともなく、静かな時を過ごせる空間となっている。
ただ、いつも二人きりということはなく、街に住む友人や釣り仲間、相談者たちなどが家に遊びに来ることもあるのだ。
「えっと、準備は終わっていますよね」
忙しなくモニカは何度も部屋を行き来して、掃除が行き届いているかを確認して回っている。それに対してシノンはダイニングの椅子に座り、相変わらずゆったりとコーヒーを飲んでいた。
これがシノンの釣り仲間やモニカの友人なら、彼女もここまでドタバタとはしなかったかもしれない。それと言うのも相手方から急に来訪の知らせが届いたのと、訪問してくる相手が相手というのが理由だろう。
そして、ノックする音と共に扉が開かれる。
「お邪魔しますよー」
軽く幼い声色の客人は、玄関からでなく家の中から現れた。
「おう、よく来た」
「おはようございます、コルフォト様」
シノンは片手を挙げ、壁際で直立していたモニカは言葉と共に深く頭を下げる。
コルフォトと呼ばれた十代中頃の少年は非常にラフな格好で、にこにこと笑いながら二人に軽く挨拶をしながら家の中に入る。
赤茶色の短くもサラサラと流れる髪に、澄み切った青色の瞳。彼の名はコルフォト・ディンク・ノ・プラグスハム。この国の第五王子で、ここは城からの隠し通路の一つと繋がっているのだ。
「モニカさんは相変わらず可愛いなー」
「ありがとうございます」
勝手知ったると特に遠慮することなく、シノンの向かいに座ったコルフォトはお茶を出す年上のモニカを褒める。しかし、言われた本人は喜びや照れなどの表情ではなく、少し困ったように微笑むだけ。
「これで体重を三倍以上に増やしてくれると嬉しいんだけどなー」
それというのも彼の理想がふくよかな女性だからである。しかもちょっと太めではなく、かなり太めの女性が好みなのだ。その辺りはシノンと相容れない。
「おい、うちのメイドを肥やそうとか考えるなよ」
「分かってますって。あーあ、婿入りするなら抱きしめた時に腕が沈むような女性とが良いなー。んで、シノンさんみたく退廃的な生活をするんだー」
「俺のどこが退廃的なんだ。こんなに健康的だぞ」
「……」
特に同意を求められた訳ではないが、モニカは先ほどと同じく曖昧に笑うだけだった。
そんな和やかな挨拶は終わり本題に入る。
「それで今日はどうしたんだ? まあ、お前が突然来る用事と言ったら、一つ位しか思い当たらないけど」
シノンと仲の良いコルフォトは国との橋渡しとして、序列一位への任務を伝える役割を担っていた。なので急な訪問はその事だろうと尋ねたのである。
ただ、出されたお茶を啜るコルフォトは、たった今用件を思い出したかのように、一瞬の間を置いてから頷いた。
「そうだった。実はウミガバが出ましたんで、その退治をお願いしにきました」
日常での頼みごとのように、姿勢を正すでも無く非常に軽く用件だけを告げる。
それを受けるシノンも普段通り……いや、今回は普段以上に間の抜けた表情を浮かべていた。
「……ウミガバって何だ」
ウミガバはこの国で童話の題材になるなどよく知られた生物で、シノンが知らないことに驚くコルフォトだったが、直ぐその理由に思い当たり納得したように頷く。
「あぁ、シノンさんが来てから被害は出てなかったですね」
「何年かごとに海から崖を登って来ては、森の木々を食い散らかそうとする魔獣だそうです」
「今までは先代さまに直ぐ対処して頂いていたんですよ」
特に緊張した様子もなく手でヒラヒラと扇いでるコルフォトから、それ程難しそうな依頼ではなさそうだ。ただ、少しばかり姿勢を正すと「でも」と言葉を続ける。
「彼らは海の掃除屋ですんで、なるべく殺さないで欲しいんですよ。対処方法ですけど、後で渡しますが大量のパワム粉をぶっ掛けちゃって下さい。そうすれば身体が縮んでいきますんで、あとは太めの枝でも口の中に放り込めば終わりです」
簡単簡単、と全く心配してないのは、シノンの実力を知っているからこそだろう。そして、シノンはこの依頼を断ることは出来ない。序列として飯を食っている以上、当然のことだった。
コルフォトがお茶菓子を食べている中、モニカに手伝ってもらいながら支度を終わらせたシノンは、革の鎧と小さなナイフが腰に下げているだけ。戦う場所や相手を考えての装備である。
「ご武運を」
「おうさ、任せといて」
両手を握り締め真剣に武運を祈るモニカと違い、軽いノリで返事を返したシノンはコルフォトの案内でウミガバの出現場所へと向かうのだった。
◇◇◇
シノンは釣りに行った時と同じく森を抜け、遥か彼方の水平線が見える断崖絶壁にまでやって来る。ただ、そこに釣り場や港などの人工物はなく、人の手が加わっていない場所。そこでは既に兵士たちが集まり、ウミガバ退治のための準備を進めていた。
二人の登場に兵士の一人が作業の手を止め、崩れた敬礼を行いながら現状を報告していく。
