幕 伝七郎(一) とある異界の男との出会い その一
私は死にに行かねばならない。
まだ幼い姫様をお守りする為にも、この窮地をなんとしても乗り切らねばならないのだ。おそらくその代償に私の、いや私たちの命は失われるはず。
「伝七郎様っ……。咲は……、咲は伝七郎様をお慕いしております」
咲殿は私の腕の中に飛び込んでくる。そして、彼女は私の腕の中で体を震わせ、その美しい瞳を涙で濡らしていた。
「咲殿……。私は姫様をお守りする為にも、これより死地に参らねばなりません。そのような男の事を好いてはなりません。私の事は忘れるべきです」
「嫌ですっ! いくら伝七郎様のお言葉でもそれだけはっ、それだけは咲は言う事聞けませんっ!!」
あの大人しい咲殿がこれほど感情をむき出しにするなんて……。本当に私などを好いてくれているのだと良く分かる。勿体ない事だ。よくよく女心に疎い奴だと言われる私だが、これだけまっすぐな言葉と態度で愛を告げられれば、さすがに理解できた。
私などにはもったいない本当によい娘御だ。だからこそ、これから死ににいく男に未練を持たせる訳にはいかないのだが、どう言おうと説得できそうにない。無駄だと私の感が告げていた。でも、だからこそ説得したかった。
「咲殿……。咲殿ほどの器量よしで心優しい女子なら、これからいくらでもあなたを愛して幸せにしてくれる男は現れる。これからすぐに死ぬ男への慕情など……!?」
忘れてしまった方がよいのだと言葉を続けようと思ったのだが、咲殿は私に最後まで言葉を言わせてはくれなかった。その体を目一杯に伸ばし、彼女の顔を見て話をする為に、顔を下に向けるようにして話していた私の唇を震える彼女の唇で塞がれてしまう。
ああ、口付けとはこういう物なのかと少々ずれた感想が浮かぶ。あまりの事に私は混乱してしまっているらしい。
「……。それでも、それでも咲は伝七郎様をお慕いし続けます」
見かけによらず、芯の強い女子だな。いや、女子というものは、実は男よりも芯が強いのかもしれないな。混乱より戻る私の頭に今度はそんな所見が浮かんだ。
私にはこれ以上どう説得していいのか言葉が思いつかなかった。いま少し女子の扱い方を覚えておくべきだったと少々後悔するが後の祭りだ。
ただ、私の腕は彼女を説得する事を諦め、彼女の体を強く抱きしめていた。
(私もいい加減な男だな……)
そう思わざるをえない。若干自分に嫌悪感を抱く。
しかし、それ以上にまるで身の内を酒精が駆けるような高揚感と、それに伴う幸福感は他の何物にも代えがたい。そう私に思わせるのに十分な力を持っていた。
咲殿も強張らせていた体の力を抜き、私にもたれかかる様にして抱きついてくる。
「あぁ……。伝七郎様……」
……姫様も、この娘も死なせる訳にはいかない。絶対に。
陣近くにある森で咲殿との一時の逢瀬を終えると、私たちはその場で別れて、それぞれが別々に陣へと戻った。
もうすぐそこまで八島道永の部隊がやってきているはずだ。歩騎合わせて三百二十。ちょうど我々の四倍か。騎馬の数が私たちの倍いるから戦力差だともっと差があるだろうか。
しかし、それでもやらねばならない。もし、姫様が捕まれば、お館様や奥方様のように殺されてしまうだろう。継直が水島領の領主の地位を磐石のものにする為にはお館様の血筋が存在しない方がよい。いくら女子でもだ。
継直がお館様方を弑した折、奴は激しく動きすぎた。まだ幼い姫様の後見人として、という理屈も使えない。むしろ、それをすればこれ幸いと他国の国主たちが動き出し、
「両親を殺され捕らわれた正当なる姫は我々が助ける。幼い姫が元服するまで、我が国が後見人となろう」
という侵略の理由を与える事になるだろう。
継直は欲深い直情型の阿呆だからそこまで考えぬか? それとも、その欲深さに勝るとも劣らぬ小心由来の疑心によって思いとどまるか? いや、ただ面倒はない方がよいと、さっさと殺してしまうだけだな。
