第五十九話 北の砦攻略戦 荒木山麓の戦い でござる その二
二人は俺の言葉に従い、それぞれの持ち場へと戻っていく。すると、足下の草が風に揺れる音と、たまに頭上を飛びゆく鳥たちの鳴き声以外に音が消えた。
俺の背後に兵たちはいる。皆静かに黙したまま、整然と並び立っている。その視線は前方を注視したまま動かない。
誰が見ても分かるほどに磨き抜かれた兵たちであった。
――総勢五百と十名。
俺が指揮を担当するのは三百名。構成は五十の槍小隊と弓小隊が二隊ずつ。そして、本隊として百名の槍隊がある。
源太は、麾下の十名と次郎右衛門の所の騎馬隊五十名を加えた六十名で構成される騎馬小隊の指揮を執る。
次郎右衛門には、全員元々彼の所の兵のみで構成された百五十名の槍中隊の指揮を担当してもらった。
これから俺が行おうとするのは組織戦である。
しかしそれは、こちらの世界の戦ではない。故に、全軍で一丸となって戦ってきたこの世界の武人の特性を鑑みて、配分をこの様にしたのだ。
おかげで俺の負担は大きく増える事にはなったが、やむを得なかった。折角有能な将らがいるのに、その力が発揮できないような編成をするのは愚かすぎる。そんな事をするようでは、端から大将をやる資格がないと言い切れるほどだ。
だから、たとえ実務経験がなくとも部隊運用のイメージだけでもある俺が、その負担を負うように編成するのが現実的だったのだ。
これらの部隊は、正方形に兵を並べた本隊の両脇に、前――槍小隊、後ろ――弓小隊の組を置いた。そして、それら俺の直接の指揮下にある部隊群の真正面に次郎右衛門の槍中隊を置く。源太は少し離れた林の中に部隊を伏せさせている。こちらからの合図で飛び出してくる手筈だ。
また、すべての槍隊にツーマンセルの戦い方をしろと指示をした。二人一組で、それぞれが攻防を専任し、敵兵一人を安全且つ確実に倒していく戦法だ。
当初スリーマンセルを考えたのだが、いきなりそれをしてしまうと、少ない射手がまばらに散ってしまい、狙撃にしか使えなくなる事に気がついたのだ。それで組を三から二にして、その差の一人を纏めて槍小隊の後ろにつけたのである。これにより各射手による柔軟な狙撃は失われてしまったが、代わりに降る矢の密度を上げる事が出来た。一斉射撃をするのに十分とは言えないが、それでも多少の期待が持てる数には纏める事が出来ただろう。
結果だけを並べると、何も問題がなかったように見える。しかしこのツーマンセルも、受け入れてもらうのは骨だった。いや、これでは語弊がある。受け入れようとはしてくれたのだが、すんなりと納得してはもらえた訳ではなかったと言うべきか。
この場に着き、最終確認をしていた時の事である。
……――俺たちは輪座し、源太と次郎右衛門を前に地図を広げ、布陣、基本戦法、策などを説明していった。特に策や部隊の指揮につかう合図といったものは、こちらの戦ではまずないものなので、特に念入りに確認作業を行っていた。
そして、二人一組で敵に力を発揮させずに速やかに倒す事を目的とした、今回の基本戦術ツーマンセルの理論の説明に入った時の事。その折、源太は普段通りであったのに対し、俺の説明を聞く次郎右衛門の雰囲気にそこはかとなく違和感を覚えた。
話をしながら眼だけで次郎右衛門を見続けていても、彼の視線は俺から外れてしまっていて、俺の視線に気がつかない。地面に広げられた地図に目を落としたまま、浮かない表情を浮かべていた。
ぱっと見には地図を見ているように見えるが、おそらくは地図など見ていないと俺は思った。
