幕 伝七郎(一) とある異界の男との出会い その三
本当に大丈夫だろうか? 咲殿も突然頽れた神森殿に心配そうな視線を向けている。本当に優しい娘だ。
神森殿はしばらくそのままで、なにやらブツブツと呟いていたが、突然起き上がると無理やり笑顔を作っていた。ひくひくと痙攣している頬には、きっと気づいてはいけないのだろう。
「あー、あー、心配ない。それで伝七郎とかいったよな? まずはこの状況の説明。主にこの戦の背景と戦況についてを優先的に。そして、なぜ戦場に女がこんなにいる? その辺りから順に頼むわ。あと、おじょーさんはお名前をぜひ教えてくれっ!」
彼はそんな事を口走る。なにやら、よほど衝撃的だったようだ。
あれは先程あれだけ落ち着いていた彼がこれほど取り乱すような内容だったのだろうか? それとも私には分からない何かとてつもない内容でも含まれていたか。先程言っていたにほんと言うのが鍵のような気がする。
そんな事を考えていたら、咲殿が私の後ろに隠れて袖を握っている。心なしか私を壁にして隠れているような気がする。ああ、そういう事か。
神森殿は色を特に好む人なのかもしれぬな。英雄たるもの、いや男子たるもの色を好むのは当然ではあろう。あろうが、出会ったばかりの咲殿相手に飛ばしすぎなような気がするが、これは男としては正しい態度なのだろうか?
どうも私はその辺りが疎くて困るな。
それに先程から私が彼女の名を呼んでいるので、名前はわかっているだろうに、彼はなぜ改めて彼女の名を教えろなどと言ったのだろうか? わからない。ただ、なんとなく面白くない気はする。この胸の奥がもやもやする感じは何なのだろうか。
はっ。いかん。没頭しすぎた。危うく神森殿をほったらかしにする所だった。
「は、はぁ。いや、分かりました。お話しましょう。ただ神森殿も説明してください。先程私たちの部隊に敵将が突撃しようとした際、突然彼奴の前で二、三度強烈に閃光が走り、神森殿が現れると彼奴を仕留められた」
「私どもが神森殿についてわかる事はそれだけです。あなたが何者なのかを先に教えてはもらえませんか? その後、先ほど神森殿が尋ねられた件は必ずお答えします」
矢継ぎ早に言葉を重ねる。兎に角、まずは神森殿が何者なのか? それがはっきりしない事にはどうにもならない。
もし、敵の刺客でありそうなら……いや、そうでなくても私たちが使いこなせぬ者なら、この場で消してしまわないといけない。いくら能力のある者でも私たちに使いこなせぬ者なら、身の内に招くのも、そのまま野に放つのも危険すぎる。
私たちは今陣幕入り口付近で話をしている。そして、神森殿は陣幕を背にした状態だ。陣幕の外を回り、そこをいきなり背後から槍で突けば、いくら彼でも防げはしないはず。
目線で我々が入ってきた方と反対側の兵に背後に回るように指示する。もう間もなく配置に着くはずだ。
彼は顎に手をやり、熟考しているようだ。きっとその頭の中では今、色々な状況について考えが駆け巡っているのだろう。
さて、どうでてくるか……。ここが正念場だ。
「おーけー。わかった。じゃあ、俺からいこう。さっきも言ったが、俺は神森武だ。神森とでも武とでも好きに呼んでくれていい。で、俺が何者かという事だが……怪しい者だ」
私は張っていた気組みを崩された。まさか自分から怪しい者だなどと言い出すとは思ってもいなかった。そんな私の気持ちなど無視するかのように彼はどんどん話を進める。
「ああ、そうだ。おまえらから見るとそうとしか言えない。あの登場の仕方を見ていたおまえに聞くが、俺が怪しい術をつかう道士かなんかに見えただろ? で、敵の将の首を挙げてしまったから、とりあえず敵なのか味方なのか、使える者なのか使えないのか、そして、利用できるのかできない者なのか、それが知りたい。そんな所では?」
正直肝が冷えた。己の血が引く音をはっきりと聞いた。すべて見通されているのか? それでもなお、こうして私の前に先程と何も変わらぬ態度で立っているのか? だとすると私ではとてもではないが太刀打ちできない。
言葉を発する事ができないまま時が過ぎる。
「……」
「警戒するなとは言わんが、そうピリピリすんな。特別な考察じゃないだろ? 誰だって得体のしれない者に出会えば考える事は同じだ。まして戦場ならな。むしろ面倒だからって、いきなり切り掛かってこられなくてよかったよ」
「は、はい」
釘は刺すがそれだけで許すと、そう言ってくれているのか? 裏手に兵を忍ばせたのに……ますます分からない。すべてを分かった上で当然だと言ってのけるのか。なんという……。
いや、彼がそうしてくれると言うなら、私もそれに相応しくあらねば。私ももっともっと肝に力を入れねばなるまい。
「で、だ。実際はそんな怪しげな道士よりももっと怪しい存在だ。ちなみに俺の頭は狂ってない事を先に言っておく。伝七郎。おまえ、ここ以外に世界があるって言ったら信じるか?」
