ハンナの薬酒
第六章で供された薬酒の裏話。
「おや。冬の薬酒ができあがったんですか?」
台所道具がしまってある戸棚の前に跪いて、ごそごそとやっていたハンナが、ぎょっとした表情で振り返った。が、入ってきたのがトラヴィスとわかり、ほっとした顔になる。
「ああ、びっくりいたしました。驚かさないでくださいまし」
「それはすまなかったね。もしかして、それは例のあれですか?」
ハンナは右手におたまを、左手には水差しを持っていた。
「はい。そうでございます。トラヴィス様も味見なさいますか? 良い感じに仕上がりましたの」
ふふふ、と笑う。どうやら会心の出来のようである。
「いいえ、老体には刺激が強そうですから、けっこうですよ」
トラヴィスは、おかしそうに苦笑して肩をすくめた。
例のあれとは、トラヴィスが伝手を使って取り寄せた薬種が漬け込まれた、特別な薬酒のことである。
値段を度外視して集めに集めた、大陸最凶の毒蛇の干物だとか、凶悪な亀の血肉の粉末だとか、高山の崖にしか生えていない希少な薬草だとかが、惜しげもなく使われているのである。
そんな薬酒の効能は、滋養強壮はもちろん、冷え性、疲労回復、食欲不振はあたりまえとして、なによりも媚薬効果が付加されていた。……それも、たぶん、強烈なのが。
たぶん、というのは、一応、主たちに供する前に、城下の口の堅い者に効能を確かめてもらったのだが、皆一様に、『一杯で充分でございます』と言ったからである。
しかし相手は、絵に描いたようなハルシュタットの若者である。頑固を通り越して頑迷と言っていい自制心の持ち主だ。それに、体も大きい。毒も薬も、医者は体の大きさで量を加減する。
だからハンナは、水差しいっぱいに用意しておくことにした。いずれにしろ、効いてくれば飲むどころではなくなるだろうし、女主の酒量は、小まめで心配性な若者が加減するから心配ないだろう。
「サリーナ様に出来上がったとご報告いたしましたら、今夜、エディアルド様のご相談にのるのだとかで、味見がてら、ぜひこれを二人分用意してほしいと仰って」
「ほう、そうですか。薬酒は飛びぬけて度数が高いですからねえ」
ハンナも、そうでございますねえと、訳知り顔で頷く。
酔って意識をなくした彼の横に朝までもぐりこめば既成事実の偽造ができるかと、酒豪のロランに頼んでみたり、城の皆でよってたかって彼を泥酔させようと試みたが、これまでいまひとつ成果は上がっていない。
どうやら女主は思いつめて、強い酒を使って、自ら陥落させるという無謀な賭けに出たようだった。
本来、薬酒はてきめんに効果を現すものではない。じわじわと穏やかに効き目が出てくるもので、毎日少しずつでも飲ませていれば、そのうち我慢の限界を超すのではないかという目論見から、トラヴィスとハンナはこの薬酒を用意したのだ。
だが、ここは渡りに船である。効能も思った以上の効き目のようだ。恐らく、先にアルコールの方が効きだすのだろうが、少し理性のゆるんだところに迫っているうちに、薬効も現れだすだろう。
知恵者と名高い一族の後継者が本気で迫って、しかも本人は知らないが、媚薬を使うのである。今回こそは、良い結果が期待できそうだった。
「ところで、普通の薬酒の方はどうですか?」
「そちらもできております」
「では、今夜はさっそくそれをいただいて、年寄りは早く寝るとしましょうか」
「そうでございますね」
大人たちは、よけいなことはいっさい口にせず、まなざしで語り合って、微笑みあったのだった。