エピソード5 ジェーンとビリー
「新型TS病にかかった男は、総じてある症状を発症する」
「っつーと?」
「ド淫乱になる」
途端、ビリーは盛大に噴き出した。
何とかシャツの袖で防いだが、袖はもう真っ黒、ドロドロだ。
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ……! ったく! ジェーンといいお前といい、食事中になんつー話を持ち出すんだ!」
「真面目に言っただけだ、それに重要な問題だ」
「だとしても……」
ビリーはうなだれながらも、一気に五目野菜を掻きこむ。
それでも、ヘレンの言葉は止まらなかった。
「はじめのうちはみんな言うんだよ、オレは男だ、オレは男だ、男に恋するなんてありえない、どうせ『にゃんにゃん』するなら女だ、って。けど、結局は逆らえないんだよなぁ、女性として男性を愛してしまう、その衝動と欲望に」
「じゃあ、あいつも……」
ビリーのスプーンとフォークが、止まる。
呆然とするそんな彼に、ヘレンは再びワインを手にし、言った。……いつの間にか、ビリーが作ったすべての料理が、ヘレンの食器から消滅していた。あれほどしゃべっていたというのに、本当にいつ食べつくしたのか。
「あんたの言う『あいつ』さんも、我慢してんじゃないの?」
ビリーの最後の仕事は、食べ終わった後の食器を洗うことだった。
それが終わると、ビリーはこの日の報酬を受け取った。そしてその額を確かめると、「マジでこんなにもらえた……」と驚きの表情を浮かべていた。
「けど、何だって洗い物とメシ作りでこんなにギャラを?」
「オレだって研究に没頭したいからな。研究がうまいこと成果を上げれば、病気に苦しむ人が減り、オレも更なる研究資金を機関からもらうことができる。もちろん、その日は1日でも早い方がいい」
「成る程ねぇ。じゃあ、これはありがたくいただいとくぜ。明日もよろしく頼む」
「ああ、こっちこそ。お疲れさん、ワイルド・ビル」
「おう。よく休めよ、ヘレン」
ビリーが去ったあと、ヘレンは静かにドアを閉め、チェーンをかけ、二重に施錠する。
そして、ドアにもたれかかると、ヘレンは胸の中央に右手を当て、ふぅぅぅ、と深いため息をついた。
「さー、って」
背中でドアを強く押し、その反動で上半身をドアから離して、ヘレンは2階に続く階段に向かった。
「このうずき、何とかしなきゃ……」
――研究がうまいこと行けば、オレのこのうずきも、どうにかできるはずだ……
アパート、フランジア。
ビリーが帰る頃には、すっかり暗くなっていた。半分に欠けた月が、無数の星屑と共に夜空を彩り、明かりの乏しい町を優しく照らす。
アパートのドアの鍵を開け、階段を上り、201号室の前まで帰ってくる。そしてその鍵を開けようと、鍵を鍵穴に差し込むと。
「ん?」
――鍵、開いてるな。
――ジェーン、帰ってきてたのか。
ビリーはドアノブに手をかけ、そのまま手前に引く。
するとそこには、ランタンに明かりをつけ、ベッドの上で横たわっているジェーンがいた。それも、熱帯夜というほどではないにしろ、なかなか暑さが抜けない気温の中、毛布をすっぽりかぶっていた。顔は窓の方を向いており、ビリーには彼女の表情が伺えない。
「具合、悪いのか?」
ビリーのそんな言葉に。
「ううん、そうじゃない」
ジェーンは、力なくそう答えた。
「メシは?」
「ワイルドターキーのまかないをご馳走になった」
「そうか。そんなことを言ううそつきにはお仕置きしないとな」
ビリーはハンガーにジャケットを引っ掛け、砂避けのマフラーをその上から引っ掛ける。
ジェーンはわずかに顔を動かし、目だけでビリーを見ようとする。
「どうしてばれたの?」
「こんな時間だろ? ワイルドターキーが閉まるわけがない」
「そっか。ビリーって、店長と仲がよかったよね」
「もういっぺん聞いてやる、具合は大丈夫か?」
「……今日、集中力が続かなかったんだ」
ジェーンはぽつりと言った。
