第六十五話 分水嶺 でござる その一
パカリ、パカリ、パカリ――――。
愛馬――静に跨がった源太が、こちらに向かってやってくる。
その横には源太配下の兵に押し出されるようにして歩く、縄で縛られた下村茂助の姿があった。
それを見て思った事はただ一つ。(生きてたのかよ?! さっき馬の上から槍で叩き落とされたくせに)である。
たいした悪運の強さだと思わずにはいられなかった。正直さっき源太に叩き落とされたのを見た時、討ち取ったと思った。ところがこうして生きている。
しかしそんな内心などは露ほども漏らさず、満面の笑みで『彼ら』を迎え入れる。
まずは頑張ってくれた源太を労わなくてはならない。俺は静の鼻面を撫でながら、
「源太、お疲れさん。流石だよな」
と短い言葉で出迎えた。仲間にかける言葉ならば、装飾が過ぎる言葉よりも、こちらの方がふさわしい。
それに対して源太も、笑顔を見せながら、短く「有り難うございます」とだけ答えた。
これだけで済んでいれば、結構絵になるやり取りだ。しかし、源太である。それだけは済まなかった。
「武様もご無事で何よりです。それにしても相も変わらず武様の指揮は、妖術のようでございますな。これでは常人が戦って勝てる訳がない。私には、武様と戦おうとする人間が阿呆に見えて仕方ありません」
と言って、「はっはっはっ」と高笑いである。
(とりあえず妖術うんぬんは置いておこうじゃないか。本当は突っ込み入れたいんだよ? でも、俺は成長したのだ。だから我慢する。だが、これはどうなんだ?)
と、心の平衡を保つための文字の羅列を脳裏に浮かべながら、ちらりと横を見る。
――茂助がいた。
(そこに阿呆がいるのだよ、源太くん。あんまり刺激して欲しくはないんだけどなあ……)
そう思わずにはいられなかった。茂助は、顔を真っ赤にして眉をつり上げ、ぷるぷると震えている。
俺は心の内で、そっと溜息を吐いた。
とりあえず目の前の彼をこれ以上刺激しないように、話の向きを修正する事にした。
「馬鹿をいうなよ、源太。勝敗というのは水物だ。基本、やってみないと分からない。だが勝つべくして勝つ戦というものがあり、それと対になって負けるべくして負ける戦というものもある。ただ、それだけだよ」
戦法はあくまでも戦法であり、妖術ではないので当然必勝ではない。ズルではないのだ。
だから勝つべくして勝つ事もあれば、負けるべくして負けるような事もあるのだよ――と、俺はそう説明したつもりだった。
しかし、受け手との間に重大な齟齬が生じたらしい。いや、厳密には齟齬とは言えないのだろうが……。とにかく源太の口から出る言葉が、俺の意図とはまったく違う方向にいってしまう。
「なるほど。流石は武様ですな。勝利を確信するという言葉は聞きますが、勝利を知っておられるとは。ますます以て、敵に回して戦うなど論外ですね。武様と戦うならば、まずどう負けるか考えておく必要がありそうです」
そして、再びの高笑いである。朝日を反射して、きらきらとこぼれる光のかけらがとても眩しかった。
……こいつ、絶対分かって言っているだろ。
継直の陣営の奴らが余程嫌いなようだ。馬鹿の振りして、痛烈に扱き下ろしてやがる。仲間内では天然な兄ちゃんといった感じなのになあ……。
侮蔑する相手に対しては、かなり遠慮のない性格をしているようだ。
(そういう事はもう少し早めに申告しておくように。そうしたら、ちゃんと前もって説明しておくから……)と思わずにはいられなかった。
これからしなくてはならない仕事を考えると、頭が痛くなってきた。
まあ、いいさ。こいつらの状況考えれば、その気持ちも理解できなくはない。それに、もういま修正する意味もない。
よって、いま修正する事は諦める。適当に笑って誤魔化す事にした。
源太も多少気が晴れたのか、俺にならってそれ以上その話題を引っ張るのは止めたようだ。
なぜか今日の源太は、空気が読める男だった。俺の時もこのぐらい空気を読んでくれたならば言う事はなかったのだが。ただ、(おそらくはこの先もそうなんだろうなぁ……)という、半ば諦めに似た気持ちが心の内に沸き上がってきたのはなぜだろうか。俺はそれ以上考えたくはなかった。
