第四十二話 早朝のはぷにんぐ でござる その一
平八郎の爺さんとの化かしあいを経て、とりあえずはまだ仮に、ではあるものの俺たちは藤ヶ崎の館内に居場所を得た。その結果として、将階級には個室も与えられる事となった。俺も一応それに該当すると見込まれ、自分の部屋を与えられた。末端の兵たちまでも個室いう訳には当然いかなかったが、それでも詰め込まれているような事はない。俺たちの立場を考えれば、十分すぎる厚遇である。
こうして、割り当てられたそれぞれの部屋で、俺たちは北の砦攻略に出発するまでの短いひとときではあるが、しばし羽を休める事ができるようになったのだ。
その翌日のこと。
「な、なんですとおぉぉぉっ?!」
まだ鳥もさえずらぬ早朝の館に、俺の遠慮を忘れた驚きの声が響き渡った。
知らず知らずのうちにため込んでいた疲労のせいで、つい先ほどまで泥のように眠っていたのだが、少々の尿意を催した為、いやいやながら布団の中から這い出しトイレ……いや、まさに正しく厠だな。汲み取りだ。つまり、便所に行ったわけだ。
そして用を足し、まだぬくもりの残っているだろう、愛しき我が寝床に向かって帰ろうとしたその帰り道。それは起こった。
信吾に割り当てられたと記憶する部屋の襖が開いた。そして、中から出てくる小柄な人影を見てしまったのだ。
どうも天気が悪いらしく月の光もほとんど届かない暗闇の中ではあったが、その影がおきよさんのものである事はわかった。暗くてはっきりとは判別できないが、彼女はなにがしかの花柄を前面にあしらった袖の短い着物を着ていた。質素で地味な着物を纏っていた逃亡生活の時とは異なる装いである。
夜の明けぬ闇の中でも、そこまでははっきりと分かった。すでに電球のある生活から離れてしばらく経つ。そんな生活に適応しようと、俺の目は少しずつ、闇夜の中でも物が見えるようになりつつあったのだ。
そのため俺の脳みそは、寝ぼけたまま彼女である事だけを判別して、「やあ、今朝も早いね。おはよう。ご苦労さん」と声をかけようとした。
だが、そこでふと脳みそが覚醒したのである。そして、色々と気づいたのだ。
あれ? あそこ信吾の部屋だよね? と──。
あれ? 今まだ夜だよね? と──。
あれ? なんで女が髪の収まりを気にしながら、この部屋から出てくるの? と──。
そう。おきよさんは肩にかかる程度の髪を、襟足あたりで束ねた後ろ髪に手をやりながら、襟元を改めつつ部屋から出てきたのである。一目で分かるほどに大きな音を立てないよう気をつけながら。
ねぇ? これってあれだよね? 夜這い? でも、あの風習は確か男がやるんだよ。あれ? でも逆もあったような……。いやいや、そもそもここ異世界だし。女が夜這う方が普通って事も、もしかしたらあるのかも?
はは、たとえそうであろうとも俺には関係ありませんね。その証拠にこちらに来てからずうぅっと俺は安眠してましたっ。どちらにしても俺には関係ないって事です。仮にかける方だったとしても、あの風習は必ず相手に受け入れてもらえるとは限らないわけですしっ。
朝っぱらから鼻の奥がつーんとしてくる。
しかし、それにめげずに更に考える。
今日は、ここ藤ヶ崎での最初の夜である。
……あまりにもアグレッシブすぎやしないか? こっちの女はそこまで肉食なのか? ライオンとか虎とかではなく、もしかしてT-Rexだったりするのか? だとして、それでもなお、こちらに来てから一度も襲われていない俺はいったい……。
まだ完全にさめやらぬ脳みそを様々、ほんとうに様々な疑問が一瞬のうちに駆け抜けていった。
そんな事を考えながら呆然と佇む俺に、部屋から出てきたばかりのおきよさんは早朝にふさわしい清々しい笑顔と周りを気遣う小さな声で、「おはようございます、武様。昨夜はよくお眠りになれましたか?」と、挨拶をしてくれた。
しかし、正直まだ俺の脳みそはパニックを起こしていた。『混乱中。しばらくお待ち下さい』と書かれた看板が立てかけられている映像が浮かんでいる。とはいえ無様を晒すわけにもいかず、精一杯虚勢を張ってなんとか「お、おはよう」とだけ返す事に成功したのだった。
だって、俺も一応男の子ですからっ。こういう時は平常心を装いたいんです。少なくとも女の子の前だけではっ。
そんな俺の偽装が功を奏したのかどうかは分からないが、その俺の返礼を聞いた彼女は、もう一度きれいな笑顔を一つ寄越して、「それでは失礼いたします」と何事もなかったかのように、廊下を向こうへと歩いて行ってしまった。
俺はそれからもしばらくの間、廊下で呆然とする羽目になった。しかし、時間の経過と共に混乱しきっていた脳みそが落ち着きを取り戻すと、腹の底より言いしれぬ黒い感情が吹き出してきた。
裏切り者には死の制裁を────。
その激情に突き動かされ自分の部屋に駆け戻る。そして、帯を紐解き、浴衣にも似た寝間着をこの身からはぎ取った。
そして、学ランに着替え、白鉢巻きを締める。更に先ほど解いた紐を襷掛けにもした。……学ランでは意味がないが気分の問題だ。最後に伝七郎から借りて、そのまま俺のものになってしまった刀をひっつかむ。
いざや、裏切り者の本拠地へ。
そして、目的地に着くと、まだ薄暗い廊下の縁に胡座をかき、敵が部屋から出てくるのを待った。
月明かりが雲にさえぎられている今日のような日は、闇討ちにはもってこいだ。これぞ、天の采配というものである。まさに天が裁けと俺に告げていた。
わかっているともっ。必ず成し遂げてみせるっ!
