とある世界最強の女の子
私のお父さんは最低だった。
だったって言うのは、過去形。
死んだから過去形。
私が幼い頃には、それなりの、いわゆる良い父親だった。
休日には公園や、遊園地に連れていってくれて、家族団欒というか、毎日が楽しかった。
その時私は、あの男を最高の父親だと信じて疑っていなかった。
しかし、ある日夢のような日々は一瞬にして、悪夢へと豹変した。
父親の余命宣告。
後、一ヶ月で最高の父親がこの世からいなくなる。
しかし、悲しんだのは余命宣告を知らされたその日だけだった。
なぜなら、その日を境に、あの男はもう父親と呼べるような者ではなくなったからだ。
命惜しさに、発狂でもしたのか、たった一日で、最高の父親から、最低の男へと姿を変えた。
あまりあの頃の事を思い出したくはないが、あの地獄の一ヶ月間にされたことは嫌でも思い出してしまう。
入院しているあの男の見舞いに行くたびの、言葉の暴力。
「今まで俺がどれほどお前らに尽くしたと思っている!?もっと早く見舞いに来いよ!」
「くだらねえ娘を育ててしまったと後悔してない日がない。俺が死ぬのはお前のせいだ」
「俺の代わりにお前らが死んでくれればいいのに…」
一言、一言がこころに突き刺さる。
絶え間なく続くそんな日々に嫌気がさしていた。
しかし、見舞いには毎日行った。
なぜなら、幼い頃の私は、まだあの男が昔の姿に戻ってくれると信じていたからだ。
昔の最高の父親だったあの姿に。
しかし、この小さな願いは儚く、砕け散っただけだった。
私が徹夜でがんばって作った千羽鶴を、目の前で破り捨てられたあの日にそう感じた。
そして、その日以降、私があの病室に行くことはなくなった。
三日後に父が亡くなった事を知ったときにはもう、嬉しさしか残っていなかった。
私の母さんだって同じ気持ちだっただろう。
あの男の葬式の日に、母さんは小刻みに震えながら、笑っていたのだから。
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時がたち、今の私がいる。
そう、世界最強の女の私が。
日本女子プロボクシングを背負って立つ私は、いくども世界一強い女である証のベルトを腰に巻き付き、男子プロボクシングとの統一試合も完勝してみせた。
もはや、今の私は世界一強い女ではなく、世界一強い人間までにのぼりつめている。
この現状に、あの男の影響がなかったと言ったら嘘になる。
あの男の見せた、人間の弱さを目の当たりにし、私は同じようにはなりたくないと、強くなろうと決心した。
だから、格闘技を始めた。
そして、今日も私はリングに上がる。
私の強さを誇示するように。
「今日、調子はどうだ?」
隣にいた、私のトレーナーが試合前の体調を尋ねてきた。
「いけます」
「そうか、今日の相手は強い。今までに戦ってきた奴らよりも段違いにな」
それぐらいはわかっている。
何せ相手は、男子プロボクシング世界王者四階級制覇している化け物だ。
だが、私も負けてなどいない。
大丈夫。
「私も化け物だから」
そして、沸き上がる観客の声援を背に、私はリングに上がった。
ゴングが鳴らされ、試合が始まる。
いつもの緊張感。
いつもの高揚。
そして、最後にはいつもの虚無感。
正直、格闘技はあまり好きではない。
私だって、普通の女の子のように、恋をしたいし、甘いものを美味しそうに食べたり、かわいいものにうつつをぬかしたい。
しかし、何かを得るためには犠牲は必要だ。
強さの引き換えに、普通を捨ててきた。
本当の強さなんて、まだわかってないくせに。
しばらく殴り合いをし、そうこうしてるうちに、私の顔はだいぶ腫れてきた。
思考回路もままならず、トレーナーの声はおろか、観客の声援も雑音にしか聞こえなくなっていた。
そして、終には相手の右ストレートをもろに顎にくらい、私は視覚までも奪われてしまった。
真っ暗な世界の中で、初めて刺さった光は、病室の蛍光灯の光だった。
「や、やっと目がさめたか!」
「う、ううっ…」
トレーナーの声と、母さんのすすり泣く音だ。
「落ち着いて聞いて欲しい」
そして、医者の余命宣告。
私はどうやら後、一ヶ月の命らしい。
脳内出血だの、難しい用語で説明されたからあまり分からないが、ただ、あと一ヶ月で死ぬと言うのは、嫌というほど頭に入った。
「そうか…」
私はそう呟くと、不意に瞳から涙が溢れるのを感じ取った。
後、一ヶ月の命という恐怖はもちろんあったが、しかし、その中で私は少し安堵していた。
これでやっと、強さを求めずに済むだろうと、安堵していたのだ。
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入院生活をへて、私は見るからに次第に衰弱していった。
一人でごはんを食べることや、トイレに行くことなどの当たり前の事が出来なくなっていったのだ。
そして、余命宣告されてから一ヶ月。
世界最強の名をうたっていた私は、少しも力が入らない体でただ死を待つことにしていた。
一生を懸けて得た私の強さは、
一瞬にして無いものとなってしまった。
「ふふっ」
もはや、笑う他あるまい。
「あら、久しぶりに笑ったわね」
そんな、私の気持ちを察してか否か、母さんは私に嬉しそうに話しかけてくれた。
――そういえば、笑うと言ったら、母さんのあの時の、あの男の葬式の時の笑顔。
それを思い出した。
その事を母さんに話した。
「そうね。あの時確かに笑ったわ」
「あの男と余命宣告期間が一緒なんてとんだ皮肉だよ」
「お父さんのこと、あの男と呼んでいたのね…」
「あんなやつ、あの男呼ばわりで十分よ。母さんだって、あの男に散々苦しめられたじゃない」
私がそう言うと、母さんは何がおかしかったのか、ふと笑い、信じられない一言を呟くのであった。
「私は、救われたわ…」
救われた?
