第四十一話 とりあえずこれで一息だな いま何合目だ? でござる
はは、ちとからかい過ぎたか。
そんな千賀を追って、信吾と伝七郎が腰を上げる。それに付いていくように平八郎の爺さんも立った。
結果として、広い大広間にお菊さんと俺だけが残っていた。兵は二人ほど部屋の中に入っていたが、それは信吾と共に千賀を追っていったし、残りはこの広間に続く小部屋に待機していたからだ。
「お疲れ様でした。そして、ありがとうございます。父があのような」
「それ以上言わなくてもいいよ。お菊さん」
「でも……」
お菊さんは上段の間から降りてこちらに歩いてくると、俺の目の前に座り直し、本当に申し訳なさそうに、改めて頭を下げてきた。
「それよりも、お菊さん。千賀の事をよろしく頼むよ。あれには今回かなりの無理をさせてしまった」
彼女の顔を見ながらそう言うと、彼女は小さくぷっと吹き出し、こう答えた。
「ごめんなさい。でも、面白いお顔。まるで渋柿でも口にしたかのよう」
そう言って上品にころころと笑う。
「そんなに変な顔してる?」
「はい。でも、とても素敵なお顔ですよ。頑張って下さいね。兄上様?」
なんだ、そりゃ? 渋柿を食うと素敵な顔になるのか? つか、兄上様って何?
俺が盛大に首をかしげていても、彼女は楽しそうにしながら、こちらを見ているだけだった。
あー、疑問に答えてはくれないんだ。自分で考えろって事か?
「あー、そう。ま、いいや。あとは、さっき言ったようにお菊さんたちはここで待っていてもらうつもりだから、千賀の事よろしく頼むよ。結果が出るまでは、親父さんが動く事はないと思うけど、念の為にいつも以上に気をつけてやってくれ」
「はい。畏まりました。姫様の事はお任せ下さい。……ご武運を。必ず無事でお戻り下さいね?」
そして、彼女は微笑むと、俺の手をそっと両手で取ってそう言った。
あー。あー。あ?
俺が若干混乱していると、お菊さんは反射的に持ちあげた俺の視線から逃れるように腰を上げて、そそくさと千賀を追って行った。
な、なんだったんだ? 今のは。なんか今回はよく分からん事だらけだよ……。
気がつけば、部屋には俺一人がとり残されていた。
ひとり広間でぼうっとしていてもしようがない。
続きの待機部屋に移動し、残っている兵たちとともに館の門へと移動した。部屋の外に出た折、そこに待機していた爺さんところの兵の一人に、外の兵を中に入れる旨、爺さんへと報告に走ってもらった。どこでもいいから体をきちんと休ませられる宿を用意してくれという依頼も含めて。
そして門外で待っている兵らの所へ戻り、そこに待機していた皆に中に入るよう告げる。兵たちはやっと休めると声に出して大層喜んでいたが、屋敷から出てくる俺の姿を見て、婆さん一人が心底ほっとしたような顔をしていたのが印象的だった。
つーか、ちょっと休んだら、すぐにまた戦場なんだけれど、今は水を差せんよなあ……。
それを考えると思わず苦笑いが漏れる。そして、頭をがりがりと掻いていると、奥から伝七郎らが戻ってきた。千賀とお菊さんはいない。
「すまんかったな。千賀たちは?」
戻ってきた伝七郎に今この場にいない千賀らの事を尋ねた。
「お疲れ様です、武殿。姫様がたは奥に部屋を用意されて、そちらへ移動されました」
「そっか。ありがとう」
「いえ、こちらこそ有り難うございます。おかげで私たちは平八郎様も失わず、希望を繋ぐ事が出来ました」
伝七郎は俺の問いに簡潔に答えると、そういって静かに頭を下げてきた。
しかし、(これはお互い様なんだ。俺も遠慮なくおまえたちを頼っている。おまえらが俺を頼って悪い事など何もないだろう)――と、心の内で呟き、俺は奴の気持ちだけ受け取って、この話題はさらっと流す事にした。ま、これも男の美学って奴です。というか、こういう風にストレートに感謝されると、どういう態度をとって良いものやら、困るのだ。だから、
「別に大した事はしてないさ。それより、侍女らや兵たちはどうなるんだ?」
と、なんでもない事のように話をすり替えた。
そして、伝七郎もそれ以上言及する事もなく、
「たえ様や侍女の皆は、姫様に用意された部屋の方へと移動してもらって下さい。兵は今日の所はとりあえず館で休ませて、明日以降は使われていない屋敷に少し手を入れてその場しのぎをするそうです。そして、私たちがこちらに戻ってくる頃くらいまでには、町の長屋なりに手を回して定住できるようにすると平八郎様は言っておられました」
と、返答してきた。
使われてない屋敷って、あの武家町の屋敷の事かな? ふとこちらに来るときに見た、やたらと閑散とした武家町の様子が思い起こされる。で、そこで少し兵を休ませて、北の砦を落としているうちに兵の受け入れ準備は済ませるって事か。まあ、妥当だな。
「そっか。よし、おまえら。ご苦労さん。いま聞いたとおりだ。ただ、ここでしばらく疲れを癒やした後、俺たちはここ藤ヶ崎の北にある砦の攻略が予定されている。すまないがもう少し付き合ってくれ。とりあえず状況が激変しなければ、出発は少なくとも数日後だ。確実な日取りは改めて連絡する。それまではゆっくり骨を休めて、英気を養ってくれ」
