02 大望
シノンとモニカは朝食と同じく昼、夕食も同じ食卓で食べる。そこでモニカが明日の予定やらを伝えるのだが、その日は珍しくシノンから尋ねるのだった。
当然、モニカは前日や当日以外にも、何かしら予定があれば事前に伝えていた。念の為にと手帳を開いてみても、明日の予定が書き込まれてることは無く、そのことを伝えたのである。
「そっか、実は明日釣りにでも行こうかと思ってさ」
「分かりました。それでしたらお昼用にお弁当を作っておきます」
「ありがと、お願いね。その代わり夕飯で食べる魚を釣ってくるからさ」
モニカに感謝を示しつつ、シノンは食事の手を進める。今夜自分の釣った魚が食卓に並ぶことを信じて。
◇
翌日、モニカから弁当と釣り道具一式を受け取ったシノンは、家の裏手の森を鼻歌交じりで進んでいく。
彼らの住むメイミレア王国は大陸の端っこにあり、周囲を深い山々と森、荒海に囲まれていた。戦略的に特に重要でも無い上に、陸地からこの国にたどり着くまでには魔物が多く住む森を抜けなければならず、かつての大戦争でも攻め込まれることの無かった極小国である。
森の中を歩いている彼の目的地は、川ではなく海。森の木々が抜けて日の光りが差し込むと、思わず額に手を当てて眩しさから目を護り、遥か彼方にまで続く水平線を眺める。
「おぉ~~、相変わらず絶景かな絶景かな」
強い風が吹き付けるそこは、まるで切り取られたかのような断崖絶壁。強い風が吹き寄せる崖の淵に立って下を覗けば、波が打ち付けているのが見えるかもしれない。見えると断言出来ないほどに高い崖なのだ。
「さて、さっさと降りますか」
当然釣りをするのはこんな崖の上からではなく、シノンは崖に沿って歩き目的地へと向かう。そこにあるのは崖を切り出して作られた階段。この国にとって重要な海の資源を得る為、大昔に作られたものである。
階段は大人三人が並ぶと肩が触れる程狭く、足場はボコボコしていて悪い上に強風の吹き付けるこの場所に、落下防止の柵など無かった。直ぐに風化してしまうからだ。
そんな長々と続く階段を、シノンは慣れた様子の軽い足取りで降りていく。
「シノン様、おはようございます」
「おはようさん」
階段を降りきるとそこに居たのは、この国唯一の港を警備している兵士。主に水害で何か起こってしまったら困るので、常に数人が港にある小屋で過ごしているのだ。
シノンは彼らと挨拶を交わしながら、大きな岩の上に造られた木製の足場を渡り、国民に釣り場として開放されている場所へと向かう。
この辺りの海は非常に荒々しく、うねるような波が崖に叩きつけている。他の国で普通の釣りをしている人であれば、エサを投げ入れた瞬間に海へと引きずり込まれてしまいそうになるかもしれないが、この国の住人にとってはこれが普通の海なのだった。
「おっすゲンさん、釣れてる?」
「ぼっちぼっちさ」
既に釣り場には顔なじみの先客が何人かいて、足場を確りと固めて釣りを始めている。その中でシノンが真っ先に声を掛けた人物は、彼にとっての釣りの師匠である。
シノンは他の面子にも挨拶など言葉を交わしながら針に餌を付けると、沖合いに向かって力強く投げ込む。その手に竿などはなく、革手袋をした手で糸を操っていた。それと言うのも、いくら丈夫な竿だろうとこの海では折れてしまう可能性が高いからだ。
そして、崖に繋がっている命綱など子供の着ける物よ、とばかりに服を波飛沫で濡らしながら、男達はこの荒海に負けないよう大きく糸を操る。
「そうそう、最近モニカちゃんはどうなんだ?」
「どうって元気ですし、仲良くやれてると思いますよ」
「そっかい、なら良いんだ。ほら、あの子は気立てがいい子だから、お前さんの世話で気苦労が耐えないんだろうと思ってね」
「ははは、否定は出来ないけど、その言葉をゲンさんの奥さんにも聞かせてあげたいなぁ」
違いない、と周囲の男達も笑いあう。こうして年上の友人たちとぐだぐだ話しをしながら過ごすというのも、シノンにとって楽しみの一つである。例え目的である魚が一匹として釣れなかったとしても。
モニカに用意してもらったお弁当も食べ終え、日はまだ沈んでいないがそろそろ解散という流れになり始めた。
「これが最後、最後だからっ」
「おぅ頑張りなよ」
全く期待してなさそうな他の面子の声を背中に受け、シノンが最後の足掻きを始める。
余ったエサを全て海に投げ入れ魚を再びおびき寄せ、釣り針を祈るように高く掲げてから海へと強く投げ込んだ。そして時に強く時に緩めてと、腕や身体全体で大きく糸を手繰り寄せていく。