いったい、どういうことだ?
私は平然を装いつつ、母さんにそう尋ねてみた。
「ごめんなさい。私の口からは言えないわ」
しかし、返ってきた答えは私を満足させるものではなかった。
「お願い。どうして救われたのか教えて!」
気がつけば、私はそう叫んでいた。
もう、あの男のことなんてどうでもいい、忘れてしまいたいとずっと思っていた私の想いとはずっとかけ離れている反応だった。
私はその自分の反応に戸惑いを覚えつつ、しかし、それでも母さんの答えを待っていた。
そんな私の反応に母さんも驚いたのか、しばらく呆気にとられていた。
しかし、私の気持ちをくんで、一言「あなた、ごめんなさい」と呟き、口を開いてくれた。
「あなたは入院する前のお父さんが好きだった?」
「え、あ…、うん…」
唐突に投げつけられた質問に私は曖昧な返事しかできずにいた。
「その頃のお父さん、よく口にしていた言葉があったのを覚えてる?」
「よく、口にしていた言葉?」
「そうよ。何かあるごとに直ぐ言っていたわ」
そう口にすると、母さんは嬉しそうに笑った。
あの男が入院する前に良く見せていた、母さんの笑顔だ。
私はその笑顔を横目に、あの男の言葉を必死に記憶から捜すことにした。
そして、それらしきものを思い出すことができた。
そう、あれは私が幼稚園児の時。
あの男が入院する約一年前の出来事だった。
その時も私は今と変わらず、気性が荒く、よく友達と喧嘩していた。
理由は大抵くだらないものだった。
あいつが、私のクレヨンを勝手に使っただの、足を踏まれただのそんな感じだ。
そして、その日もくだらない理由で友達と喧嘩した。
いつも通りの喧嘩だったが、ただ違うのは、喧嘩の相手が一番の親友だったことだ。
喧嘩の後は大抵勝ち誇った気持ちになったりしたんだが、その日だけは違った。
妙な違和感があった。
胸がやけに苦しかったのだ。
幼稚園が終わり、胸の違和感を無くすことなく家に着いた。
病気ではないかと不安になり、あの男に相談することにした。
当時の私には、あの男は何でも知っていて、何でも助けてくれる、そんな存在だったからこそ、真っ先に相談したんだろう。
最後まで私の話を聞き終えると、あの男は一言、私にこう言い放った。
「大事な人っていうのはな、怒らせてもいい。嫌われてもいい。泣かれたっていい。だけど、絶対に悲しませたらだめなんだ」
そう、私に言い放った。
私はそれを思い出すと同時に、自然と涙が溢れだすのを感じた。
そういえば、私は今まで父の死に悲しみを感じたことがなかった。
憎しみや、嬉しさを感じることはあっても、悲しさだけが、そこにはなかった。
父は死の恐怖を抱えながら、私達から悲しみを奪い去った。
愛する人から憎まれながら、一人で孤独に死の恐怖に向かっていった父を思うと、どうしても涙が止まらなかった。
そんな私を見て、母さんはバックから一つの錆びた鉄の箱を私に手渡した。
私はそっと箱を開け、目を疑った。
「お父さんは死ぬまでずっと、大事そうにそれを抱えていたの」
その中身は、不器用にセロハンテープで直されていた、千羽鶴が入っていた。
「馬鹿だよ…」
ポタポタと涙のしずくが、鶴に降りかかった。
「馬鹿だけど…」
父さんと遊んだ幼い頃の記憶がよみがえる。
「世界一強いひとだ…」
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あの日を境に、私は父さんの墓参りに行くことにした。
医者には全力で止められたけど、それでも行った。
そして、二年が過ぎたころの墓参り、私は二つの事を父さんに宣言した。
一つ目は、もうすぐ、結婚すること。
そして、二つ目は、世界で二番目に強くなることだった。