伝七郎の話を聞くと、俺はそう兵たちに向かって告げた。そして、以上で問題ないか、と改めて伝七郎の方を向いて確認する。
それに対し、伝七郎は一つ頷くと、一言だけ付け足す。
「皆ほんとうにご苦労様でした。今後の予定は、いま武殿からの話の通りです。あとは、少ないですが軍部の方から臨時の報酬を出しますので、それを使って英気を養って下さい。以上です」
そしてそう言うと、伝七郎は一歩後ろに下がった。
「よーしっ。以上だ。あとは館の兵の指示に従ってくれ。解散っ」
伝七郎が下がったのを見届け俺がそう告げると、兵たちは館の兵の先導に従って、それぞれ散っていった。婆さんと侍女たちも、同様に館から出てきた侍女の後について、千賀の元へと移動していく。
すると、源太と与平の奴が、こちらに向かって走ってきた。
「おーう、お疲れさん。こっちに異常はなかったか?」
「お疲れ様です。こちらでは特に何もありませんでしたか?」
俺はいつも通りに、伝七郎は上品に奴らに声をかけた。
うん、あれだ。いいんだよ。どうせ俺は下品なんだ。うん。泣いてない。泣いてないよ? ちょっと育ちがあれなだけなんだ。
「お疲れ様です。武様。伝七郎様。こちらでは特に何事も起きておりません」
「お疲れ様です。武様。伝七郎様。そっちもうまくいったようですね。こっちは特に何も問題なしです」
向こうもそれぞれがそれぞれらしい報告をしてくる。源太はくそ真面目に、与平は授業が終わった後の小学生みたいな態度で。
ほらみろ。俺だけじゃないやい。
誰に突っ込まれたわけでもないのに、心の内から言葉が溢れる。しかし、すぐにこれが世に言う被害妄想と嫉妬という奴だと気がついて、更に凹んだのは言うまでもなかった。
そんな一人漫才を心の内で繰り広げていると、伝七郎の奴が声をかけてくる。
「しかし、それにしても細い綱を渡られましたね。正直最後までひやひやでしたよ?」
伝七郎は肩を竦めながら、冗談っぽくではあるが、戦慄しっぱなしだったとそう口にした。冗談めかしてはいるが、おそらく冗談などではなく本当にそうだったのだろう。今の伝七郎の安堵しきった顔が、それを教えてくれていた。
「すまん。とはいえ、のんびりしていて、その細い綱が劣化して切れるよりはましだろう。渡る手段が残っているうちに渡るに限るよ」
「確かに……。しかし、この程度なら先に話してくれていてもよかったかとは思いますよ」
固まった首筋をこきりこきりと鳴らしつつ、奴の言いたかっただろう言葉にそう答えてやると、伝七郎も微苦笑を浮かべて、そのように苦言してきた。
「それは違うんだよ。思いのほか爺さんの物わかりがよかったから、この程度で済んだだけなんだ。あちらも早々にこちらを試しに来たからな。というか、最初から試す気で来ていた臭い。正直今回は、爺さんに俺たちを試す気にさせるまでが大変だと思っていたのだが……」
「そういう事ですか。それにしても、やはり武殿はすごい。先ほど平八郎様に、私が皆をここに連れてきたと武殿は言われましたが、やはり武殿の……」
「いや。そこは謙遜でもなんでもなく、お前の力だよ」
どこか自嘲気味な笑みを浮かべ、伝七郎はその笑みのままの気持ちを口にしようとした。しかし、俺はその伝七郎の言葉に被せて、それを否定した。
そんな俺の言葉に、伝七郎は少し驚いたように目を丸くする。そして、
「……そうでしょうか」
とだけ呟くように言った。
「そうだよ。さっきも言った通り、爺さんでも、そして俺でも、あの時の俺を使う事はない」
そんな伝七郎の目を見据え、俺はきっぱりとそう断言した。
「お前だから、俺を使う事ができた。俺を信じて使った事も、また、俺がそれに応えようと思った事も、お前が始点だ。あの時の俺を使おうと決断できる者がどれ程いようか? 自慢じゃないが、俺自身だったら猜疑心が勝って絶対使わない。爺さんと同じだ。使ったお前と使わない俺たち。判断としてどちらが正しいのかは、あえて言及するまいよ。でもただ一つの結果は、もうすでに出ている。俺はおまえらに仇成す為に送り込まれた者じゃあなかった。そしてお前は、俺を使い道永を破った。それがすべてだろう。お前の将器の勝利だよ」
伝七郎は目を閉じ、俺の言葉を聞いていた。そして、その俺の言葉に短く答える。
「……ですか」
「だよ」
だから、俺は自信を持ってそう答えてやった。
どうしてこうも自己評価が低いんだ、こいつは?
源太も与平も口を挟まずに黙って俺たちの話を聞いていた。そこに、兵を効率よく部屋割りするべく、小隊に分けて藤ヶ崎の兵に渡していた信吾も作業を終えてやってきた。
まあ、なんにしてもとりあえずの山場は一つ超えたんだ。俺たちも英気を養おう。そして、すべての山を制して計を成してみせるんだ。
こいつらとなら、多少の無茶ぐらいならば推し通れる──。
そんな根拠のない自信が胸の内に湧く秋の午後だった。