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第2話

     2 第二木曜日


 どういう風の吹き回しだろう。準一から誘わなければ来ることのない伸吾が、夜11時すぎにやってきた。

「どうしたんだよ?」

「いや、たまたま近くで、演劇見せられてさ、その帰り。」

「お前、演劇なんて興味あった?」

「だから見せられてって、言ったじゃん、職場の同僚が頼み込まれて、チケット買わされたんだ。それに付き合わされた。」

「そう。それはお疲れ様。」

「とりあえず差し入れ。」

 準一は、伸吾から受け取った缶ビールとつまみのスナックをテーブルに広げて、しばらく一緒にスポーツニュースを観た。


 テレビがCMに入ったところで、不意に伸吾が聞いた

「最近、奈緒美は来た?」

 なんかさりげなく聞こうという雰囲気があからさまで少しもさりげなくないなと感じながら、準一は答える。

「ああ、日曜の午後に来たよ。」

 準一は、伸吾が奈緒美に惚れているなら、あまり詳しいことは言わない方がいいと思い、それだけ答えた。

「そう。」

 伸吾はうなづくと、会社の後輩のやらかした失敗談をひとしきり披露した。

 

 スポーツニュースが終わったところで、準一はラヂオを思い出した。

「そういえば、先週、ラヂオで老人の話聞いたの覚えてる?」

「ああ、鈴木老人ね。」

「今日は二週目だよ。」

 準一はラヂオのプラグを入れると、スピーカーから流れる音楽に耳を傾けた。


 クラシックの曲が終わると、仰々しい音楽が流れて、アナウンサーが『わが人生』とぶちあげる。

『今週は先週に引き続き、太平洋戦争で艦上爆撃機に搭乗されていた鈴木久仁彦さんのお話を伺います。

 鈴木さん、今週もよろしくお願いいたします。』

『はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします。』

『前回は、ご友人の下宿先のお嬢さんに、ご友人と鈴木さんとが示し合わせて恋を告白して、お嬢さんから二人に考えさせてくれと答えがあったところまででした。』

『はい、そうして一年、二年と過ぎても、私にも水谷にも進展はなかったのでした。

 そうするうちに、国の行く末には暗雲が立ち込めました。

 国家総動員法が成立し、東京オリンピックの中止が決定され、アメリカが日米通商航海条約廃棄を打ち出し、もはや日本は戦争の坂を転がり始めたのです。』

『昭和十三年、十四年頃ですね。』

『そうなります。

 私は学校を出たら役人にでもなるつもりでいましたが、水谷は風変わりなやつでして、万民に空の散歩を楽しませる遊覧飛行の会社を興したい。

 ついてはお前も一緒に手伝わんか、役人よりずっといい給料になるぞ、と誘うのです。』

『面白い方ですね。それで手伝おうと答えたのですか?』

『いいえ。そりゃあ、遊覧飛行じたいは面白かろうと思いましたが、あなた、広島市民みんなつかまえて、遊覧飛行しないかと誘ったとして、乗りたいと答えるのは数人の物好きでしょう。私はそんな商売が成り立つのか疑問だったのです。』

『そうですか。それでお嬢さんはどうされてましたか?』

『お嬢さんは、色めいたということはありませんが、物言いや態度に大人びた落ち着きが出て、いよいよ美しく見えました。

 自分は抜け駆けしたい気持ちになりました。

 と言いますか、水谷は毎朝、毎晩、お嬢さんとひとつの食卓で食事できるのです。

 そのように私より有利な立場を利用して、お嬢さんと親密に交際しているのではないかと疑う心が起こって、嫉妬が起こったのです。

 そこで自分はお嬢さんと二人きりで話す機会を持とうと計画しました。

 お嬢さんは既に女学校を卒業して、家事手伝いに入っていました。お嬢さんの母親は週一度生け花の師範のところへ出かけるのが常でした。

 自分はその時を狙って、訪問しました。そしてお嬢さんに向かって切ない胸の内を伝え、そろそろ答えがほしいのだと告げました。』

『ほお、お嬢さんはどう答えましたか?』

『赤くなって「もう少し待ってください」と。

 それから「母の留守に来ないでください」と言われました。

 自分は「水谷と比べてお嬢さんと顔を合わす機会が少なくて不利だから、つい訪問したのだ。悪く思わないでほしい。」と弁解しました。

 そしてある夕方、水谷り部屋でお嬢さんを交え三人で談笑していた時のこと、ふと水谷が手洗いに立ちました。その間にお嬢さんから「明日の午後四時、あの神社でお返事します」と言われたのです。』