「注文は間違えるし、足引っ掛けて料理を台無しにするし、テーブルの番号を入れ違えてトレーを置いちゃうし、ミスばっか。レジには1日中、立たせてもらえなかった」
「重症だなぁ」
ビリーはキッチンの方を見やる。
そこには、ジェーンにしては珍しく、ビリー以上に酷い焦げ目のついた焼きそばが、ひと皿盛られていた。虫除け用のネットもちゃんとかぶせられているあたり、集中力が続かなかったというジェーンでも、ちゃんと配慮はできている。
「どうしてそんなに、集中できなかった?」
「………… ……ビリーのせいだよ」
まさかの答え。
ビリーは耳を疑い、もう一度聞いた。
「え?」
「ビリーのせいだよ!」
途端、ジェーンは布団をはいで起き上がった。
ジェーンの格好。それは、軍服のYシャツ1枚のみ。しかも、汗をびっしょりと掻いており、シャツが乳房に張りついている。
「お前……」
「ビリーのことが離れなかった。ビリーにお店の料理を食べさせたかった。お店のデッキ席で外の街を眺めながらさ、どうでもいいことをお話してさ、ビリーと一緒にお酒を飲んでさ、そんでさ……! とにかく、そんなことばかり考えてた。お店の仕事よりも何よりも、ビリーと一緒にいる時間の方を優先したい僕がいたんだ!」
そして、ジェーンは仕事から帰ってきたばかりのビリーの方に駆け寄る。サンダルもはかない、素足のまま、まともに掃除されていない床を走る。
「責任とってよ! 僕の中からきみを追い出してよ! いつも冷静に任務を遂行する、いつもどおりの僕に戻してよ!」
「ジェーン……」
「違う!」
ドン、と強くビリーの胸を叩いた。
「僕はジョニーだ! レッドヴィル州陸軍軍曹、ジョニー・デツェンバーだ! これでも戦場でたくさん活躍して、資格もがんばって取得して、バッジだっていっぱいもらったんだ! 次の昇格試験で、曹長になれたかもしれなかったんだ!」
また、ビリーの胸を叩く、二度、三度、何度も。
「ジェ…… ジョニー、そんなに辛かったのか……」
「辛いなんてもんじゃないよ、苦しくて死にそうだよ! もう、僕が僕じゃなくなりそうで怖いよ! ワケわかんなくなりそうだよ!」
「だったら」
ビリーは、そっとジェーンの背中に手を添えた。
「え……?」
その手つきは、少し乱暴で、しかし優しかった。
ごつごつして筋肉質な腕が、壊れてしまいそうなジェーンを、きつく抱きしめた。
「お前は、両方のお前でいればいい」
「どゆ、こと……?」
「昼と夜とで、ふたりのお前を使い分ければいい。外と家とで、ふたりのお前が入れ替わればいい。お前はジョニー・デツェンバーでもあるし」
涙でぬれたジェーンの顔を見やり、ビリーはその細いあごを、右手で上に向けた。
「ジェーン・ヒコックでもある」
「え……?」
呆気に取られるジェーン。
だが、ビリーは背中に添えていた左手をジェーンの頭に添え、滑らかな金髪に絡めながら、顔を引き寄せる。
「お前は、ずっとここにいればいい。で、俺はお前の中にずっといてやる」
「ビリー……」
時間が止まったような、それとも急に進んだような。
妙な錯覚に陥ったジェーン。
気付いたときには、以前よりもやわらかくなった唇が、
がさがさの唇に、触れていた。
……そして、その翌日。
居酒屋、ワイルドターキー。
「どうも、ご心配をおかけしました。ジェーン・デツェンバー、完全回復しましたっ!」
すっかり着慣れた制服をまとい、ジェーンはキールに、ペコリとお辞儀した。
「そうか、それなら早速、仕事に取り掛かってもらおう。ためしに、レジに立ってみるといい」
「ありがとうございます! よーし、今日も1日、張り切っていこーっ!」
昨日は注意力散漫、今日は全力全開。そんなジェーンの変わりように、ほかの従業員はきょとんとするが、キッチン担当の青年は、「元気があっていいんじゃね?」と軽く流している。
その一方で。
錬金術研究所、ペンドラゴン。
「このフラスコはこっちでいいのか?」
ビリーは相変わらず、洗い物やご飯作りなどの家事雑務をこなしていた。