「今、崖の半分過ぎた辺りですかね」
敬礼からも分かる通り、その口調は堅苦しく畏まったものではない。それが兵士だけでなく、シノンたちにとっても普段通りなのだろう。二人とも注意するどころか気にした様子もなく、崖まで近付いて下を覗き込む。
長い長い断崖絶壁の中腹、巨大な塊がもぞもぞと崖を這い登って来ているのが見える。速度はそれほど速くはなかった。
「おぉ、あれがウミガバかー。ナメクジとかウミウシのでっかい奴っぽいな。ところで、アイツは何でここの木を食うんだ? 食事か?」
「いえ、栄養バランスと腸を整える為らしいですよ。ですんで身体を小さくして、枝を食べさせれば良いってわけです」
説明を聞きながらシノンが兵士から受け取ったのは、両手で抱えるほど大きさの袋。それには命綱なのかグルグルと巻きつけてあり、口に放り込む用の太い枝も一緒に結ばれていた。シノンの身長ぐらいはあるだろう。
「パワム粉は貴重な物ですから、落とさないようにして下さいよ」
「なんだ俺よりもこいつの心配か?」
「当然じゃないですか」
自分に命綱がないことを茶化すシノンだが、兵士は肩を竦めて意に介していない。
シノンもさっさと流してパワム粉を小脇に抱えると、崖の淵に移動してウミガバの位置を確認。そのまま海に背を向けてコルフォトたちを正面に見ると、軽く後方に向かって飛ぶ。
「……あっ、そ――」
「んじゃ、ちょっと行ってくるわ」
そして、そのまま自然落下に身を任せてウミガバとの距離を一気に縮めたシノンは、ぶつかるかと思われた瞬間に、袋を持っていない左手で崖を殴りつけて止まった。
ウミガバは彼の真下ではなくやや右下にいて、大きさは成長した木を二、三本飲み込めてしまいそうなほど。
「近くで見るとかわいいかも」
人一人分も離れていない距離で詳しく観察してみれば、崖をゆっくりと這い登る薄紫色のウミガバの皮膚は滑らかに動きうねっている。手足や触覚はなく、真っ黒い瞳は丸くただ正面を見つめていた。
必死に登る姿は応援したくなるが、このまま黙ってみているわけにもいかない。シノンは右手に持った袋を口で開け、ウミガバ目掛けて引っ繰り返す。すると白い粉がほぼ固まりとなって降り注ぐ。
「ピギィィイイイイィイイイイ」
「うおおおぉぉぉ」
パワム粉が掛かった瞬間、ウミガバの目と目の間が縦に割れ悲鳴を上げる。そんなところに口があり声を出すとは思っておらず、ましてや何か分からない粘着性のある液体を噴出しながらだったので、シノンも驚き変な声を上げてしまうのだった。
「うげ、何だこれネチャネチャしてて気持ち悪い」
腕に掛かった粘着性のある透明な液を拭い払い、持っていた枝を縮んでいくウミガバの口に押し込んだ。ウミガバはそれを本能で飲み込むと、悲鳴絶叫を上げたまま様々な液をばら撒きながら海へと落ちていった。
これにてウミガバ退治の依頼は終わり。コルフォトの言っていた通り、それほど難しくはなかったな、と考えながらシノンは崖を登ってく。
「よっこいせっと」
そして、淡々と崖を登りきったシノンを迎え入れたのは、歓喜の声を上げるコルフォトと兵士たち。しかし、なぜか遠巻きからで近付こうとはしていない。疑問に思ったシノンが尋ねるより早く、笑顔で拍手をしているコルフォトが口を開く。
「いやー、ウミガバの酸性毒を受けても平気なんて、さすがシノンさんですね」
「……は?」
物騒な単語が聞こえてきて、彼らに近付く足を思わず止めるが、相変わらずコルフォトは余り悪びれる様子もなく笑っている。
「伝えようとしたら直ぐに飛び降りちゃうんですもん」
「おいっ、そんな危険な事は早く伝えておけよっ」
「いやー、この国だと子供でも知ってる常識なんで伝え忘れてました。ごめんなさい」
そう言って頭を下げるが、謝罪の言葉がやや棒読みのようにも感じられた。とは言えコルフォトとの付き合いも長い、それなりに反省していることも分かるし、詳しい話しを聞こうとしなかったシノン自身にも落ち度はある。
この話はこれまでとため息を吐き、シノンはウミガバの毒の掛かった場所を見る。肌には何ら影響はなさそうだが、服や革の鎧は虫が喰ったかのように穴が開いている。
「あー、家帰る前に川で落としたいた方がいいかな」
「それがいいですね。あっでも、川に入るのは毒を落としてからにして下さいよ、川下で大変なことになりますから」
一先ずの処置として毒を拭った葉っぱは地中に埋め、直ぐ川に入るのを止められたシノンは、水で濡らした兵士の服で身体を拭いていく。その服は当然みるみると溶けていき、結局使い物にはならなくなってしまうが、あとで国から補償が出るだろう。
多少暖かくなってきてもまだ水浴びには早い季節。シノンは時折吹き抜ける風に身体を震わせながら、笑いを堪えるコルフォトや兵士達にも水を掛けながら、暖かな家に思いを馳せるのだった。