「ここではない世界……ですか?」
「そうだ。陸続きや海の向こうの世界の事じゃないぞ? まったく別の世界、異世界だ。そこから不慮の事故でこっちに跳んできたのが俺だ。さあ、どうする?」
彼は試すような軽い笑顔を浮かべながら、じっと私の目をまっすぐ見る。視線をはずす気はないとその目が言っている。私も負けるわけにはいかない。
どれほどの時間視線を戦わせただろうか? 刹那の刻だったのか、それとももっと長かったのか、私は笑ってしまった。なるほど、彼に相応しく応じようと私が思った時点で私の負けだったか……。
「まあ、そういうこった。だから、怪しい奴だと思っとけ」
「くっくっ。わかりました。そうしましょう」
まことすごい人だ。でも、それ以上に面白い。この人を信じてみよう。
ここに至った経緯を事細かく彼に話していく。背景も何もかも。彼を信じる事にした以上、すべてを話し、彼の持つ力を余すことなく使いたい。そんな思いが私を突き動かし、この舌に言葉を乗せる事を止められなかった。長い話にはなったが、彼は最後まで静かに目をつぶり聞いていた。
すべてを話終えると、彼はおもむろにその目を開き、頭を掻きながら渋い表情をする。気持ちは分からなくもない。あきらかに絶望的だ。しかし、私たちはそれを受け入れる訳にはいかないのだ。
「えっと。神森殿。私は神森殿に姫様に会って頂きたいのです。私たちの主は今となっては姫様ですから」
「ああ。わかった。許可をもらう必要があるんだろ? 行ってこいよ」
彼は容易く願いを受け入れてくれた。本当に話が早い御仁だ。もうずっと先まで考えがあるのだろう。まったく考える素振りも見せぬ即答に、驚嘆せざるをえなかった。
神森殿、いや武殿に勧められるまま、席をはずして姫様の下に急ぐ。
「姫様。姫様。伝七郎にございます。急用あってまかり越しました。お目通り願いたいのですが」
「伝七郎殿か? 上がられよ」
「はっ。失礼いたします」
今は姫様とたえ殿、そして菊殿か。これはついていたな。改めて呼ばずに済む。
「姫様。ここは戦場にて不自由かと思いますが、今しばらく我慢下さいませ。必ずや安全な所までお連れしますゆえ」
「ん~。でんしちろー? 妾は何もふじゆうしてはおらんぞ? みんな、そばにいてくれるしな」
「……はっ」
「それで伝七郎殿? 何やら火急の用事のようじゃったが」
たえ殿が私にそう水を向けてくれる。
「はい。実は姫様。会って頂きたい者がおります」
「妾があうのかや?」
「はっ。その者、つい先程の戦で敵将三島盛吉を瞬く間のうちに討ち取るという大功を立てた者でございます。されど、かの者は我が軍の者にありません。本人曰く、異世界よりやってきたとか。確かに盛吉とその軍勢しかいなかった私たちの目の前に突然現れ、そして、盛吉を一瞬のうちに討ち取りました。これは私の目前ですべて行われた事にございます」
「異世界とな? 何をそんな戯言を。その者狂人であろう? 伝七郎殿はそれを信じるというのか?」
「………………」
「………………………………?」
たえ殿は眉根を顰め、菊殿は無言のままだ。姫様は……まあ、少々話が難しすぎるな。あれはよくわかってない顔だ。
「はい。荒唐無稽にすぎる話ではありますが、実際に目の前で現れる所を見せられては疑いようがありませんよ、たえ殿。それに、僅かながらも話をしてみての感想として、かの者は狂人ではありません。理性を保った極めて知性の高い御仁です。ただ、少々変わった方であるとは思いますが」
私の予想通りなら、ある意味狂人でも間違ってはいない。ただし、たえ殿が考えている狂人とはまったく別物であるはずだ。
「姫様。きっとあの御仁は姫様をお守りする堅固な盾にして、鋭き刃となりましょう。彼を抱きこむべきです。幸い、私が話をした感じですと、彼の者には交渉の余地はあります」
「うーむ? よーわからぬが、でんしちろーがそう言うなら、そうするぞよ? そうした方がよいのかや?」
「はっ。きっと姫様の力になってくれましょう」
「じゃあ、そうするのじゃあっ」
姫様はよくわからぬ話が終わって、笑顔満面で両手を天に突き上げている。
数えで五歳、本来なら両親に暖かく包まれて、こんな血生臭い戦場にはいるべきではない幼子だ。
まだ産着の頃から守役を任じられてこの方、この幼い姫の育つ様を私はずっと見守ってきた。本当に明るく、まっすぐで優しい姫だ。しかし、今となってはその明るさ、まっすぐさに不憫を感じずにはおれない。
この姫にこんな辛く悲しい運命をもたらした輩を私は断じて許さぬ。まして、その理由がただの欲と妬心などと……。
この姫だけは絶対に逃がす。そして、継直────必ずおまえを殺してやる。
少し、少しだが目がでてきた。逃がすだけで精一杯と諦めざるをえなかった私たちだが、私たちは、私はまだ生きている。兵もほとんど損なわれていないはずだ。
あとは私が彼を見誤ってさえいなければ、これは望む事ができる誓いとなる筈だ。