優雅に大胆に、釣りの師匠であるゲンの動作を見習って……。
「……来たっ」
その時、強い引きによって余らせていた釣り糸が一気に海へと引き摺り込まれる。
だが、シノンは焦らない。暫く魚の自由に泳がせ、弱まったところで引き寄せる。それを何度も何度も続けることで、徐々に陸へ引き寄せていく。
「よしっ、もうちょい――っ」
相手も疲れてきたのだろう。時は来た、と一気に引き寄せていくシノンだったが、突然これまでとは比べ物にならないほど引きが強くなる。
最後の抵抗というには余りに強く、もし釣り糸を咄嗟に放さなければシノンも海に引きずり込まれていたかもしれない。それほど強い引きだったのだ。
そんな突然起こった引きの強さの正体は直ぐに分かった。
「……でかっ」
荒波の中でも分かるほどの巨大な魚影。それがシノンと格闘していた魚に横から食らいついたのである。
一気に釣り糸が海中へと持っていかれ、余らせていた糸の余裕がなった以上、仕方なくシノンは手の中で暴れていた糸を掴む。その瞬間、踏ん張っていた木製の足場を破壊し、その基盤である岩までも足で貫く。
「うおおおおおおおぉぉぉぉーーーー」
シノンが雄叫びを上げる中、その音は大きく響いた。
ぶちんっ
それはシノンと巨大魚の引き合いに耐えられなくなった釣り糸が切れる音。ついでに今日一匹も釣れない事が確定し、シノンの心が砕ける音。雄叫びから慟哭へと変わる。
「おおおおおぉぉぉ~~~」
「はははっ、残念だったな。アイツはこの辺りの主だろう。久し振りに見たが相変わらずのデカさだ」
その場で崩れ落ちるシノンにゲンは笑いながら声を掛ける。その表情から余り慰めるつもりはないようで、巨大魚を見たことはともかく、シノンが一匹も釣れないことは彼らにとってよくある光景なのだろう。
体内全ての息を吐き出したのか、シノンはゆっくりと立ち上がると、釣り道具を淡々と仕舞い始めて、撤収する準備を進めていく。
「そうだ、俺が釣った魚を上にまで持っていくの手伝ってくれねぇか」
「はいはい、分かりましたよ」
「ははっ、そう不貞腐れんなって。生きのいい奴、一本くれてやるからよ」
ゲンは親指で自身の後方を指差す。釣り場の中央には生簀があり、シノンがそこから網を引っ張り上げると、彼が必死になって釣り上げようとしていた魚よりも大きな魚が多数入っていた。
「ありがとっ、実はちょっと期待してたんだ。ゲンさんの釣った魚は美味いから。でも、次こそ自分の手で釣り上げるっ」
先ほどまで落ち込んでいたのは何処へやら、気を良くして決意も新たに魚を担ぐ。
いくら活きが良いとは言ってもそこは生もの。出来るだけ早く街へ持ち帰る必要があり、シノンは残りの道具仕舞いは釣り仲間に任せ、一足先にこの場を立ち去るのだった。
石の階段を上り森を抜け、このまま街にまで向かうかと思われたシノンだが、その途中で自身の家に立ち寄った。貰った分の魚をモニカに預ける為である。
「ただいまー」
「お帰りなさいませ。今日はどうでしたか?」
「残念、ダメだったよ。すっごくデカイ魚は食いついたんだけどね」
魚を担いでいても成果を尋ねた辺り、今回のように魚を譲ってもらうのが始めてではない事を垣間見せる。そして、釣り道具は後から仲間たちが運んできてくれる事を伝え、モニカが選んだ魚一匹だけを置いて再び街を目指した。
ゲン御用達の魚屋に卸した後で彼の家にも回り、魚と交換するように彼の奥さんから果物を分けてもらい、本日の釣り活動は終了である。
家に戻ったシノンが向かうのはキッチン。この家はシノンがいろいろと獲ってくることがあるので、普通の家よりもキッチンが大きい。人の二倍近くある巨大魚もそのまま捌かれていた。
「でも釣りは難しいな。潜って獲れば簡単なんだろうけど」
「それならもっと大きな魚が獲れてしまいそうですね」
モニカは困ったように笑いながら捌いている魚に視線を落とす。
シノンが海に潜るのならこれ以上の物が獲れるだろう。ただ、この魚でも二人で食べるのには十分過ぎるほどだ、これ以上大きいとなるとジュースにでもして流し込むしか消費しきれない。
「まぁ、それはそれで面白いかもだけど、次はちゃんと釣れるように頑張るよ」
「はい、期待して待ってます」
結果、得られた物は譲り受けた魚と果物。彼の目的だった自身の釣り上げた魚で食卓を飾ることは出来なかったが、気合を入れるように両手を握り締めるシノンに、モニカは優しい微笑を向けるのだった。