第七十話 御神川河岸の陣にて でござる
目の前の御神川は大水量を誇り、川の中央ではやや荒々しく大層な速さで水が流れている。その流れは山々の裾を舐めながら大きく弧を描いていた。ここは赤く、そこは黄色く――秋色に染まった山裾に広がる森と、切り開かれた北東へと向かう道に付き添われるようにしながらどうどうと流れていた。
藤ヶ崎を経由してこの場に着いた流れは、こうして山向こうへと消えてゆくのだ。
そんな大河の流れも岸近くはわりと静かなもので、汚れた俺の顔を洗わせてくれる程度の度量は持ち合わせていた。それを見て、あとで飛び込もうと決める。奥へと進まなければ、さしたる危険はなさそうだったからだ。
御神川は、三叉路脇のこの場所で大きく曲がりながら進路を変え、東北東へと一旦向かう。それだけに対岸の河原の方が圧倒的に大きい。
しかし、そこまで行くには川を渡る必要があった。幸いというべきかどうかは微妙なところではあるが、俺たちはそこまでの広さを必要とするほどの大所帯ではない。だから手前にあるこちらで手頃な場所を見つけ、そこに陣を敷いたのだ。
俺と伝七郎はその陣の中、御神川の川縁に来ていた。
少々強い風が吹いている。こちらは対岸ほど遮る物が何もない河原ではないが、それでもそれなりに風が強い。陽が落ちれば、それなりに肌寒く感じる事だろう。
さざめく川縁の枯れ草と流れゆく大河の音に包まれ、雄大な御神川を眺める。横で同じく川を眺めていた伝七郎が口を開いた。
「やっと一息ですね」
「ん? ああ、今日は朝から濃すぎる一日だったからな。まだ昼だというのに心身ともにへとへとだ」
吹き付ける風に目を細めながら、そう言ってややオーバーアクション気味に俺は疲労をアピールしてやった。
それを見て、「ははっ。私もですよ」と伝七郎は笑う。
意味のない会話――それが心地よい。ずっと意味のある会話ばかりをしていると心底そう思う。こういう他愛のない会話というのも、そういう意味では実は意味があったのだなあ、とこの時俺は初めて知った。
そして俺たちは、そうしようと言った訳でもないのに、川の流れを眺めながら、風に吹かれて立ち話を続けた。当然それは内容のある話ではなかった。
しばらくその無意味を楽しんだ後、心に淀み続けている事の一つを口にしてみる。
「…………けっこう兵を損耗してしまった。いや、贅沢な事を言っているのは分かっている。さっきの戦いで俺の副将を務めてくれた人にも『これ程犠牲少なく勝てるとは思わなかった』と言われたしな。だがこれから先の事を考えれば、たとえ贅沢な言い分であろうと、やはり痛い」
俺の言葉に、伝七郎は静かに頷いた。
「ですね。私は武殿が何を見てそう言っているのか教えていただきましたから、その言葉に同意できます。確かに一つの戦の結果としては、十分すぎる程に十分な結果です。ですが継直の首を見据えるならば、これ以上を望むのは難しいと分かってはいても、それを望みたくなる」
「早急に増員しないと」
伝七郎の同意にそう呟くと、視線を目の前の大河に移した。と、同時に目の端で伝七郎の顔が動く気配を感じる。どうやら奴もこちらから視線を移したようだ。
そして、伝七郎はぽつりと言う。
「兵の数……、正直足らないですよね。継直とやり合うには。それに藤ヶ崎一つでは限界があります。根本的な部分から方法を検討しなくては。とりあえず間違いのない正攻法としては、継直に取られた領地を取り戻しながら、順次支配の及ぶ場所を増やし、且つそれに合わせて兵を増員していく――といった所でしょうか」
「だな。だが継直に取られた地域では、すでに継直が使える民は兵にしてしまっている可能性も高い。増兵する方法も考えなくてはなあ……」
「それもありますよねぇ……」
「地道な作業になるなあ。ここを狙っている奴らは周りにも沢山いるようだし……。ほんと継直は余計な事をしてくれたよなあ。奴にしてみれば、そうしなくてはなれない領主への道だったかもしれんが、水島領としては文字通り死にそうな程の大迷惑だよ」
「まったくです。――それはそうと武殿?」
継直の顔でも浮かんだのか、伝七郎は怒りを滲ませた口調で同意する。そして、その気分を振り払うかのように、声の調子を変えて俺に尋ねてきた。
「ん?」
その問いかける調子に俺は伝七郎の方を振り向く。奴もこちらを見ていた。
「投降した者たち……。本気で前に聞いたようにするつもりですか?」
伝七郎は、まっすぐに俺の目を見てそう問うた。だが、止めようとしている目ではない。あくまでも確認しようとしているように俺には見えた。
だから俺はこう答える。おそらく俺がこう答える事も、伝七郎は分かっているだろう。それでも、だ。
「勿論だ。どうしてそうするのかは、このまえ説明しただろう?」
「はい。もちろん覚えていますよ。ものすごく驚きましたから。……そして、恐怖もしました」
伝七郎はそう言って俺の目をじっと見た。それは、そこに何があるのかをしっかりと見極めようとする視線だった。
だから俺はくすりと小さく笑って、奴の目を真っ直ぐに見返す。そして、そんな方法で見極める必要はないとばかりに、はっきりとした意志の乗った言葉で伝えてやった。柔らかくも、これ以上なく強力な意志を込めた言葉で。
「まあ、そう言うなよ。――――選ばせてはやった。それでもなお継直を選ぶという奴らに、相応の未来を用意してやるだけだ。それにこちらの都合から言って、あれが一番良い筈だ」
「まあ、それは……。こちらが良いところ取りする為の台本ですし」
「その通りだ。継直の性格を考えれば、結果など一つだからな。まず間違いなく成功するだろう。おまけに民にも兵にも分かりやすい。それが起きる理由もその構図も」
「外から見えるものは、すべてがとても分かりやすく出来ていますからねぇ……」
「そうだよ。だが民や兵にとっては、それが真実だ。表に出る俺たちの意図は、ただの善意だよ」
「それだけに、より一層悪辣です」
「そうだよ。俺は、俺たちは、正義を語る者であって正義ではない。俺たちがそれを勘違いした時、水島は再び腐るぞ?」
「承知しています。だから反対はしません。ただ、確認がしたかっただけです」
だろうな……と、俺も話している伝七郎の様子から確信していた。お互いに分かっている事を確認しあったようなものだ。
そう思いながら屈んで、河原の小石を一つ拾った。そして軽く振りかぶって、目の前の川の流れに向かって投げた。
流れの中に、いくらかの飛沫を上げて石は消える。水の流れる音、そして風の音が大きくて、石が川面に飛び込む音はいささか聞き取りづらかった。
もう一度石を拾いながら、
「今回のこれは、成功すれば今後の俺たちに多大な影響を与えるだろう。投降や造反をさせる時にしっかりと役に立ってくれるだろうからな。やっておく価値はあるさ」
と言う。そして再び小石を投げた。先程と同じく、流れの中に小石は消える。
すると伝七郎は、「そうですね」と呟くように言った。
横目で見ると、奴も俺が投げ込んだ小石を目で追っていた。