そうして敵が姿を見せるのをひたすら待ち続けた。その間なんども、藤ヶ崎の侍女らしき女の子たちが、俺の前を通り過ぎていった。廊下の影に俺の姿を見つけては、「きゃっ」とか「ひっ」とか声を上げた。そして、みな恐ろしい物でも見たかのような視線をこちらに向けては、走り去っていくのだ。
許せ。これは必要な事なのだ。君らを脅かす事になった原因のおおもとは必ず成敗してみせるから。
彼女らの小さな悲鳴を聞くたびに、何度も改めて心に誓った。
そして本来であれば、そろそろ薄明の光が差そうという頃の事、先の侍女たちと同様の装いをした一人のお姉さんがおそるおそる俺に声をかけてきた。
雲の薄い所から微かに届く陽の光が、先程までよりはっきりと、その侍女の姿を俺に見せていた。いくらか年上だろうか。少しウェーブのかかった黒髪がきれいなお姉さんで、なかなかに色っぽい。口元にあるほくろと季節外れの鬼灯の簪が印象的だった。
うはっ。藤ヶ崎の侍女もレベルたけーっ。いったいなんなのこの世界? 美男美女がインフレ起こしてるよ? ……あれ? ってことは俺もしかして更にランク下がるの? ただでさえ地面すれすれを飛んでるのに、さすがにまずくね?
気づいてしまった衝撃の事実に俺が恐れおののいていると、彼女は懸命に笑顔を繕うようにして、しかし失敗しながら俺に声をかけてきたのである。「いったい何をやっているのですか」と。
怯えて腰が引けているのに、そんな事を聞いてくる。侍女にしてはなかなかに勇敢だ。あるいは余程好奇心の強い性格なのだろうか? いずれにしても、恐怖心を自制できるのは大した物であった。
だから俺は、そんな彼女にこう答えてやったんだ。
「何、今この屋敷には裏切り者がいるらしいからね。早々に処分してやろうと、待っていたのだよ」
俺がそう答えると、彼女は「ひっ」と小さく声を上げた。どうやら、少々言い方が血生臭すぎたようだ。だから、俺はこう言い直す。
「ああ、そう怯える事はない。消すのは裏切り者だから……」
俺は口の端を上げて、ニヒルに見えるような笑みを浮かべた。
今の俺、少しは格好よく見えるだろうか? こうして、日々女にもてるために努力しているというのに、なぜ俺は女にもてないのだろうか?
いつもの事だが、世の不条理に怒りを抑えきれない。
しかし、俺のニヒルな笑みは彼女を怯えさせただけに終わったようだ。彼女は俺を見て、口をぱくぱくさせるばかりであった。そして、しばらくそうしていたかと思うと、急に勢いよく頭を下げて向こうに走っていってしまったのである。
……そんなに俺はキモイのか。そりゃ、確かに俺は女にもてた事はない。だが、ツラだけなら、普通だと思うのだ。いやごめん。ちょっと見栄を張った。普通よりちょっとだけ下だろう。ちょっとだ、きっと。これだけモテなければ、おそらくはそういう事なのだ。だが、さすがに逃走されるほどはキモくはないと思いたかったのだが……、それすらも評価高すぎだとおっしゃるか。
心の汗が頬を洗う。いや、今更だな。この程度の事で一々気にしていたら、俺には一秒を生きる権利も与えられない。
くっそう。朝っぱらから、なんでこんな哀しい思いをせねばならんのだ。それもこれも、身に不相応なまねをしでかした信吾がすべて悪い。奴には必ずや裁きの鉄槌を下す。
誓いを新たにしたところで、(不届き者は、この俺が自らの手で必ず裁くから)と、きれいなお姉さんの消えた廊下の角を見ながら心の内で詫びた。そして、再びその襖が開く時を静かに待ち続けたのである。