『いよいよですね。』

『翌日、自分は胸を動悸で震わせながら神社に行きました。

 秋の長雨が止まった霞んだ空と、濡れて染まった焦げ茶の大地の境に欅の樹があり、そのたもとに萌黄色の着物姿がありました。お針子の帰りなのでしょうか、道具箱を抱いてうつむいたお嬢さんに、私は手を振って近づきました。

 自分の足跡に気付くと、お嬢さんは黙って会釈をよこします。

「やあ、遅くなりました。ちょっと学校で友人が喋りかけてくるものだから、なかなか抜けられなくて……。」

 まだこちらが言い終わらぬのに、お嬢さんが声を重ねてきて、

「鈴木さん、ごめんなさい。私は鈴木さんのお気持ちに添えません。お許し下さい。」

 さっと頭を深くおろされました。

「……。」

 一瞬、息が詰まりましたが、すぐ溜め息を言葉にしました。

「ああ、嫌われましたか、そうですか。」

「そんな、嫌いだなんて、ただ深いご縁が感じられなかっただけで、鈴木さんご自身はとても立派な方だということは誰よりも知ってますもの。

 立派過ぎて私なんかには向かないだけなのです。堪忍してください。」

 お嬢さんは、みるみる涙を溢れさせ、こぼれるままに自分を見つめるので、こちらはなんとか言葉尻をとらえて食い下がろうという気持ちも萎えて、

「では、水谷のことは気に入ってくれたんでしょうね?もし奴も嫌だと言うのなら、許しませんよ。」

 呆然とした大根役者の棒読みのように言うのが精一杯でした。

 すると、お嬢さんは小さな声で「はい」と答えて、急に染まった顔を隠すように押さえたのです。

 自分は悔しさに染まった胸でなんとか息つきながら、その場から走り去ったのでした。』

『そうでしたか。それはお辛いことでしたね。』

『はい。自分は水谷を祝福する一方で、もうそれ以上、高校に残り下宿するのも辛かったので、高校をやめて海軍兵学校に入ることにこっそり決めて、電撃的に実行したのです。

 そして海軍兵学校で航空兵に志願しました。』

『なるほど、いよいよパイロットになるわけですね。』

『しかし、どうして航空兵を志願したのかと聞かれるとうまく説明できませんでした。

 単に空を飛んでみたかったような気もしますし、心の中で遊覧飛行の会社を作ると言っていた水谷に先んじたいという対抗意識があったかもしれません。』

『そうでしたか、それで開戦で戦争に行かれたわけですね?』

『いえ、開戦には少し間に合わず、十七年になってからインド洋に展開する九七式艦上攻撃機の要員として派遣されたのです。

 ところが、そこでとんでもないやつに出会いました。』

『とんでもないやつと言いますと?』

『水谷です。

 あいつときたら、いつのまにか航空隊に入って、零式戦闘機、俗に言うゼロ戦のパイロットになってやがるんです。

 私は殴りかからんばかりの勢いでやつの胸ぐらを掴んで問い詰めました。

「貴様、いったい何を考えとるんじゃ。お嬢さんと祝言を挙げておいて、こんな危ないところに来おって」と。

 すると水谷は落ち着きはらって、

「うむ、遊覧飛行の会社のためだ。わが社専属パイロットのお前が休みを取ることもあるだろう。

 そういう時のために俺も飛行機の操縦を覚えておこうと思ってな。

 民間の学校じゃ月謝もかかるが、海軍はタダで教えてくれるというから喜んで入ったんだ。」

「ふざけるな、貴様、今すぐ戻れ!」

「アホこけ、今、戻ったら敵前逃亡で軍法会議だ。

 それより芙美子がお前のことを案じていたぞ。

 もし会ったらご武運を祈ってますと伝えてくれと言ってな。」

 そして水谷はお嬢さんからの手紙を見せてくれたのです。

 そこには確かに、もし、鈴木さんに会ったら、毎日、ご武運をお祈りしておりますと伝えてくれと、流れるような筆使いで書いてありました。

 私はそれだけで殺伐と乾ききった心に大きな潤いを得た心地で、水谷を怒る勢いも失せてしまいそうでした。』

『ほお、劇的な再会ですねえ。』

『ええ、やつは頭の回転も運動神経も抜群でしたから零式戦闘機の要員に採用されたんでしょうが、それにしても遊覧飛行のためなどという理由で航空士官になどなってほしくなかった。

