第五十一話 お守り役に就任したぞ でござる
「よお、千賀。ご機嫌はいかが?」
伝七郎が来訪を告げると、中に入れと返事があった。そして、部屋に入ってすぐの俺の最初の言葉である。黙っていても向こうから来るに決まっているので、先制攻撃にうって出たのだ。
「……さっきまではよかったのじゃ。でも、妾をいじめるふとどき者がきたから、いまは悪くなったのじゃ」
俺の顔を見るなり、下唇を噛むようにして尖らした口で、拗ねたようにそうおっしゃる。
おー。やはり昨日の一件をまだ引きずってるかー。
部屋の最奥に座った我らが主殿は、まだまだ大変ご立腹のようであった。そんな千賀の左手前には婆さんが、その婆さんを正面に見る形で、右手前にお菊さんもいる。他の侍女たちは、千賀らがいる奥の間の手前の部屋――三つほどの部屋が連なった形のこの当主の間の、真ん中の部屋に控えていた。
「千ー賀ー? そんなに口を尖らしていたら、折角の可愛い顔が台無しだぞ?」
俺はそう言いながら部屋を奥へと進み、奥の間の千賀の正面に胡座をかいて座った。伝七郎もその後について座る。
「妾はいつもかわいいから、だいじょうぶなのじゃ」
そんな俺のご機嫌取りにも、一向に機嫌を直す気配もない。
拗ねまくる千賀。
だが千賀にとっては不幸な事に、悪態をついても可愛いばかりであった。チビのくせになかなかに生意気なことを……と、笑みが漏れる。
そして、部屋の中を改めて見渡した。
部屋は俺に宛がわれた部屋などと比べると数倍は大きく、また欄間の一つ、柱の一本、そして調度品の一個に至るまで、派手ではないが明らかに一流を超える物ばかりで揃えられていた。唯でさえ見えないところにしっかりと金が掛かっているこの館の中にあっても、その傾向は特に顕著であった。
また、雨天の今日にあっても部屋の中は比較的明るい。それはこの部屋の陽あたりがよく、生活区としても邸内の一等地である事を意味しているだろう。俺たちが入ってきた入り口の方を部屋の中から見れば、正面は庭園である。大きく開けている造りであり、光を遮るものは特に何もない。まず間違いなく俺の見立て通りであるはずだ。そして見える景色にしても、先ほど廊下で見たものより、はるかに計算された光景が広がっている。
とりあえず、粗末な扱いを受けていない事だけは間違いなさそうであった。
伝七郎とは違い、俺はこの館の事は何も知らないし、千賀らがどういう場所を宛がわれていたかも今この時まで知らなかった。だから、これならば俺たちが北の砦に出ていても、まずぞんざいに扱われることはないだろうと安心したのが本音であった。
爺さんの事を信用していなかった訳ではない。だが、それとこれとは別の話で、やはり確証が欲しかったのだ。
ほっと一息を付きながら、正面でふくれている千賀を見やり、そして再び目をずらす。
左にずらせばシワシワの婆さんの姿が、右にずらせばうっすらと微笑みを浮かべるお菊さんの姿が目に入った。即座に――左と右の光景で罰ゲームとご褒美ほどの差がある――と思った自分の正直さが愛おしかった。
当然のように俺はお菊さんを堪能する。婆さんと見つめ合う趣味はない。
しかし、そんな俺は無視された。当然だった。皆やる事がたくさんあって忙しいのだ。
婆さんは伝七郎に尋ねる。
「それで伝七郎殿。本日はどのような用件じゃ?」
「はい。北の砦攻略に関しましては、もう少し詳細が詰まった後で改めて報告に参るとして、本日はこの武殿に関しての相談がいたしたく、参った次第です」
「小僧の?」
視界の端で婆さんの片眉が上がる。
ん? なんじゃそれは。俺も聞いていないぞ?
