第五十四話 お見送り でござる その二
「……はい。姫様の事はおまかせ下さい」
そう答えながら、お菊さんは胸下にある帯に手が行ったり来たりしている。普段の彼女から見ると、どうにも落ち着きのない様子であった。千賀ではないが、こてんと首が倒れそうになる。
しかしふと気がつけば、おきよさんは信吾と話ながら拳を握りしめて、あからさまにこちらを見ているし、咲ちゃんも伝七郎と話しながら、ちらりちらりとこちらの様子を伺っている。
いったい、なんなんじゃ?
まるで舞台にでも立たされたような気がしてくる。しかも、台本がないときた。どう振る舞ってよいものかわからず、落ち着かない。
そんなとき絶妙のタイミングで俺の右手あたりから、この間を打ち破る声が聞こえてきた。
我らが姫様である。
「……菊の顔が赤いのじゃ」
千賀はそう指摘した。お菊さんは慌てて頬に手を当てる。
言われてみれば、多少赤いかな? と言う気がしなくもない。色白なお菊さんなので、赤みが差せばすぐ分かるとは思う。ただ言われるまで気がつかなかったように、ほんのりと染まっているような気がする程度であった。
とは言え、いつも一緒にいる千賀の言である。普段の彼女との違いには、当然俺たちよりも敏感であろう。
だから俺は慌てて、
「お菊さん、体調悪いの? 駄目だよ、無理しちゃ。見送りありがとう。気持ちは受け取ったから、もう休んで?」
と言った。
しかし、この言葉にお菊さんは目を丸くした。というか、お菊さんよりも周りのギャラリーの方がやばかった。
俺が言い終わるやいなや、おきよさんの右眉毛の角度が吊り上がり、ぴくりぴくりと動き出す。そして、握り込まれた拳はぷるぷると震え出した。咲ちゃんもおきよさん程あからさまではないが、静かに溜息を吐いて首を横に振っている。
な、なんなんだ、これは?
不本意ながら、俺は内心狼狽えた。まったく状況が理解できなかった。
理由が分からぬ非常事態に右往左往していると、お菊さんが、
「あ、いえ、あの、違います。体調は悪くありません。それで、あの……、武殿?」
と呼びかけてくる。俺もこれ以上の無様を晒す訳にはいかず、なんとか冷静を保ってこれに答えた。
「な、何?」
「あ、あの……、その……」
お菊さんは、何か言いにくい事でも言おうとするかのように言い淀んでいた。顔の赤みが増してきているような気もする。
ここに来て、やっと俺は閃く。
お? も、もしかして、これは……。
俺の期待は急激に高まった。なんせこれは俺が夢にまで見た『あれ』かもしれないのだ。
しかし、冷静に諭そうとするもう一人の俺が心中にいた。
(あのねぇ……。夢見るのも大概にしとけって。そもそも一万歩譲っても、こんな観衆のど真ん中で愛の告白なんかある訳ないだろ? 俺のナンパとは違うんだよ。お菊さんだよ? お菊さん)
そんな俺の心の声には大変な説得力があった。
彼女の人となりを思いだし、更には生まれてから今現在までに及ぶ俺の戦いの歴史を振り返ってみる。これほど明瞭な話もなかった。それを期待するのは、宝くじで一等前後賞を、くじ三枚買って当てるよりも至難の業であると思われた。
それにより、俺の心に生まれた希望の炎は、種火にすらなる事なくあっという間に鎮火した。
俺は諦観という名の冷静さを手に入れる。目の前のお菊さんを見た。
彼女は相も変わらず、もじもじと小さくなっていた。
しかし、すぐに意を決したように顔を上げる。何かを心に決めたかのように口元をきゅっと結び、視線を逸らさず真っ直ぐに俺の目を見た。そして、
「いってらっしゃいませ」
と微笑んだ。そう、とても柔らかな笑顔を”俺に”くれたのだった。