人で、あれが拘るのはお館様のみだ。限界まで肥大したお館様への嫉妬心が満たされただろう今、あれが姫様を生かす理由などない。お館様なき水島領を己の思うがままにする事しか、すでに考えてないだろう。
ただ、その阿呆に領地のほとんどを奪われ、兵を奪われた私たちは救いようがない間抜けだな。
水島はあまりに家臣の質が悪すぎた。世襲に捉われ過ぎて、質の劣化が抑え切れなかったというのは大きな理由の一つだったろう。もっと早く処置するべきだったのだ。
まあいずれにしろ、その阿呆の先遣隊がまもなくやってくるだろう。
すでに、いくらか戦いやすい場所を見つけることはできたし、陣も張れた。
奴らは山間の、昔は谷川だったと思われるとても狭い道を通ってくるしかない。そこ以外から私たちの陣へ回り込もうとすれば、大きく回り道をしなくてはならなくなる。
その狭い道の出口で迎え撃てば、少ない兵力でも戦える。その道の両脇は藪であり、そのさらに外はすぐに崖だ。一度に人が通れる量などたかが知れている。これでいくらか戦えるだろう。
いくら古来よりの戦の作法だからといって、野原に並んで、ただ我武者羅に兵をぶつけ合うような事をすれば、今の私たちはあっという間にひねり潰されてしまう。
そんな事認めるわけにはいかない。作法など糞食らえだ。それを認めるくらいなら、どんな謗りを受けようが、野蛮に戦い勝利を収める方がまだマシというものだ。
私たちは狭道の出口で待ち構える。騎馬の駆ける音が響き、ここまで届いてくる。もう間もなく、先遣隊がここに着くだろう。後ろには姫様が、咲殿がいる。絶対ここを通す訳にはいかない。
「ちょろちょろと逃げ回りおって。伝七郎っ。姫をよこせ! さすれば、おまえも継直様に参ずる事を許されよう」
「盛吉殿。欲の権化の下種野郎に仕える気は私にはありませんな。代々水島の家に仕えてきた忠臣の末も腐れ果てたもの。さほどに継直のばらまく金銀財宝は美しかったか?」
この場に着いた先遣隊の将は三島盛吉か。仮にも足軽大将の一人。油断はできない。できないが……。
「無礼なっ! 貴様ごとき青瓢箪が大層な口を利くっ!! 全軍突撃っ。踏み潰せっっ!」
ちょっとした挑発にすぐに乗るから、あなたたちは駄目なのですよ。それではいくら腕力があっても宝の持ち腐れというものだ。
頭に血を上らせた盛吉が、狭い道だというのに全軍で通ろうとする。さらに自身が先頭に立って突っ込んできたか。私たちの事を雑兵の寄せ集めと、たかを括っているのもあるだろうが、なかなか剛毅な事だ。
これなら敵兵を出口から出さなければ私たちの数でもなんとかなるか? そう考えた。
「なっ!? 」
私たちの軍に突っ込んでくる盛吉の目の前で閃光が走り、その場にいるすべての者の目を焼いた。二度? いや、三度か。閉じるまぶたの裏で、なお激しい光が明滅する。そして、その直後。今度は目の前に雷が落ちたかのような、大気をも震わす激しい音が私たちの耳を襲った。
(い、いったい何事だっ?)
途端に今度は人の叫ぶ声が聞こえた。
「奇怪なっ!」
「ちょっ……まっ……ちょおっ」
その後、ドガシャーン……と激しく何かがぶつかる音がする。そして、それと同時に馬の常軌を逸した嘶きが聞こえたと思ったら、今度は何かが地面に叩きつけられる音が続き、そのまま地面の上で何かを引きずる恐ろしげな音が聞こえてくる。
私はまだ回復せぬキーンと鳴り響く耳に指を突っ込みかき回す。更にまだ視力が戻りきらぬ眼を擦り、無理矢理にでも何が起こっているのか確認しようとした。
だけど、そうして眼前に用意された光景は、さらに私を混乱させた。
私たちが目下打ち倒さねばならない敵将は目の前で絶命していた。
そして、どこから現れたのだろうか? 私とさほど変わらぬ年齢と思われる一人の男が地面の上に片膝をついて、己の手の平を眺めていた。