 徴兵を逃げまわってでも、お嬢さんと一緒にいてほしかったです。』

『しかし、戦争の真っ只中ですよね。』

『はい。インド洋ではポートダーウィン、コロンボと我が部隊は戦果を挙げて、意気揚々でした。

 特に零式戦闘機の性能は敵イギリス軍の戦闘機を上回っており、危なげない勝利だったのです。

 我々の次の目標は、ツリンコマリという軍港でした。

 私は九七式艦上攻撃機に、水谷は零式戦闘機に乗って攻撃にかかりました。

 敵の戦闘機も待ち構えていたのですが、零式にかかると一方的に落とされていきます。

 私は地上にある海軍の施設に狙いを定めて、爆弾を投下します。

 ここで説明しますと、九七式艦上攻撃機は二人乗りでして、前方で私が操縦し、後方で広瀬という爆撃手が爆弾投下か魚雷発射をするのです。


 私の機は予定通り施設に爆弾を投下し、帰途についたわけです。

 しかし、私らはいつの間にか僚機と離れていました。

 そこを手負いの獲物を狙うハイエナのような敵戦闘機に見つかってしまったのです。


「後方七時、敵機!」

 広瀬爆撃手が大声で叫ぶやいなや、トンネルの中でライトが延々と続く感じで、オレンジの色が宙にポツポツと現れてきます、これが敵の機関砲の銃弾でして、恐ろしく鮮やかに左主翼から機首をかすめました。

 目をまばたきして見ると、風防ガラスにヒビが入っております。さらに左腕がカーッと熱くて、飛行服が裂けて血がどくどくと流れているじゃありませんか。

「鈴木少尉、大丈夫ですか?」

「おお、かすり傷だ、心配すんな。」

 私はマフラーで腕を縛りつつ、ペダルを踏み、操縦桿を倒して、今さっき自分たちを追い越していった敵戦闘機から逃げようとします。

「また、追ってきます、後方四時。」

 今度は操縦桿を引いて、スロットル全開。

 なんとか上昇して今回もオレンジのポツポツは左後方によけることができました。

 しかし、こっちは爆弾や魚雷を積むための設計で、運動性能は劣っており、小さな機関銃はありましたが使える位置にまでまわりこめないのです。

 このままでは撃墜されるのも時間の問題かと思われた。

 自分はペダルを踏み、操縦桿をくねらせ、スロットルを操り、必死に逃げました。

 しかし、敵はいよいよわが機体を照準器に入れ、激鉄に指をかけているに違いありません。

「少尉、真後ろ!」

 叫んだ広瀬が続けて「おふくろ」と言うのが聞こえ、自分も「おふくろ」と呼びました。

 一瞬、目を閉じると、瞼の裏に現れたおふくろはにこやかな笑顔で……、続いて父と兄と妹の笑顔が浮かび、最後になんとお嬢さんの微笑む様子。

 ハッと目を開くと銃弾のオレンジがサアーッと、しかしこれは自分らの上方を前から後ろに向かう銃弾で、あれっとよく見ると前方から零式戦闘機が猛スピードで敵を退治に向かう様子です。