俺には次郎右衛門が迷っているように見えた。むろん彼は表だって反対している訳ではない。彼が約束した通り、黙って従おうとしてくれていた。ただ端からその様子を見ていて、快くではなさそうだというのは見て取れた。ただそれは、不快というよりも困惑と俺の目には映った。
そしてその心の枷は、戦において極めて危険なものだ。否、これは戦に限らない。瞬間が明暗を分けるようなものに対してならば、そのすべてに同じ事が言えるだろう。ただそれにかかっているのが、勝敗の行方か命かの違いであるだけだ。
それに、その原因は容易に想像がついた。
彼の長年過ごした戦士としての日々が、この戦い方に疑問を覚えているのだ。彼らの戦は、誇りある『力比べ』である。どれだけ数が増えようとその構造は変わらない。己一人対敵なのだ。
だから、「個の戦果の集合体のみが勝敗ではありませんよ、次郎右衛門殿。蜂や蟻は襲いかかる強敵に組織力で対抗します。そして、個の勝敗を無視して集団を生き残らせようとします。そういう戦い方もあるのです」と俺は説いた。
釈迦に説法をするようで気恥ずかしいばかりではあったが、それでも迷ったままの次郎右衛門を戦場に送る事は躊躇われた。
するとそれを聞いた次郎右衛門は、何を見ていたのか分からなかった視線を収束させ、明確に俺へと注いだ。そして、大きくその眼見開く。
そのままの時間が続いた。俺も急かす気はなかった。
しばらくの後、彼はその手の平で二、三度軽く己の額を叩く。持ちあげた顔は、戦場に似つかわしくない――憑き物が落ちたような柔らかい表情だった。
そして次郎右衛門は、「この歳で新たに戦を学び直す事になろうとは思いませなんだ。生涯勉強とは申しますが、まさにでございますなあ。いやあ、長生きはするものじゃ」と雰囲気を一転させ快活に笑ってみせた。
そしてひとしきり笑うと、彼は言った。「神森殿、有り難う」と。――……
(俺の背伸びは見透かされてしまっていたようだ)と、頬を掻く。でも、悪い気はしなかった。それに、何よりこれで迷いを捨てて戦ってくれるだろう。そう思えた。それと比べれば、俺の少しばかりの羞恥など対価にすらならない。本望というものだった。
実際それは功をなしたと思う。ここを立ち去った時の次郎右衛門の背に、あの時見えた迷いの影はまったくなかったから。
そんな事を思いながら、振り返り”俺の”軍を眺め回す。
道永の時の六倍強の人数がいる。
この布陣と基本戦法で、北の砦の継直の軍に挑む。あとは俺の策だよりだ。その出来の如何で、こちらの兵の損害は格段に変わるだろう。
静かに時を待つ精兵たちを見回しながら、その事を改めて確認した。
微かに朝靄の立つ荒木山麓の平原で、静かに時を待ち続ける。源太や次郎右衛門がそれぞれの隊に戻って、そろそろ三十分ほどが経っただろうか。
朝日を受け、その姿が段々と明瞭になってくる荒木山に、俺は目を注ぎ続ける。
そして、ついに時はきた。
次郎右衛門の隊より伝令が走ったのが見えた。内容は聞かなくても分かった。
すぐに伝令が駆け込んできて、俺の前に膝をつく。
「ご報告します。山の麓に敵影見えました。正面に向かい合います。また、山崎様より、『こちらに来られたし』との言伝です」
思った通りだった。
「わかった。ご苦労」
「はっ」
報告が終わると、その伝令は再び次郎右衛門の隊へと駆け戻っていった。
こちらに来い……か。舌戦の件だろうな。
これは伝七郎から聞いていた。
この世界で、誰よりも俺の異質を知っているのは奴だ。そして、その異質を誰よりも評価してくれているのも奴だった。だから今回、俺がこちらの指揮を申し出た時にも、何も問わずそれを了承してくれた。そしてその時に、こちらの合戦の流儀も――簡単にではあるが教えてくれたのだ。
