第六十話 北の砦攻略戦 荒木山麓の戦い でござる その三
「いよいよでございますなあ」
そう言って、次郎右衛門は前方遠くに目をやった。その視線を追うと、山裾の森から黒い影が湧き出してくるのが見える。むろん砦の兵だ。
増える黒い影と共に、大地を踏みしめる数多の足音が次第に大きくなって伝わってくる。ひやりと肌寒い早朝の風に乗って、それは俺の耳にも届いていた。
だから俺もその増える影を見据えたまま、
「ですね」
と、そう答えた。また、それとほぼ同時にぶるりと身が震えた。
(ちっ。この身はまだ震えるのか)
――そう思い、俺はそっと舌を打つ。
だがそれを横で見ていた次郎右衛門は、そんな俺を見て「ほう」と短く息を漏らした。そして、むしろ好意的な笑みを浮かべて俺の目を見据えると、こう言ったのだ。
「武者震いですなあ。我らを束ねる若武者に相応しい頼もしさにござる」
ああ、そうか。これが本当の武者震いか。
俺は己の心の内に隠れ住む弱さから身が震えたと思った。しかし、そうではなかったようだ――と言われて初めて気がついた。
自分自身の事のくせに取り違えるほど、俺は冷静さを欠いていたらしい。どうやら冷静なふりをしていたようだ。それは、震え自体よりも由々しき事であった。
先ほどとは違う意味で、思わず首を横に振りたくなる。
ぱんっ――と両手で頬を叩く音が周りに響く。むろん俺が自身で頬を張った音だ。
冷静でいたつもりだったが、『つもり』だった。むしろ、理性から離れた本能の方が頼もしいという体たらくであった。だから、そんな取り繕って強がっているだけの意識の方に活を入れてやったのだ。
恐れと勇気が一本に縒れていない未熟な闘志を、次郎右衛門は俺から感じとったに違いない。だから、あのような言葉、あのような素振りとなったのだ。
「有り難うございます、次郎右衛門殿。お陰様で、ようやくこの頭もしゃっきりしてきたようです」
それとなくそれを教えてくれた次郎右衛門の厚意に感謝し、吐いた言葉に間違いがない事を示す為に、真っ直ぐに彼の目を見据えて感謝の言葉を述べた。
すると、
「ほっほっ。いやあ、実に大したものにござる。失礼ながら、その歳でこの大役を担って、闘志を保ったままそこまで冷静でいられるのは、良い意味で異常にござる。……神森殿といい、伝七郎殿といい、水島の未来は明るくなった。平八郎様ではないが、一時は絶望したりもしもうした。しかし、やはり我慢はするものにございますなあ」
とそう言って、次郎右衛門は何度も満足げに首肯したのだった。
「身に余る評価ではありますが、そう言っていただけると嬉しく思います。ご期待に添えるよう頑張るとしましょう。それと、私の事は武で結構です」
「ほっほっ。では、武殿。よろしく頼みましたぞ?」
「任せて下さい」
笑みを浮かべながら未熟な若造を支えてくれようとする老将に、俺は俺にできる精一杯の思いを込めて、そう返事をした。
そして……、言った以上はやってみせる。
その決意を改めて胸に刻み込み、姿が明確に見分けられる程に近づいてきた敵方の軍勢に視線を注ぎ続けた。
五十メートルもない距離で、両軍が睨み合う。
「今まで周りを蝿のようにぶんぶん飛ぶばかりであったのに、どうした気まぐれだ? ようやく我々に叩き潰される覚悟でも決まったか?」
一番前にいた一人の騎馬武者が、敵勢の中から進み出てきた。
見て取れる歳は三十近いだろうか。手綱を手に進み出てくるその表情は、とってつけたような冷静を装ったもの。まるで先ほどの自分を、録画か何かで見ているかのようであった。自分の事を棚に上げて、これじゃないという感想しか抱けない。
どこがと具体的に指摘するのは難しい。敢えて言うならば、自然体ではない。相応の風格に欠けると言ったところか。
盛吉や道永は間違いなく脳筋だったが、ともに将と言われてなるほどと思える程度の貫禄は備わっていた。盛吉などは生きている奴と顔を合わせたのはそれこそ一瞬だったが、平和な日常との決別の瞬間に見た顔だっただけに、俺には特にその印象が色濃く残っている。だが、目の前の男にはそれがない。
