第五十三話 お見送り でござる その一
「では姫様、行って参ります。我が儘を言って、侍女らを困らせないで下さいね?」
「妾はだれも困らせたりしないのじゃ。いつも良い子にしておるぞ? じゃから、早くかえってきてたもう。武も早くかえってくるのじゃぞ? またお話をたくさん聞かせてもらうのじゃっ」
「はいはい」
北の砦に出発する朝、千賀は兵たちを前に「がんばってくるのじゃぞ」と本人なりに精一杯の激励で皆を送り出した。
その後、俺と伝七郎が千賀の側に寄ってみれば、先程のように行く前から早く帰ってこいとのお言葉である。
伝七郎は苦笑し、俺は脱力する。しかし千賀はご満悦で両手に小さな握り拳を作って「ぜったいのぜったいなのじゃ」となぜかもう決定事項のようにそうおっしゃっていた。
千賀の顔には満面の笑みが浮かんでいる。
久方ぶりに顔を見せた太陽と、まるで双子のようだ。ここの所ぐずり気味であった空も、今日はすっきりと晴れ渡っている。秋晴れだった。雨後で空気こそまだ湿気っているものの、天より降り注ぐ光は俺たちを心から暖め、気持ちを軽くした。
また気持ちばかりではなく、砦に向かって歩き出す兵たちの足取りは実際に軽かった。十分な休養をとる事が出来た為であろう。そして、可愛いお日様の激励の賜でもあるだろう。耳に届く鎧の擦過音は軽やかで、濡れた大地を踏みしめる兵たちの歩様にも、引き摺るような様子はまったくなかった。
そんな兵たちを見て思う。
正直町に長く留まりすぎたが、こうして見ると、それも悪くなかったな、と。
そう思える程、あきらかに藤ヶ崎に来る前の兵の動きと、いま目の前で砦に向かって歩く兵の動きで差があったのだ。しかし、考えてみればそれも当然である。ここに来る前は気力で踏ん張っていただけで、兵たちは疲弊しきっていたのだから。
周りを見れば、今まで慌ただしく指示を出していて、まともに挨拶も出来なかった将たちが、残していく者とやっと言葉を交わしていた。
伝七郎は不安そうにしている咲ちゃんを元気づけるように朗らかに笑いかけ、信吾はおきよさんに火打ち石を打ち鳴らしてもらっていた。
それを見て、(ああ、確かに二人は夫婦なのだな……)と今更ながらに思ったのだった。
切り火をきってもらっている信吾は夫の威厳を纏っており、その顔には女を守る男の誇りがあった。そして、切り火をきるおきよさんには夫をきちんと送り出せた妻の矜持があり、男の無事を祈る女の真心があった。
そして、そんな二人と付き合いの長い源太と与平は、邪魔にならないよう一歩下がって、その儀式が終わるのを静かに見守っていた。
すべてが意識されず、阿吽の呼吸の内に行われている。端で見ていてもとても自然で、気持ちの良い世界だった。
「……けるっ。たーけーるーっ! 妾の言う事をちゃんと聞くのじゃっ!!」
そんな事を考えながら、その空間を眺めていたのだが、我らがちんまいお館様がご立腹あそばされていた。どうやら喚いているのを、華麗にスルーしていたらしい。
腰に手を当てて、ほっぺを焼いた餅のように膨らませて抗議している。
(こら、婆さん。ちゃんと仕事しろよ……)と心の中で呟きちらりと婆さんの方を見るが、婆さんは千賀の横でうんうんと頷いているだけだった。
俺は髪をがりがりっと二掻きほどして、
「おー。ちゃんと聞いているぞ」
と適当に返事をする。しかし、
「嘘じゃ」
「いや-。ちゃんと他人を疑うようになったようで……。俺は嬉しいよ」
即座に否定され、俺はさめざめと泣いた。
そして、一通り悲観したらすっきりしたので、改めて千賀に聞いた。
「んで、なんの話だ?」
千賀は頬を膨らませたまま、じと目になる。
「やっぱり聞いてなかったのじゃ」
なかなかに生意気な顔だった。
そして、そんな千賀を見た俺は大業な仕草で千賀を褒め称えたのである。
