19 そんな日
既に日は暮れ、夕食を済ませたシノンたち。ミゥは練習で使う木槍の手入れを行い、シノンは水を飲みながらその作業を見つめ、モニカは本を読んでいる。まだ自室に戻るには早い時間帯なのだ。
「そういえば、夜がだいぶ冷え込むようになったなぁ」
「確かに、もう一枚掛け布団を出しておきますか?」
「あっ、私も」
今日は昨日ほど寒い日ではないが、事前に干してあった掛け布団を三人の部屋に運び入れる。物入れから近い順でモニカ、ミゥ、そして最後にシノンの部屋となったのだが、シノンはそのまま部屋から出て行こうとはしなかった。
「今日はもう就寝されるのですか?」
テーブルには先ほどまで飲んでいたカップに、満杯の水を入れて持ってきていたのだ。
「ちょっと眠いんで、今日はこのまま横になっとくよ」
「ずいぶん早いじゃない」
普段ならまだお茶を飲んだりお酒を飲んだりしながら話しをしたり、ダラダラと過ごすような時間帯だ。特にシノンは誰よりも遅くまで起きていることが多いので、ミゥの疑問は尤もだろう。
シノンは疲れたようにため息をこぼしながら、肩に手を当てて首筋を伸ばす。
「そんな日もあるんだよなー。疲れが抜けないのかねぇ」
「分かりました。それではお休みなさいませ」
欠伸を噛み潰しながら就寝の挨拶を交わすシノンを見て、少しばかりの違和感を持ったモニカだったが、それが何なのか分かるのは次の日のこと。
◇
翌日、朝食の準備を終えたモニカはシノンを起こしに彼の部屋まで来ていた。そして、いつも通り二度、三度とノックをして中に声を掛ける。
「おはようございます。もう朝ですよ、起きてますか?」
「ぉぉ」
小さな返事は返ってきた。しかし、モニカは微かな違和感を持つ。
確かに寝ぼけた声や布団を被ってくぐもった声、二日酔いの気だるげな声とあるが、今日のはそのどれにも当てはまらないような感じがしたのだ。
しかし、それが何なのか考えるよりも直ぐに確認した方が早い。モニカはもう一度ノックをしてから部屋へと入る。
「朝ですよシノン様」
ベッドは毛布に包まったまま、モゾモゾと動いている。カーテンを開けた後で床を見てみたが、別に酒瓶は転がってはいなかったので、また勝手に飲んでの二日酔いではなさそうだ。
そうなると可能性は一つ位しか思い浮かばない。モニカはいつも以上に優しい手つきで、シノンが頭まで被っている毛布をずらす。
「ん、はよ」
重い瞼を半開きにして挨拶する声は、少しばかりかれていて頬も赤い。完全に熱が出てしまっている人のそれである。
シノンは息を何度か吐き出しながら、ゆっくりと上半身を起こした。
「大丈夫ですか?」
「ん、ちょっと熱っぽいかも」
「失礼します……」
労わる手つきで額に手を当てて熱を測ろうとしたモニカだったが、それほど時間を置かずに瞼を開けて手を離す。その表情は少しばかり険しく眉を顰めていた。
「ちょっとどころじゃないですね。本当は昨日から熱があったんじゃないんですか?」
「んー、ちょっとね」
その言い回しは先ほどと同じであり、だからこそイマイチ信用出来なかった。
昨夜珍しく早くから横になると言っていたが、体調不良が理由なのだとしたら当然とも思える。むしろ軽い熱程度だったら、ずぼらなシノンは普段通りに過ごしていた可能性が高い。
「食欲はありますか?」
「悪いけど今はあんまり……それより水が欲しい」
「分かりました。今日はゆっくりと横になって、養生していて下さい」
よほど喉が渇くのだろう、昨日一杯にまで水が入っていたカップは空になっていた。モニカはそれを取って立ち上がると、シノンに一礼して部屋を出て行く。
リビングでは朝食を並べ終えたミゥが席に座って二人を待っていた。シノンがいないことは後から来るだろうと思っていたが、今日はいつもと雰囲気が違う。どうしたのかと、カップを持ってキッチンへ向かったモニカの後を追う。
「……アイツが風邪? うっそー、仮病とかじゃなくて?」
「シノン様はそんなことしないのよ。嘘で私に手間をかけるようなことはしないし、何もしたくないなら普段通り横になっていればいいんだから」
