第六十六話 分水嶺 でござる その二
「貴様のような卑怯者が言おうとする事など碌な事ではなかろうが、聞くだけは聞こう。さっさと言え」
口の威勢はよし。
横の二人は茂助の態度に気色ばんだが、俺としてはこいつの口が滑らかであればそれでよかった。気分よく歌ってくれれば、その内容の如何は問うつもりはないのだ。
正直、こいつ自身にはまったく興味がない。興味があるのは、こいつがどちらを選ぶのか――その結果だけだ。それ故に、現状では否なのか応なのか首ひとつ振ってくれればそれでよく、それ以上を求める気持ちがまったくなかった。現状のままで十分なのだ。だから二人を止めたのだ――無駄な労力割かなくて良いよ、と。
ただしこの様子だと、選択させるまでもなさそうではある。だがこれは、俺たちにとってはともかく、奴にとっては間違いなく運命の分かれ道となる選択なので省略はしない。
俺はそこまで鬼ではないからな。選択”だけ”はさせてやる。
だから一度だけ尋ねる。
「では折角ですので、お言葉に甘えましょう」
そう一つ前置きをした。
こいつがもし多少でも使える男ならば、俺の話す調子が変わった事に気がつき慎重になる。
しかし茂助は、さっさとしろと言わんばかりにふんぞり返ったまま、顔を背けている。
(これから俺が口にする言葉は、お前にとっては文字通りに分水嶺となる。一度分かたれた流れは二度と戻らない。交わらない。もっと慎重にならなくても良いのか?)――心の中で、溜息と共にそっと呟いた。
「誤魔化しはなしです。率直に言いましょう。茂助殿、こちらに降られよ。水島の正統は千賀姫であり、欲に目が眩んだ愚かな継直ではありません。先代の弟は、あくまでも弟。本流ではない。傍流です。これはどこまでいっても不変の事実。継直もそれが分かっているからこそ、千賀姫の命を狙って躍起になっているのですから。貴殿は、目先の欲に溺れて領主の座を奪わんと兄を陥れた、姦物にして俗物の走狗で満足か?」
前に立って縛られ跪く茂助を見下ろしながら、堂々と胸を張り我々の正統を謳う。
最初の舌戦の時よりも、むしろ好都合な舞台だった。
なぜならその問いに対する選択を聞きたい相手は茂助だが、この言葉そのものを聞かせたい相手は茂助ではないからだ。他の投降した兵でもない。聞かせたい相手は――、俺たちに付き従っている兵たちにであった。
だから勝者と敗者の別がはっきりしているこの状況でというのは、最高の舞台たりえるのである。
こんな内容は、改めて場を設けて聞かせる必要はない。むしろそれは、後ろめたいものでもあるのかと勘ぐられかねない。この場にはいくらかの目があり、耳がある。そこから流れる風聞こそが最良なのだ。
それに、である。そもそもそれを信じているからこそ、現状どうみても救いようがないほどの劣勢である俺たちに従ってくれているのだ。だから、その内容が大事なのではない。すでに知り信じている物を、改めて教える必要はないのだ。必要なのは確認である。
つまり大事なのは、”自分たちの仇敵”に”自分たちを率いる者”が堂々とその正しさを宣し、相手にその不正を突きつけている――という姿勢そのものなのだ。
その姿を目の当たりにする事は、率いられる者には強く印象に残る。それは統率される者の統率する者への信頼に通じ、従っている己を信じる為の礎にもなる。これから更に育っていく水島の兵としての、それぞれの信念の根となるのだ。
いま現在劣勢の俺たちにとって、これはとても重要な事だった。
これは親父の背中に教わったっけ。
あの馬鹿親父は、幼い俺を巻き込んで馬鹿をやる時、それが本当に正しいかどうかは置いておいて、必ず俺に正しいと思わせた。要するに言葉悪く言えば、俺が幼いのを良い事に口八丁手八丁で騙くらかしたのだ。
親父のそれは、往々にしてハッタリだった。親父を信じてつるんだ俺は、後に母ちゃんにしこたま怒られた。親父と仲良く揃って正座させれたものだ。
思い出すと握り拳に太い血管が浮かぶが、今それは重要ではない。
大事な点は別にある。
親父にそのつもりがあったかどうかは別にして、それは間違いなく人を率いる為の方法の一つであった。
少々のアレンジを加えてはあるが、これはその猿真似だ。何事も最初は模倣から始まるのだ。
こうして思い出すと少し感傷的になる。再び会えるかどうか分からぬ両親を思って胸が締め付けられた。しかし、そんな感慨に浸り続けてもいられない。
今この時も時間は動いているのだ。
もちろん郷愁に浸っていた間も、俺は視線を茂助から切ってはいない。意識は奴に向けたままである。
俺の言葉を聞いて、茂助は予想通りの反応をした。