そんな緩くも切実な案件について真剣に考えていたのだが、その横には先ほど強烈に馬鹿にされて顔を真っ赤にした茂助が、心底苦々しいといった顔でだんまりを決め込んでいた。
源太との話し合いが一段落するのを見計らって、茂助を縛った縄を持っていた兵が、俺の前まで奴を引っ張ってくる。そして、膝を着かせた。茂助はそれに逆らうように足を崩し、胡座をかく。
兵はそれを直させようとするが、俺は軽く手を上げてそれを止めた。
合戦で土埃が立たぬほど湿った大地だ。土から滲み出る水に濡れて気持ちが良いものではないだろうが、本人が良いならそれで良い。そんな事よりも……だ。
「さて、下村茂助殿……でよろしいか?」
縄縛されたまま地に膝を付かされ、うつむき歯を食いしばっている男に話しかける。戦前の舌戦の口調を一転させ、改まった丁重な口調で声をかけた。
今更確認するまでもないが、様式美というものである。とはいえ、まったくの無意味かというと、そうでもない。この言葉は、勝者と敗者を明確にする決定的な言葉でもあるからだ。
「……ふん」
茂助は顔を背けたまま、どこか小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。臆病な気質のようだと聞いていた割には、結構反骨精神も旺盛なようだ。とりあえず、俺の事は馬鹿にしきっているようである。
それならそれで、仕事がやりやすくなるから良いけれどな……。
心の内でそう呟く。
こいつの運命がどちらに向いてゆくかは別の話として、俺の仕事自体には別に不都合はない。むしろ好都合と言える。
ただ、このままでは旨くない。どう話を持って行こうか……。
視線すら合わせようとしない茂助を見下ろしながら、真剣に考える。
…………。よし、決めた。
そしてうっすらと苦笑を浮かべて見せながら、口を開く。
「なるほど。なかなかに豪毅な方のようだ」
俺は、小指の先ほども思ってもいない事を口にした。
「………………」
茂助は口を噤んだままだ。しかしもぞもぞと大地の上の尻を動かすと、心なしか胸を貼り気味にして口をへの字に曲げる。
……よし、かかった。俺は表情には出さずに、そっとほくそ笑んだ。
そして心の声とは明確に意味の異なる笑顔を作って、茂助に向かって言葉を続けた。
「この神森武。確かに此度の戦は勝たせていただきましたが、我が首をなんとしても取らんとする貴殿の勇猛なる戦い振りには感服させられました。私は非力ゆえ、なかなか貴殿のような戦い方は出来ません」
「……ふん。それで真っ向からの戦はせぬわ、騙し討ちはするわ、か? 腰抜けが。貴様は勝ったのではない。卑怯な真似をして、勝ちを盗んだのよ」
口を利く気にはなったらしい。茂助はそう毒づく。その心中が、これ以上なく伝わってくる物言いだった。
これに源太が反応しようとする。ぴくりと眉を動かした。続いて俺の脇に控えていた又兵衛が、これみよがしに手にした槍の石突きを地面に落としぶつけ、音を鳴らす。
それを見て俺はゆっくりと左手を挙げ、二人を抑える。むろん茂助に笑顔を向けたままだ。
「はっはっはっ。これは手厳しい。確かに勇者と戦う者の振る舞いではなかったかもしれませんな」
「ふん、今更何を言うか。それに貴様が私に言いたい事は、そんな事ではないだろう。さっさと本題に移れ。時間の無駄だ」
「いや、参りましたな。私ごとき若輩の猿芝居では、下村殿ほどの方を誤魔化す事は流石に出来ないようだ」
どうやら茂助は、こちらを完全に舐めてくれている。
大変好都合だった。
だから更にそれを生かすべく、俺はとにかく下手に下手に出た。
そんな俺を見て源太は何かを察したのか、訝しげにしていた表情を消した。代わりに愛馬から降りて俺の横に立つ。又兵衛は、何かとてつもなく不思議なものを見るような目をして、横に立ったまま俺を見ていた。
ん。とりあえず二人とも口を挟むのは止めたようだな。
それでいい。あれがどういう選択をするかは分からんが、今は二分の一の確率の為の仕込みをしているだけだから。話を真剣に聞いている必要すらないぞ?