 まもなく敵を撃墜した零式戦闘機は旋回して自分の機に並びかけ、飛行帽の水谷が白い歯を見せて微笑みました。

 あっ、と自分は手を合わせたい心地、水谷が菩薩に見えました。

 自分は「ありがとう」と叫んで、主翼を振りました。

 水谷も主翼を振ると、「また、あとでな」と言い、翼をひるがえしてまだ戦闘が続く空へ引き返してゆきました。』

『大変なところでしたね、水谷さんのおかげで助かりましたね?』

『はい。それが自分らは先に母艦に戻って、水谷のやつを思い切り誉めちぎって、礼を百万回も言おうと待ち構えているのに、いつまでたっても水谷の機が帰ってこないのです。

 私は隊長を見つけて駆け寄り、敬礼もそこそに、

「中佐、水谷のやつは?」

 隊長はうつむいて

「うむ、水谷は今日も三機撃墜と大成果を挙げおった。

 しかし、運悪く制御を失って落下してきた敵機と激突してな。

 惜しい男を失くしたよ。」

「そ、そんな」

 自分はそれでなくても失血でふらふらしていたので、その場に卒倒するように膝をつきました。』

『そうでしたか。水谷さんは戦死された。』

『ええ、ほんとに悔しくて、悔しくて、自分は真剣に替わってやりたいと思いました。

 お嬢さんをめぐっては嫉妬したこともありましたが、失ってみると、自分は水谷をかけがえのない親友として愛していたのだと気付きました。

 そして水谷に対して、あやまちのことをあやまりたい気持ちでいっぱいでした。』

『もっとお話を聞きたいところですが、本日の時間がきてしいました。

 鈴木さん、続きはまた来週にお願いいたします。』

『はい、お粗末さまでした。』

『それでは本日の「わが人生」はこの辺で、さようなら。』


 準一は缶ビールを飲み干しながら言った。

「俺たちは戦争のない世の中でよかったなあ。」

「うん、そうだな。」

「俺、前からゼロ戦てカッコイイと思ってたんだ。バイクとゼロ戦て似てるだろ?」

「そうかな。」

「いや、その動きの自由自在なところが似てるんだよ。

 当時、ゼロ戦の旋回性能は群を抜いていたんだ。あんまり追いつけないものだから、アメリカ軍はゼロ戦を追いかけるなと指示を出したらしい。」

「ふうん。詳しいな。」

「子供の頃から好きだったんだ。」

「でも、それで死んだらやだな。」

「そりゃそうだけど。」

「あの、ジュンさ、」

 急に伸吾は改まった口調で気を引いた。

「うん、何?」

「今の老人じゃないけど、打ち明けておくと、俺は奈緒美さんが好きなんだ。」

「え?」

 そう驚きながらも、想定内だから準一は冷静につけ加えた。

「そうだったのか。」

「ああ、すごく恋してる、愛してるんだ。」

 準一は、しかし、奈緒美は俺の女だと頭の中で宣言してみて、それを具体的に説明しようとした。

「でもな、実はな、俺さ」

 が、伸吾はそれを遮って言う。

「知っているよ、奈緒美を愛してるんだろう。知ってるんだ。何度も何度も寝てるんだろう、だけど、」

 準一は伸吾が泣き出すのではないかと感じた。伸吾は一気に吐き出した。

「だけど、俺も奈緒美と寝ているんだ。何度も、何度も……。」

 今度は準一の呼吸が止まりそうだった。

 頭の中で、伸吾の言葉がリフレインされて、響いている。

 あの奈緒美がこっそり伸吾と寝ていたなんて……。

 伸吾は少し口調のテンションを上げて、

「困っちゃうよな、こういうのって。

 でもさ、恋愛てのは、誰にも権利はあって、誰にも悪意はないんだ。

 俺はジュンのこと、親友だと思っているけど、そうなんだ。

 俺のことも、彼女のことも許してくれよ。」

「……アア。」

 準一がつぶやいたアアは肯定でも否定でもなく、なんと言ったらいいのかという言葉の

最初の母音と最後の母音のアアだ。

「いつから?」

 準一は自分が間抜けな亭主みたいだと思いながら聞いた。

「大学三年の終わりかな。

 実は絵美が田舎に帰ったのは、奈緒美の部屋で鍵をかけるの忘れてて、全てを目撃されたからなんだ。絵美は俺のこと好いてて、奈緒美のことも一番の相談相手だと思っていたから、ショックだったんだろう。

 でも、これは神に誓って言うけど、俺は絵美を抱いたことも、期待させたことも一度もなかったんだ。俺は他に好きな相手がいると打ち明けていたからね。

 ただ絵美もそれが奈緒美だとは思ってなかったんだろう。」

 伸吾の話は聞けば聞くほどショッキングな話だった。


 翌朝、二日酔いの準一はいつ伸吾が帰ったのか覚えてなかった。  



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