俺の心の動きなど、川の流れに投げ入れられた小石ほどの影響も及ぼさないのはいつもの事である。しかし、こんな素敵な方向へと話が流れていったのは、生まれて初めての事だった。
俺は勝利した。大勝利であった。この時泣かなかった自分を誉めてやりたいくらいだった。妄想していたのとはちょっと違ったが、それは俺にしてみれば些細な事だった。俺に女の子が「いってらっしゃい」と言ってくれた。これを勝利と言わずして何を勝利と言おうか。
実に感無量であった。
しばしの間その感動に浸った。
そして、そこでようやく気がつくのである。
あ……、お菊さん放りっぱなしだ、と。
俺は慌てて、
「ああ、行ってくる。ありがとう」
とだけ、なんとか口にした。
変ではなかっただろうか。慌てていたから、気の利いた科白の一つも考える余裕がなかった。こんな大珍事であるだけに、情状酌量の余地はある。しかし、あまりの自分の無様さに嫌気がさしたのは言うまでもない。
しかし当のお菊さんは俺のその返事に満足したようで、もう一度「いってらっしゃいませ」と同じ言葉を重ねたのだった。
俺は再び感涙しそうになる。
しかし、チラチラとこちらをこっそり見ていた咲ちゃんは眉を八の字にし、しっかりガン見していたおきよさんは大きく溜息を吐いている。そして、そんな彼女たちを見て、お菊さんは再びもじもじと居心地悪そうにするのだった。
だが、今の俺は大概の事は受け流せるほど、幸せいっぱいであった。当然、そんな細かい事はどうでもよかった。
それに、いつもなら戦いの前にこれ程の幸せイベントなどあろうものなら、(あれ? これ死亡フラグじゃね?)とか思ったに違いない。それを裏付ける敗北の経験は山ほどあった。それはすでに積み重ねすぎて歴史とすら呼べるほどだ。
しかし、この時ばかりは死亡フラグの一本や二本は、へし折りながら突き進める根拠のない自信で満ちあふれていた。要するに有頂天と呼ぶに相応しい状態だったのである。
「よっしゃあっ! じゃあ、ぱぱっと片付けてくるぞぉーっ!!」
俺はそう叫んだ。そして千賀の頭の上に置いてあった右手で、その頭をパシパシと叩く。
不思議そうにお菊さんを見上げていた千賀は、そんな俺を迷惑そうに見上げて、
「……痛いのじゃ。菊もたけるもおかしくなってしまったのじゃ」
と呟いた。
しかし、俺は全く気にしない。すかっと爽快に昇天中である。余計な事は考えたくなかった。
だが、どれほど幸せな時間であろうと、いつまでもそこに漬かっている訳にもいかない。俺たちにはやらなければいけない事があるのだ。
俺は、ともすればすぐにニヤつきそうになる頬の筋肉に活を入れるべく、両手で頬を張る。
そして、皆に声をかけた。
「うしっ。じゃあ、出発するか。皆、もう行けるか?」
「「「はっ」」」
「はい。では、参りましょう」
皆からもそれに応える切れの良い応答が返ってくる。そして、伝七郎が改めて出発を宣言した。
それに合わせて、俺たちは北の砦に向かう兵たちの中へ戻るべく、踵を返す。
ちょっと想定外のイベントではあったが、最高の心境で戦いに向かえそうだと、俺は高揚する精神の中、意志の器が満たされるのを感じていた。
そんな俺たちの背中で、
「はよー帰ってきてたもーっ」
と叫んでいる奴がいた。千賀だ。俺は前を向き歩きながら、手だけを振ってそれに応える。すると、今度は「絶対じゃぞーっ」と返ってきた。
俺と伝七郎は、顔を見合わせ苦笑する。
そして、そんな千賀の叫び声に混じり、「かちっ、かちっ」と何かを打ち合わせるような音が聞こえたような気がした。
5/30 文章の調整をかなりしましたので、記しておきます。