「おお、流石は千賀。よくぞ見破った。すごいなっ」
そう言って、ついでに拍手も付けてやった。
すると、ついさっきまで不機嫌そうにしていた千賀は、満更でもない顔になって自慢気にふんむと大きな鼻息を一つ吐く。
そして、言うのである。
「とぉーぜん、なのじゃ」
そして、えへんとばかりにまた胸を張って反っくり返ったのだった。
やれやれ、まだまだだな。……ま、可愛いから良いけどね。
どうじゃとばかりに腰に手を当てて仁王立ちの千賀を見ながら、俺はこっそりと溜息を吐いたのだった。
向こうの世界にいた頃はここまでチビどもに心動かされる事はなかったのだが。
距離が近すぎるせいなのかもしれないな、と思う。如何せん俺は一人っ子なので、年の離れたガキんちょは、どうしても壁一枚の向こうの生き物だったのだ。
しかしこちらに来てからと言うものの、良いも悪いもなく千賀が纏わり付いてくる。おかげで苦笑が癖になってしまいそうであった。伝七郎が千賀を甘やかしてしまう気持ちも分かった気がした。
そんな事を考え千賀を眺めていたら、視界の端にお菊さんが映った。彼女は反っくり返って勝ち誇っている千賀を、とても温かい眼差しで見守っていた。彼女の胸の内が手に取るように分かるほど、それは本当に温かなものだった。
千賀やお菊さんと初めて会ったあの会見で見た彼女。そして、いま目の前で千賀を見守っている彼女。どちらも彼女には違いないし、千賀に向ける彼女の愛情の量に差はない。しかし、俺の目に映る彼女の柔らかさに天と地ほどの差があった。
そんな事を思いながら彼女に見惚れていた俺の視線が、ふと顔を上げたお菊さんのそれと交わる。
すると、彼女は静かにこちらに向き直った。そして、ゆっくりとこちらに向かって歩き始めたのである。
お、おぉ? なんかお菊さんこっち来るぞ?
伝七郎らや信吾らを見て心温まりつつも、やはりちょっぴり羨ましくて、心の片隅でぐぎぎとなっていた俺ではあった。
しかし、いま俺はどう逃げるかを考えていた。
なぜなら、想定外だったからである。俺にとって、女は逃げるものであり、寄ってくるものではないのだ。いくら羨ましく妬ましくとも、「じゃあ」と言われると困る事は往々にしてあるものなのだ。
しかし、そんな俺の心の混乱は外からは見えない。
お菊さんも、もう目の前だ。
俺の目の前で得意満面で反っくり返っている千賀も、後ろから近づくお菊さんに気づいたようだ。振り返る。
しかし振り返った千賀は、いつものようにお菊さんの方へと走って行こうとはしなかった。正確に言うと、走って行こうとはしたのだが、走り始めようとしたところで何やら違和感を憶えたようで、それを止めてしまったのだ。そして、お菊さんの顔を見上げている。
千賀はこてんと首を傾げた。
ん? どうしたんだ?
そんな、らしからぬ千賀の不自然な行動を見て、俺はその視線の先、お菊さんの様子を注意深く観察してみた。
お菊さんは、どこか居心地悪そうと言うか、気恥ずかしそうにもじもじとしていた。俺の視線の意図を感じてしまったようだ。
流石にちょっと不躾だったか……。でも、どこもおかしくはないよな?
結局、もじもじとするお菊さんの、らしからぬ可愛い姿を堪能できたが、俺の疑問が解消される事はなかった。
しかし、いつまでも黙って見つめている訳にもいかない。可哀想に、お菊さんは俺の不躾な視線を浴びたせいで、未だにもじもじと居心地悪そうしていた。普段の凜とした彼女からは想像できない姿だった。
流石の俺もこれには申し訳ない思いが起こった。だから咳払いを一つして、俺の方から何も気がつかない振りをして声をかける事にしたのだ。
「んんっ。あー、お菊さん。ちょっと行ってくるよ。千賀の事よろしくね?」
こてっと倒されたままの千賀の頭に右手をやりながら、俺はお菊さんにそう笑いかけた。