第七十一話 藤ヶ崎に戻っては来たのだけれど でござる
伝令の言葉通り、日暮れ前に与平とそれに率いられた者たちが到着した。
俺と伝七郎はそれを出迎え、与平とも互いの無事を喜んだ。
「それで武様。俺たちはこのまま藤ヶ崎?」
弦を外した弓を担いで、矢筒に入れられた矢を腰でガチャガチャ言わせながら与平はそう聞いてきた。
「ああ。状況も、各種物資的にもあまり余裕はないからな。あっちこっち移動させ続けですまんが、明朝ここを経つから、そのつもりでいてくれ」
答えるついでに軽く予定も伝える。
俺としては、あっちこっちと動かしまくったので少々申し訳なく思っているのだが、言われた本人はどこ吹く風と言わんばかりだ。全く問題ないというような顔をして言う。
「了解しました。じゃあ俺も、信吾らの手伝いに行ってきます。なんかさっき入ってきた時、投降兵大人しくさせるのに相当苦労してたみたいだから」
「そうか。すまんな。苦労をかける」
「それは言わない約束です」
そのネタはこっちにもあるのか?
いやもとい、本当にタフだね君らは。俺には真似できないよ。
そんな事を考えていたら、与平はニシシと嫌らしい笑いを浮かべた。
「武様? 今度一緒に訓練しましょうか?」
こいつはエスパーかっ。
だがこれは良い機会だ。
「…………まずは三歳児用の軽い奴で頼む」
もっとも、頼むにしてもちょっぴり恥ずかしく、勇気が必要であった。
しかし、俺は自分の名誉の為にも言っておきたい。俺は決して、体力のない貧弱な男ではない。自分で言うのも何だが、はっきり言って体力的には相当優れている方の人である。……ただし、元の世界の学生レベルでの話ではあるが。
こいつらが異常なのだ。決して俺が出来ない子なのではない。
ただそう言って自分を慰めてはみても、現実問題俺はすでにここにいて、この脳筋ワールドの異常な体力インフレの中で戦っていかなくてはならない身なのだ。
今のままでは不十分であり、改めて体力を付ける必要があった。
無論それだけでは足りない。こんな世界で、こんな環境で暮らすには、体力だけでは心許ないにも程がある。他にも多少の武技くらいは修める必要があった。この歳からでは武の頂点を目指すというのは不可能だが、それでも最低限程度は修めておく必要性がある。
いざという時、それが身を助ける。今日、身を以てそれを学ぶ事にもなった。
とはいえ、こいつらと同じ事が出来る訳がない。ましてやいきなりなど、出来るか出来ないかを考える事自体が馬鹿馬鹿しくなる程に不可能だ。それもまた、わかっていた。
俺の心を見透かす与平と、からかうネタを提供してしまった俺。
今度鍛えてもらえるだけでも、ましだと思うしかない。
そんな弱腰でヘタレな自分が、愛おしくて堪らない秋の午後だった。
「ん、こほん。で、そうなると将を三人とも俺が使ってしまう事になるが、伝七郎はそれで問題なかったか?」
ただ、流石に捕虜関係で将全員使うのは気が引けたのでちょっと聞いてみる。しかし伝七郎はあっさりとしたもので、
「はい、問題ありません。与平、よろしくお願いしますね?」
と二つ返事で答えたばかりか、改めて与平に頼んでもくれた。
すると与平は「承知いたしました。伝七郎様」と答え、自分のやる事は決定したとばかりに頭を一つ下げて俺たちの前から下がっていった。
時に、なんでこうも対応に差があるのだろうか。確かに伝七郎はいじられる様なキャラではないが、何かとても不公平さを感じずにはいられなかった。
どうせ言っても無駄だから、良いですけどねっ。俺は泣いていない。
翌朝までしっかりと準備をしてくれた三人衆や又兵衛のおかげで、滞りなく藤ヶ崎に向けて出発する事が出来た。
道中も問題らしい問題も起きず、予定通りの到着となる。
町の近くにまでやってくると、いくつもの家々から夕餉の準備の煙が立ち棚引いているのが見えた。大通りを行き交う人々も忙しない。