俺の言葉を聞くと、背けていた顔をこちらに向けた。しかし、その目に浮かべる俺への侮蔑の色は更に深く濃くなっていた。
見下ろす俺の視線と、見上げる奴の俺を蔑む視線とがぶつかり続ける。
そんな時間が続く。しばらくして、奴は口を開いた。その時には、目も顔つきもその態度も、何もかもが俺に対する嫌悪と侮蔑、そして憎悪に充ち満ちていた。
「やはりな。いかにも恥知らずの言いそうな事よ。実に貴様に相応しい。貴様のような輩が、継直様を俗物呼ばわりするなど笑止。身の程を知れっ!」
茂助は俺を小馬鹿にしたように鼻をふんっと一つ鳴らし、そう言い放った。こちらが下手に出ている事もあって、大変強気だった。
結構な事だった。下手に萎縮されて、白とも黒ともつかぬ返事をされるよりは遙かによい。下手に出て話を続けた甲斐があったというものだった。
流れは選ばれた。『さようなら』だ。
「ふむ。それではやはり下村殿は降られない、と?」
「当たり前だ。私を馬鹿にするな! 私は貴様のように恥知らずではない。恥という言葉くらい知っている」
(多分、本当に言葉”だけ”だと思うぞ?)と思わず心の内で突っ込みを入れた。むろん顔は友好的な柔らかな表情のままだ。
ふと、このままだと精神年齢だけが老け込みそうだと心配になる。心臓の毛が白くなったらどうしようか? 多分、ちんこの毛が白くなるのと同じくらいショッキングな出来事だろう。
その辺りはあとで伝七郎にでも相談するとして、とりあえずは目の前の男に黄泉路の道案内をしてやる必要がある。
俺は、微笑みを浮かべた顔を、さも残念そうな表情に作り替えながら言う。
「そうでございますか……。誠に残念でございます。しかし下村殿ほどの方、その答えも当然であったかもしれませんな。いや、先ほどの言葉はお忘れ下さい。無礼の詫び代わりに、一席設けましょう」
「何?」
突然の俺の提案に、茂助は(こいついきなり何を言い出すんだ?)という言葉をありありと浮かべた表情で、短く俺に問い直してきた。
「酒宴の席を設けます。捕らえた者たちは、下村殿同様そのすべてに投降の意志を問いましょう。そしてその意志のない者は、下村殿含めてそのすべてを解放します。ただ、その前に皆で慰労会というわけではありませんが、一席設けて戦の疲れを癒やそうではありませんか。どうです?」
俺はここで真顔になって、茂助を真っ直ぐに見据えた。茂助は俺の考えが読めないのだろう。俺の顔を睨みつけたまま、じっと考え込んでいる。
「……私も部下も解放すると?」
「投降されない方は」
「貴様……、こんどは何を考えている?」
「何も」
「酒や食い物に毒でも仕込むかっ? それとも、その席に兵を雪崩れ込ませるつもりかっっ?」
茂助は俺を睨んだまま唾を吐き散らしながら、そう吠えた。
俺はさも困ったというような表情をして、その様を黙ったまま見続ける。
すると、ついには猜疑心を爆発させて、縛られた人間に相応しいとは思えない破れかぶれにでもなったような口調で、茂助は俺を罵るような事を声高に叫び始めた。
「はっ! 流石は卑怯者のする事よ。戦は騙し討ち。捕らえた者に裏切りを勧める。そして、裏切らぬと言えば暗殺か。さてもさても見事な卑怯ぶり。この下村茂助、感服仕ったっ」
やれやれ。やはり本質的には臆病だな。又兵衛の見立ては間違っていなかったと言う訳だ。
しかし、それならそれでいい。すでにフラグは立った。あとはシナリオ通りにしか話は進まない。それが奴がした選択の結果なのだから。
「哀しいですなあ。他意はありませんよ。せめてもの詫びもかねて――とそう思っただけです。勇者に恥知らずと誹られるのは私も哀しいですからなあ。せめて一つくらい良い格好でもして、多少でも挽回できないものかと足掻いてみただけですよ」
そう言って俺は、やや力なくははっと軽く笑ってみせた。
「戯れ言を」
茂助は本当に穢らわしいと言わんばかりに顔を歪めて、そう吐き捨てる。
そこで今までの演技をやめ、俺は真顔を作って茂助を見据え、そして言った。
「いえ。ただ貴殿らを殺したいだけならば、こんな手の込んだ真似はしませんよ。そうでしょう? 私のやり方の是非は別として、現に貴殿らは私に捕縛されている。殺すだけならば、さほど面倒な事はありません。誓っていいますが、その席で貴殿らを殺す気などさらさらありませんよ?」
「……恥知らずの誓いなど、信用できかねるな」
俺の変わりように少したじろいだような様子をみせた後、茂助はそう言葉を返してきた。
いやあ。そこまで疑われると、流石の俺も傷つきますよ? 俺はどんだけ非道い奴なんだ。俺は何もしないよ。本当だ。君らをもてなしたいだけなんだ。
――――うん、俺はね。