また、その武者の鎧、そして兜の鍬形や飾りは、あきらかに道永のそれと比べると見劣る。将の物とは思えない。下村茂助――押し出された臨時の大将殿でまず間違いない筈だ。
ざっと観察した後、俺も前に進む。奴との距離は二十メートル。
その時、少し強い風が吹いた。額に巻いた白鉢巻きの余りがその風に踊る。そして、首に巻き付こうとした。
俺はそれを片手で振り払い、大きく高らかに声を張り上げ応じた。
「面白い事を言う。我らが蝿ならば、貴様らはさしずめ馬の糞か。ならば感謝しろ。集めてきれいに掃除してやる。さぞさっぱりするだろう」
「むっ!? 小僧、貴様何者だっ?」
挑発に挑発で返してやると茂助と思しき男は、無精髭の生えた顔を苛立たしげに歪めて叫び返してきた。
「髭面の馬糞は、糞だけあって礼儀を知らなくて困る。通りでここらが臭い訳だ。他人に名を聞くならば、先に名乗るぐらいしてみせろ。俺の名は神森武。ここの水島の軍の大将よ。貴様は下村茂助で相違ないか?」
「こ、小僧が調子に乗りおってっ。いかにも我は下村茂助だ。が、貴様ごときひよっこが大将だと? なるほど山崎次郎右衛門、耄碌したようだなっ」
俺の挑発にいらいらとしながら、なんとか冷静さを保とうとしているのが分かる。やはり、所詮は百人組の組長の器のようだ。道永らも大概だったが、こいつはどうにも大物感に欠ける。奴らは隠そうとすらしなかったが、こいつは隠そうとして隠せていないのが致命的だった。
「ふん。俺は敬老精神旺盛なんだよ。大事な次郎右衛門殿に、糞掃除を任せっぱなしにするのはどうにも申し訳なくてな? この俺がきれいにしてやるから、存分にかかってこい」
なんというか、どうもこちらの武人は沸点の低い奴らが多い。少々小馬鹿にしてやると、簡単に冷静さを欠いて牙を剥く。
してみると平八郎の爺さん辺りは、こちらの世界では大変特殊なタイプと言える。あれはあきらかに妖怪爺だった。ごっつい身体と、顔に刻まれた傷痕でハッタリも利いた「どこの山賊の親分だよっ」と突っ込みたくなるような見た目ではあるが。まあ、なればこそ名将と呼ばれているのだろう。
ただ、これ以上は比較するのは止める。”これ”と比べたら、流石に爺さんに悪い気がしてきたからだ。
目の前にいる敵の大将――下村茂助は、平八郎の爺さんのような例外ではない。あきらかにその滲み出る雰囲気通りの人物だと思われた。脳味噌まで筋肉でできていそうと、すぐに言えるほど野卑な雰囲気はないが、脳味噌の容積そのものが少なそうなタイプである。
絶好機であった。
こいつを片付けて決着ならば、こいつで決着させておきたい。こちらに向かっている将が将としてどの程度の能力があるのかは不明だが、こいつと同等という事はないだろう。
茂助は徹底的に見下す俺の言葉に、段々と化けの皮が剥がれてきていた。すでに顔は真っ赤で、手にした槍の穂先は細かく震えている。
「いいだろう、小僧。身の程というものを教えてやるっ。」
茂助は吠えた。
しかし俺は、目を閉じ首を二、三度ゆっくりと振る。そして右の手を上げると、さっさと帰れとばかりに、しっしっと手首を振ってやった。
これを見た茂助は更に激昂した。平常心を保とうと必死な姿が涙ぐましい程に。
「ふ、ふふ。我が戻り三百を数えたら太鼓を鳴らそう。その首千切り取ってやるから覚悟しておけっ!」
そして、そう吐き捨てるように言うと、茂助は俺の受諾の言葉も聞かずに馬首を返す。そしてその腹に蹴りを入れ、自陣へと帰って行った。
本来はこちらが受諾して合戦成立らしいのだがな。伝七郎曰く、「挑まれた側が準備が出来たと鳴らす合図が、開戦の合図」だそうだ。故にその合図のタイミングや方法を指定するのは宣戦布告された側だが、布告側がそれを了承して成立すると説明を受けた。
まあでも、とりあえずはこれでいい。適度に挑発も出来た。まず間違いなく頭に血を上らせたまま、真っ直ぐに突っ込んでくるだろう。
駆け戻る茂助の背中を眺めながら、俺はそっとほくそ笑む。
そして踵を返すと、俺も足早に自陣へと向かった。