そのまま道沿いに進むと程なく北の門に着き、町の中へと入る。
ただ門を通る時、妙に門番の数が少なかったのが気になった。とは言え、いなかった訳ではないので、その場ではそれ以上の詮索はやめた。後で爺さんに聞けば良い話である。
だからとりあえずは、その疑問は頭の隅に追いやる事にした。そして街を、奥へ奥へと進んでいったのである。
商店街の皆様ごめんなさい。
また営業妨害をしてしまったようだった。皆さん道の脇に寄って、絶賛正座中である。夕暮れ前のかき入れ時だというのに、町中での俺の評判が悪くなったらどうしようかと、真剣に心配しながら行軍する事になった。
仕方ないよな。俺だけが悪い訳ではない筈だ、多分。
そう心の中で言い訳をしながら、さらに奥へ奥へと館に向かって進んでいく。
そして、ようやく水島の館に着く。数日空けただけだが、気持ち的にはやっと帰ってきた――といった心境だった。
しかし、そのままのんびりという訳にもいかない。学校から家に帰ってきた学生ではないのだ。将としての務めというものがあった。
まずは、主君である千賀の元へと向かうことにする。
早く帰ってこいと、あれ程騒いでいたお嬢さんだ。帰ってきてすぐに顔を見せなければ、また拗ねるに決まっている。
投降兵は軟禁しておくように――と、信吾ら三人衆と又兵衛に言い渡し、俺と伝七郎の二人は奥の当主の間へと向かった。
「やれやれ。やっと一息だというのに、こちらに戻れば戻ったでお守りなんだよなあ。方向が違うだけで、死ぬほど大変なのは戦場とそう変わらん」
リアル戦場を経験した俺には、この台詞を言う資格があると思う。本当に、そのぐらい大変なのだ。あの幼女の相手をするのは。
わざとらしく溜息なども吐いて見せたりした。
すると、それを見て伝七郎は笑う。
「まあまあ。姫様があそこまでなつくというのも珍しい事なのですよ?」
そう伝七郎はノタマッタが、俺は(いや。しょっちゅう背中に、隠れ家を提供しているお前がそれを言ってもなあ……)と心底思った。
でも、それを言ったところで珍さんと珍さんがいるだけになってしまいそうなので、
「珍しければいいというものじゃない」
と、言葉を換えて主張する事にした。
「ふふっ。それはそうですがね。でも姫様……、あれで見る目はしっかりとしていますからね。その目を持つに至った経緯を考えると胸が痛みますが……」
俺の言葉を聞いた伝七郎は最初は笑っていたのだが、言葉の最後になると心底痛ましいといった表情をした。
その気持ちは俺にも理解できた。ただそのまま同意してしまうと、本当に暗い気持ちになってしまいそうなので俺は、
「……さよか」
と返すに止める事にした。
そんな軽口とちょっぴりシリアスな内容の会話を交わしながら、俺たちは奥へ奥へと廊下を進んでいく。
そして奥の間のある――いわば水島家の私的領域と公的な役割を兼ねる領域を隔てる扉を、番の者に開けてもらって通る。
そのまま千賀がいる筈の奥の間へと、俺たちは進もうとした。
――――だが。
ダダダッ――――。
日が暮れかけて薄暗い廊下を、転がるように低く駆けてくる影があった。小さい。そして、存外速い。
その影は躊躇うという言葉を知らなかった。具体的にはその勢いを全く殺すことなく、『俺』に向かって突っ込んできた。
俺は驚き、体が固まってしまう。目を見開いたまま、その影を受け入れるしか術がなかった。
そして――――。
ずむっとでも言おうか……、なんとも表現しがたい音が廊下に響いた。そう。あえて例えると、ふかふかの布団に飛び込んだ時にするような音だった。
そんな音が俺の腰の辺りから聞こえるのである。なぜだろうか。俺はそれ以上考える事が出来なかった。
「お…………、おお…………、お…………」
大 惨 事。大惨事である。
腰を折って悶える俺。油汗が後から後から噴き出てくる。