それによると合戦の前に舌戦というか、互いの将が言葉を交わし、今より互いの名誉を賭けて戦う意思を確認し合う儀式のようなものがあるという。
それは、まさに舌戦というような自分の正しさを謳い相手の不正を問うものから、互いを罵り合いうようなもの、あるいは互いの尊厳を認め合い、この一戦に全力を尽くす事を誓うようなものまで多種多様にあるそうだ。
ま、今回は舌戦だろうがな。
その時の事を思い出しながら、(これで互いを称え合ったら、白々しすぎて最高に寒い空気が流れるよな)とその様子を思い浮かべ、笑いをかみ殺すのに苦労する。
ただ、おかげで少し肩の力が抜けた。そのつもりはなかっただろうが、伝七郎に感謝だな。
よしっ。やるかっ。
「……では、ちょっと行ってくる。何もないとは思うが、戻るまでよろしく頼む」
「はっ」
側にいた今回の戦で副官を務めてくれる壮年の男にそう伝えた。彼は本隊として割り振った百人組の組長だ。名を木村又兵衛と言う。
彼は俺よりもかなり年上なので、慣れ親しんだあちらの世界の常識だと命令口調を通すのに大変な違和感を覚えるが、これもおいおい慣れていかなければならないだろう。
全くの自然で如何にも歴戦の戦士然とした副官に対し、俺は自分でも分かるほどに新米指揮官丸出しの雰囲気で、「頼んだ」と言葉を返す。そして、前方の次郎右衛門の元へと向かって歩き出した。
本隊を離れ真っ直ぐに進む。すると、俺の姿を確認した次郎右衛門の隊は、俺の前で後方から順に左右に分かれていった。そうして出来上がったのは、隊の先頭まで俺の歩みを阻むものが何一つない道である。
…………。
俺の脳は、言葉を処理する事を拒否していた。
なんというか……、正直俺は少し引いてしまった。
如何せん俺は庶民の出なので、こういう王侯貴族やら特権階級の人間やらが受けるような応対をされても、「お、おう」となってしまうのだ。
しかしこの場合、間違っているのは俺であり、彼らではない。未熟と叱責を受けるべきは、紛う事なくこの俺である。文句など言える訳がなかった。
それを認識できる程度には俺は冷静であったし、分別もあるつもりだった。だから腰が引けていたのは事実なのだが、俺は精一杯の努力で後ろに下がろうとする腰を引き戻し、なんとかぱっと見の威厳だけでも保ちながら、さもそれを当然と受け入れてみせたのである。
つまり、その『俺の為だけの道』のど真ん中を、胸を張って進んだのだった。
俺の顔は赤面していないだろうか。偉い人扱いをされると、慣れていない人間は対応に困る。それは、おそらく俺だけではないはずだ。
今まで将たちや千賀、その侍女衆といったごくごく限られた人間、もしくは少数の人間の前にしか立たなかったので、この問題が浮き上がるような事はなかった。しかし、いつまでもそれで済む訳がないのだ。先ほどから続く――人の上に立たねばならない人間として、それはいかがなものか――という俺の思わぬ不慣れ振りに、我が事ながら情けなく思わずにはいられなかった。
威張る事は簡単だ――と思っていた自分の愚かしさを痛感する。確かにむやみに威張るだけなら簡単だ。自然に振る舞いつつ、威を張ってみせる事がこれ程難しいとは思わなかった。国語辞典を引けば同じ意味になるのかもしれない。だが今の俺にとって、『威張る』と『威を張る』の差は、あまりにも大きかった。
そんな事を思いながら兵の間を抜けてゆくと、先頭付近に次郎右衛門の姿が見えた。兵が別れた時に気がついたのか、こちらに振り返っている。
「おお、神森殿。こちらにござる」
次郎右衛門はそういって、手にした槍を掲げてみせていた。