「ああ。あ、丸と三角の順番が違う、ちゃんと図面見てくれ」
「お、悪かった」
乱暴な口調のふたりだが、これはこれでいい主従関係ではないだろうか。
「で、こっちの薬品はどこに置けば?」
「あ、触るな、配列がぐちゃぐちゃになる。ぐちゃらしたら今日のギャラなしな?」
「うぉっと危ねぇ!?」
本当に奇妙な仕事にありついたものだ。
元男のジェーンはひらひらのエプロンに身を包んで男たちに愛敬を振りまき、ビリーは家政婦がやりそうな家事をひたすらこなす。
そして、それから1週間が経過した。
ビリーはヘレンの仕事の任期を終えたが、ヘレンからの要望もあってもう少しアシスタント、もとい家政婦ならぬ家政『夫』を続けることになった。ヘレンからは、「もう少しでこの研究にひと段落つくから、それまで働いてくれよ」とのことだった。
その一方で、ジェーンはワイルドターキーに現れた新顔の客に目をつけられていた。
「やぁ、お嬢さん。いい働きぶりだね」
ほかの女性店員に席を案内されたにもかかわらず、使用済みの食器を山と積んだジェーンの前に、突然現れた。
「うわっと! 危ない……」
――もう少しで、皿を全部落とすところだった。
ジェーンは、目の前に現れた男性を見上げた。
「はい、どちら様でしょう?」
その男は、ジェーンの髪よりも明るいブロンドの髪をオールバックに決め、サファイアのように青く深い目を持つ。服装は牛革のジャケットに色あせていないきれい目のシャツに、ブルージーンズ、銃弾の飾りが施されたウェスタンブーツといった出で立ち。荒くれ者といった風でもなく、しかしどこかの金持ちと言うわけでもなさそうだが、立ち振る舞いは上品そうだ。
「失礼。わたしの名は、ウッド・ジェームズ。きみ、お名前は?」
「はい…… ええと、ジェーン・デツェンバーです」
「ジェーンか。今、お時間は大丈夫かね?」
「ええと、ご注文なら承ります」
「なら、きみを注文しよう。今日は、本当はここの店長に用事があったのだがね、気が変わったよ」
「ええと、ごめんなさい、今はまだ仕事中なので……」
「なら、仕事が終わってからでも」
「ええと……」
突然現れた、ウッドと言うこの謎の男。
よく働くジェーンの行動を止められ、この店の仕事効率は一気にダウンした。
ワイオミングがキールを呼びに行き、彼がジェーンのそばまで駆けつけたときには、食器を山と乗せたトレーをずっと持っていたせいで、ジェーンの腕が震え始めていた。
「お客様、困ります、うちの従業員の足を止めないでください」
「おや? そうかそうか、きみがこの店の店長かね。ちょうどいい、話がある」
ウッドはキールのほうに向き直り、唐突にとんでもないことを言い出した。
「この子を、ジェーンをいただいていく」
「なっ……!? ど、どういうことですか!」
普段は穏やかな表情のキールも、さすがに声を荒げる。
だが、ウッドは涼しい顔で言ってのける。
「わたしは、この子が気に入ったのだよ。そばに置いておきたい。この子には一生涯幸せにすることを約束しよう」
「デツェンバーは、この店の大事な働き手です。それにデツェンバーも、楽しく仕事に取り組んでくれています。そのようなことはできません」
「何か勘違いしているようだから言っておこう」
その時だ。
ウッドは紳士的な顔つきを崩すことなく、
しかし、キールの眉間に、銃口を突きつけていた。
「な……!?」
突然現れた、漆黒のリボルバー。
それを見たほかの客が、騒ぎ立てる。
「何なんだ、いきなりどうした!?」
「キャー! あの人銃を持ってる、助けてダーリン!」
「お、お金は置いておく、釣りはいらない、じゃあねっ!」
騒然とする店内。
涼しい顔で銃を向けるウッド。
震えて声を失ったキール。
もしキールが断れば、彼は間違いなく殺される。
「彼女をくださいとお願いしているのではない。彼女がほしいから注文する、ただそれだけのことだ」
ばん!
ワイルドターキー店内に、銃声が響き渡る。