そこで熱を出して寝込んでいると聞いたミゥは怪訝そうだが、昼間からチェアやソファーで横になって酒を飲むような日々もあるシノンだ。モニカの言葉には説得力があったようで、納得したように強く頷いた。同時に眼差しが呆れたような、冷めたような気もするが。
「だから今日は静かにしておいてね」
「まぁ、それなら……って私はいつも静かだよ」
モニカは水を入れたカップを運ぶようミゥに頼むと、タライとタオルを用意して井戸で水を汲んでからシノンの部屋に戻った。部屋では身体を起こしたシノンが水を飲んでいるところで、ベッドの近くに椅子やテーブルを用意してそこにタライを置く。
そしてタオルを浸し、シノンが横になってから絞る。余り絞りすぎても直ぐ乾いてしまい、逆に絞らないと重かったり水が垂れてしまう。程よい水気を残したままシノンの額に乗せた。
「全く、普段からだらしない生活してるからじゃないの?」
「ミゥ」
「はーい、それじゃあ朝ごはん先に食べておくね」
窘められたミゥは大人しく部屋から出て行く。水を運んでも直ぐに出ていかず部屋に留まっていたいたのは、もしかしたらシノンの容体が気になっていたのかもしれない。もちろん言葉通りの意味ではなく、表には出さないが心配しているのだ。
いつもより抑えられた声を遠くで感じ取りながら、横になったシノンは意識を手放すように眠りに就くのだった。
翌々日になってもシノンの熱は引いておらず、そんな彼を心配してかコルフォトが見舞いに訪れていた。
「熱出したって聞いたから遊びにきましたよー」
ただ、ニコニコと笑う様子からは心配している気配は感じられない。
目を覚ましていたシノンだったが、どうやら彼の茶番に付き合う気力はないらしく、咳き込みながら薄く開いた目で冷ややかに見つめ返すだけである。
「冗談ですってー。はい、これお土産です」
そう言って差し出されたのは、カットされたフルーツの盛り合わせ。一口サイズに切ったのはモニカだろうが、彼にしては気の利いた手土産だと感心しながら上体を起こし、礼を言って手を伸ばす。
「ありがとな」
「まぁこれはミゥさんが買ってきたらしいんですけどね。僕の持ってきたのはお酒ですから」
いつもやり取りしているような冗談ではあるが、熱が出ている分シノンは億劫に感じて、再び冷めた目で見つめ返す。そんな彼を見てコルフォトも気まずくなったのか、コホンと一つ咳払いをして変な空気を流した。
「お酒はモニカさんに渡してあるんで、身体が良くなってから飲んで下さい」
そう言いながら、シノンが起き上がった時にずれ落ちたタオルを拾い、タライに浸しておく。タライの水も温くなっているので変え時だろう。そんな事を考えながらシノンがフルーツを食べ終えて横になると、タオルを絞って額に宛がい、ベッドの傍にある椅子に腰掛けた。
土産を渡して顔見せもした。やるべきことは終わり、コルフォトは手持ち無沙汰に部屋中をキョロキョロと見回した後、ベッドで横になっているシノンをマジマジと見つめる。
「でもアレですね、何とかは風邪ひかないってヤツ、やっぱり迷信だったみたいですねー」
「……そういや、お前が風邪ひいたとこみたことないな」
ポツリと呟かれたか細く掠れた声は、どうやらコルフォトの耳には届かなかったようだ。気にした様子もなく話題を振る。
「それにしてもシノンさんが熱出して寝込む何て、知り合ってから初めてですよね。何か変な物でも食べましたか?」
「変な物って別に……あぁ、卯ノ茸は飲んだわ」
サリアザにお土産として持っていき、その場でお茶として出されたものである。最近の変わったものと言えばそれ位しか思い当たらなかった。
ただ、あれは昔から薬としても用いられていて、一緒に飲んだ二人は特に熱も出ていないので、卯ノ茸が毒を持っていたということは無さそうだ。
もしあれに毒があればサリアザはもちろんとして、コルフォトは他国に送ったのだ。国際問題になる可能性もあるのだが、彼はそんなところとは関係なく顔を顰めていた。