「ひ、姫様?」
俺の腰辺りを見て、目を見開いたまま固まっている伝七郎。
お、お前はいいよ。なんで俺ばっかあっ! ぐおおぅ。
跳びたい。とにかく跳びたい。恥ずかしそうにお隠れあそばしているツーボールズをなんとかしたいっ。
奥へ奥へと上がってしまったものをなんとかしたかった。
それは切実な欲求だった。でも、できなかった。
悶え呻き、脂汗を流しながら視線を下に下ろす。我らが姫様が腰にしがみついていた。まるで蝉だった。
つまり、ジャンピングヘッドバットだった訳ね――と思うだけで精一杯だった。
しかし、当然思う。
繊細さと、諸事情により強制的に保たれた清さ”だけ”が売りの我が相棒である。プロレスごっこもまだ未経験だった。それなのにリアルプロレスをされても困るのだ。そう困るのだ、と。
まだ治る気配がない。
こういう時は、だむだむと跳躍しなくてはならない。男ならば教えられていなくとも、その情報はDNAに刻まれている。兎に角、腰の奥に引っ込んだツーボールズを下ろさなくてはならないのだ。
「ぐ……む……ち、千賀……? わ、悪いけど、ちょっと離れようか…………」
「だ、大丈夫ですか?」
大丈夫じゃない……。激しく大丈夫じゃないぞ、伝七郎……。
しかし、肝心の千賀からの反応がない。だから、
「千賀……、ちょっと放――――」
放してくれと言おうとした。でも、できなかった。
「ふ、ふぐっ。うぐっ。ふぅ……ひっく」
この段になって、ようやく俺は気づく。
――――千賀は俺の腰にしがみついたまま、顔を押しつけて泣いていた。
そして、脳味噌が動き出す。
未だ下半身は大変な事になったままではあるが、とりあえず俺の相棒の話などしている場合ではなさそうだった。
気合いと根性で痛みを堪え、伝七郎の方を見る。
伝七郎もこの千賀の様子にただ事ではないと感じたのか、すでに先ほどまでのゆったりとしてどこか抜けたような雰囲気など仕舞い込んでしまっている。真剣な顔つきで千賀の様子を伺っていた。
腰に張り付いたままの千賀を優しく引きはがしながら、俺は腰をかがめる。そして、膝を着いて目線の高さを千賀に合わせた。
「よ、よーしよし。千賀、落ち着け。一体どうしたんだ?」
千賀の頭をなでりなでりと撫でながら、ゆったりとした口調で尋ねる。こういう状態で、子供相手に慌てても無駄だからだ。兎に角落ち着かせないといけない。
しばらく俺に撫でられて、千賀はようやく顔を上げ、くしくしと目を擦っていた両手を下ろした。その大きな目は赤く腫れ、涙でべしょべしょだった。
「うっ、ひっく。い、いっぱいなのじゃ。平じい死んでしまうのじゃ。なんとかしてたも~……」
しゃくり上げながらも、小さな声で呟くように、なんとかそれだけを千賀は言う。そして、再び両拳を目に当てて顔を隠してしまった。
まいった。何を言っているのか、さっぱりわからん。
爺さんが不味い事になっているというのは察せるが、それ以上を把握できずに、どうしたものかと千賀の頭を撫で続けながら考える。すると、
「おかえりなさいませ、武殿」
と出迎えてくれる声が、奥から静かに歩いてやってくる。そしてその声は、俺の返事を待つ事なく続けた。
「……金崎が攻め込んできました。父はそれを迎え撃つ為に出陣しました」
その声はいつもの涼やかな口調と異なり、清澄を欠いていた。わずかに震えている。
そして、その声音には聞き覚えがあった。それは、道永と戦っていた時に聞いていたものと同じもののように俺には思えた。
そう。無理に平静を装おうとして、自分を押し殺した声のように俺には聞こえたのだ。
「……お菊さん」
俺は膝を着いたまま、千賀の頭を撫で続けながら顔を上げる。
そこには思った通りのものが見えた。
見えたのは、その声の調子のままに青ざめた表情で、無理やりに笑顔を作ろうと頑張っている顔だった。