罰ゲームな婆さんそっちのけでお菊さんを楽しんでいた俺だが、自分のこととなっては流石に無視するわけにもいかなかった。
伝七郎の方を振り返る。
するとそこには、してやったりとドヤ顔の伝七郎がいた。つかおまえ、なんでドヤ顔なんだよ……。
言葉にせぬままそんな突っ込みを入れていると、伝七郎はそんな俺を見て、我が意を得たりとでも思ったようで、自信満々に言葉を続けた。
「ええ。武殿には、姫様の『お守り役』をやっていただこうと思うのです」
「妾の?」
俺と話している間はふて腐れて見せていた千賀だったが、婆さんと伝七郎が話し出してからは、ようわからんとばかりにあっち見てこっちを見てと我関せずを貫いていた。しかし自分の話になったので、こちらの話に興味を持ったようである。
ただ、興味は持ったものの、話しについて来る事はやはり難しいらしい。しばらくちんまい眉根を寄せて考え込んでいた。
しかし、やはり幼女にとっては難しい事などどうでも良いようだ。信頼する婆さんやお菊さん、伝七郎がそれで良いと言えば、それで良いようである。その証拠に、自分で聞き直しておいて返答を聞く前に、千賀の顔が「おおーっ」とばかりに興奮したものに変わっていったのだ。
おそらくは『お守り』の部分のみを把握したのだろう。単純に、俺が自分の世話役になれば、この藤ヶ崎に来た時みたく、暇つぶしにたくさんの話をしてもらえると思ったに違いない。いや、あの顔は間違いなくそうである。
このままでは、「以上で決定しました」で話を結ばれかねない雰囲気だ。
千賀が乗り気である以上、これは婆さんもお菊さんも強硬に反対はするまい。それどころかお菊さんに至っては、端から様子を伺う限り、むしろ大いに賛成している気配すらある。伝七郎は言い出しっぺであるので、言うに及ばない。
つまりこの時点で、すでに俺の未来など九分九厘確定していたに等しいが、それでもやはりなぜを問わずにはおれなかった。それにそもそも『守り役』はおまえだろう、と。
「ちょいまち。『守り役』はおまえだろ? 俺も一緒にやれって事?」
俺は改めてそう尋ねた。
しかし、伝七郎はその俺の問いに、微かに笑みを浮かべながら首を横に振った。
「いや、そうではないのですよ。『守り役』は私。武殿は『お守り役』です」
「……どう違うのよ?」
伝七郎の言っていることが理解できない。当然だろう。俺でなくとも反応は同じであるはずだ。
それは俺一人ではなく、ここにいる伝七郎を除く全員が同じ反応をした事からも明らかであった。千賀も、婆さんも、お菊さんも明確に――どういう事? ――といった様子であった。つまり、この『お守り役』とやらは、こちらの世界に当たり前にある固有の役柄という訳ではなく、伝七郎オリジナルという事である。
「実際のところ、今すぐに武殿に兵をつけようと思うと、ただでさえ少ない兵が分散してしまうのです。それに、そうして無理に再編成をしても、慣らす時間がありません」
そう言いながら、伝七郎はこちらを振り向いた。
おう。それは分かるがな? その『お守り役』とやらはなんなのよ?
そんな俺の心の問いが届いたのか、伝七郎はそのまま話を続けた。
「ですから、当面武殿には姫様の世話役をしていただいて、私たちの腰が落ち着いた後は、将として独立して動いていただこうかと、そう考えているのです。つまり、基本的には私と同じですね」
そして、あっけらかんとそう言い放った。
いっ!? ちょっと待て、この腐れイケメン。お前それ俺に二役しろって言ってんの? それにおまえ。自分が何を言っているのか、本当にわかってんのか? それ『将』で且つ、『幼君の側』って事だぞ? 自分で言っているように、『水島家の代理』であるおまえと同等って事だぞ?
俺たちの世界の感覚で言えば、摂政相当の伝七郎と同等という事になるのだ。現在の水島家の状態を鑑みると、どれ程の権限が集中することになる役柄か想像できない。いや、厳密には想像出来る事もある。尋常じゃない権限が集中する事だけは間違いないのだ。
俺は驚き、言葉を失ったまま伝七郎を見つめた。
しかし伝七郎は、その俺の視線にも動揺することなく、にこにことこちらを見返すばかりであった。
一瞬伝七郎の正気を疑ったが、奴はどうやら大真面目のようだ。というか、いま俺が考えたような事は十分承知の上で、なおという事らしい。それは、少し冷静になって回り始めた脳みそで考えてみたら、すぐにわかった。だから、『お守り役』なんだろうな、と。
『お守り役』――。この巫山戯た名前の役柄は、正規の組織体制下では伝七郎自身の役目と連立して置いてよい役ではない。健全な組織体系の中では邪魔になるからだ。だからこその、そうとわからぬこの巫山戯た名前なのだろう。その実態を把握するのは上層部のみというポジションであり、そしておそらくは俺一代のみの役柄に違いない。正規の組織体系に組み込まれていない大権を持ったポジションとして、この『お守り役』を伝七郎が作ったと考えれば、いろいろと腑に落ちた。
しかし、理解と納得は同義ではない。そこまでの信頼をくれるのは正直大変光栄ではある。だがその役柄を受ければ、この先々自分がどう扱われていく事になるのかがはっきりと見える。背負う荷物の重さが尋常ではなかった。おそらく始めはその巫山戯た名前の通りの役柄で済むだろう。しかし気がついたときには……、のパターンになるに決まっているのだ。
冗談ではない。これは一言言わせてもらおう、と口を開く。
「ちょっと待……」
「ちょっと待て」と言おうとしたのだが、それを最後まで言うことは出来なかった。なぜなら――、
「おぉーっ。武も妾の世話役になるのかや? うれしいのじゃあっ」
立ち上がったお姫様がむふんと荒い鼻息を出しながら、目をらんらんと輝かせていたからである。
おい、チビ。おまえさっきまで、機嫌が悪くなったのなんだの言ってなかったか?