「あのお茶を飲んだんですか? 勇気ありますねー」
気持ち悪そうに口元を押さえているのは、卯ノ茸が生えていた場景を思い出したからなのだろう。そんなコルフォトの様子を見てシノンも表情を歪める。
「まぁ……ただ、栄養豊富なのは本当だし、毒って感じもしなかったからな」
「じゃあシノンさんに合わなかったか、採った時の状況を思い出して熱が出たんじゃないんですか? っと、あんまし長居するのもあれですから、そろそろお暇させてもらいます」
話もそこそこに切り上げて椅子から立ち上がるコルフォトを、シノンは横になったまま視線だけで追いかけ、咳き込みながら言葉をかけた。
「わざわざありがとな」
「いえいえ、それではお大事にー」
コルフォトが静かにドアを閉めて出て行くと、静寂が部屋を包み込む。もともと静かだったのもあるが、少しばかり騒がしくしていた彼が居なくなったから余計にそう感じたのかもしれない。そんな事を考えながらシノンは一人静かに瞼を閉じる。
夜中、シノンが目を覚ますと看病をしてくれていたのだろう、ベッドに上半身を伏せて眠っているモニカの姿があった。今までは夜中に目覚めることが無かったので気付かなかったが、もしかしたら熱を出してからは付きっ切りなのかもしれない。
シノンは彼女に声を掛けながら肩を優しく揺らす。
「……ん、シノン、さま? あっ、眠ってしまいましたか。すみません」
「いや、ありがとモニカ。もうだいぶ良くなったし、自分の部屋で眠っていいよ」
慌てて辺りを見回し頭を下げる様子が面白かったのか、シノンは笑う。
その表情はだいぶ柔らかくなっていて、モニカが額に手を当てて熱を測れば、確かに下がっていて平熱より少し高い程度だろう。
「そうはいきません。治りかけが一番大事なんですから」
シノンは寝かしつけようとする彼女に従って横になりながらも、困ったように眉を寄せて笑った。
「う~ん、ありがたいんだけどさ、モニカが倒れちゃうとウチがダメになっちゃうから」
それは過大ではないかもしれない。それだけ家事など彼女に頼っている部分が多く、ある意味この家ではシノン以上に倒れられたら困る人物なのだ。
モニカは「後は寝てるだけだから」と強く頼まれ、もう一度だけシノンの額に手を当てて熱を測ってみる。やはりだいぶ下がってはいるようで、少しばかり悩んでみせた後でゆっくりと頷くのだった。
「……分かりました。では今日は休ませてもらいます」
「うん、本当ありがとね」
「眠れなくても横になって目を瞑っておいて下さいね。それだけで身体は休まりますから」
「はいはい、分かってるって。そこまで子供じゃないんだけどな」
部屋に戻ることを受け入れたモニカだったが、シノンを寝かし付けることが優先らしく、横にさせると掛け布団を肩口まで掛ける。そしてタライに浸したタオルを絞り額に乗せたのだが、そこまでしてもシノンが目を閉じるまでは傍にいるつもりらしい。
年下の少女にじっと見つめられる中、シノンは感謝と呆れと心配の感情が入り混じった中で眠りに就くのだった。
◇
モニカの手厚い看病の甲斐もあり、翌日に目覚めたシノンの体調は久し振りの快調。上半身を起こしても身体のダルさや関節の痛みなどもなく、すんなりとベッドから抜け出せた。
外は完全に明るくなる前。この数日、眠りっぱなしだったからなのか、彼にしては珍しく早起きである。鼻歌でも歌いたくなる気持ちを抑え、空のカップを持ってダイニングへと向かった。
「あっ、シノン様おはようございます。身体の具合はどうですか?」
「うん、もうすっかり良くなったよ。二人ともありがと」
「早起きなんて珍しいわね。眠ってばっかりだったから、寝疲れたんじゃないの?」
元気になったということでかミゥも朝から軽口を叩く。シノンとしても久し振りの感覚があるのだろう、懐かしみを感じるように軽く笑った。
「ん、そんな日もあるんだよ」
熱が出るのも早起きするのも、そんな日。これからも特に変わらない、普段通りの日々が過ぎていくのだった。