「だから……」
千賀のそれに負けじと俺は再挑戦するが、
「この小僧を? 姫様に悪い影響が出そうで心配じゃ」
今度は婆さんに邪魔される。
おい、婆ぁッ。 だったらもっと違う言い方しろよっ。きっちり反対の意思を表明せんかいっ! つーか、なに認めちゃってんの? もう決定なの? あんた俺アンチじゃなかったのか?
いや、待て。冷静になれ、俺。些事に拘っている場合じゃあない。これは非常にまずい展開ですよ? この展開にはものすっごく既視感がある。そう、あの道永との戦が終わった後にそっくりだ。
いかん、いかんぞ。頼む、みんなっ、俺の話を聞いてくれっ!
俺はいつぞやの事を思い出し、焦燥感に駆られた。そして、顔を上げた。すると、ちょうどこちらを見ていたお菊さんの視線とばったりと合う。
「おめでとうございます、武殿。大出世ですね?」
にこにこっときれいな笑顔でそう言われてしまいました。
――――そして、これがゲームセットのホイッスルとなったのだった。
この部屋に俺の味方は一人もいなかった。圧倒的多数で可決されてしまったのである。
民主主義糞食らえ。かくなる上は、赤い旗を振りかざして生きていこう。
俺は心の中で涙を流しながら、声にならぬ声で誓った。ただ、ひとつ問題もあった。俺は共産主義に染まれる自信がなかった。しかし、そこまで考えてはたと気がつく。民に権利らしい権利のないこちらの政治体制じゃ、考えるだけ無駄だったな、と。あきらかに、こちらはそれらの政治体制が主流になる前の政治体制の世界であった。
畳の上に両手をついて項垂れる俺。顔を上げても、千賀がふんふんと鼻を鳴らしながら「いーっぱいお話ししてもらうのじゃあ」と宣う姿が見えるだけである。他の二人に目をやっても、婆さんは「こんな小僧が……」と嘆くばかりで、まったく反対する気配がないし、お菊さんは微笑みを浮かべながらこちらを眺めているだけだ。言い出しっぺの伝七郎は論外で、当然のことながら満足げにしている。なにも期待できない。
「もう、好きにしてくれ……」
俺はそう呟くだけで精一杯だった。
結局、女たちの強力な支援のもと、伝七郎は迅速に話を推し進めてしまった。俺が項垂れている間にすべての決着をつけてしまう。後には千賀の『お守り役』たる神森武が存在するだけであった。
おまけに、俺たちはこれでも一軍の重鎮である。近日戦争の予定もある。要するに、時間というものが極めて貴重な人なのである。つまり、タイムスケジュールには哀しむ時間とか絶望する時間とかは記されていなかった。
俺はゆっくりと凹む事すらも許されず、「すぐ帰ってくるんじゃぞ? 絶対じゃぞ?」という千賀の有り難いお言葉を背に、伝七郎に引き摺られるようにして部屋を去る事になったのだった。
廊下を歩きながら、「頑張って下さいね」とにこやかに微笑む伝七郎。
…………。言葉にならない思いとはこういう事を言うのだな。目から吹き出す汁が止まらねぇ。
いま俺の心を慮って共に泣いてくれるのは、庭の草木を濡らす雨天の空のみと悟った昼前の出来事であった――――。
そのあと俺はなんとか気を取り直して、午後には伝七郎らと参謀本部を設置した。余分に一室を借りたのである。
そして、俺は伝七郎と攻略戦に向けての必要物資の計算に入ったのだった。同時に砦周辺の地域にも偵察を放つ。砦と戦地の情報は前に放った偵察待ちだが、周りからちょっかいが入るかもしれないからだ。偵察担当は休みなしで働くことになっているが勘弁してもらうしかなかった。当然俺たちも休みなしだが。
そして、あっという間に夜になる。
まだまだやる事は山積みだった。もっとも一日でやりきれる量でもないから、じっくり腰を据えて計画的に処理していくしかない。
そんな事を考えながら、熱い茶を啜っていると、爺さんからの報告を携えた兵がやってきた。
曰く、「済まない。間者を取り逃がした」だそうだ。
今更何を言っているのかと空笑いが漏れる。信吾は、どうせ今夜も嫁を腕に抱いてぬくぬくの布団の中だ。その気があるなら部屋に襲撃かけるがいい、と心底思った。
そんな事を考えていると、やってきた兵に「どうされましたか!?」と何か慌てたように声をかけられた。
一体何のことか分からずに、俺はその兵士を見返す。そして、「どうもしないよ」と微笑もうとした。しかしその時、頬の筋肉が引きつっているような違和感を感じた。
兵はそんな俺を見て、「ひっ」と短い声を上げ、襖にしがみついたのだった。