第四十話 前門の古狸、後門の子悪魔 でござる
ふぅ。
知らず知らず胸に溜めてしまっていた空気を吐き出す。
体中に張っていた糸が一本一本切れていく。まだ駄目だと思っているのに、体がいう事を聞かない。額に微かに滲む汗に気づく。口の中もやけに粘ついている。どれも未熟の証だった。しかし、とりあえずの山を越える事が出来た。
あとは吐いた言葉通りに、事をなして見せるだけである。しかし、そこまで成してこその計なのだから、気を抜くにはまだ早かった。わかってはいる。わかってはいても、ここが重要な山だったことも間違いなく、無事その難所を乗り越え、そっと吐く安堵の溜息くらいは許して欲しかった。
なにせ爺さんの首を縦に振らせなくてはならなかったのだ。これだけの覚悟を持って行動を起こした人間を説得するとなれば、口先だけでそれを成す事はまず不可能である。最低限、行動と結果が必要になってくる。今回にしたって、爺さんはとりあえず様子見を続行することを決定したに過ぎないだろう。俺らが実際に約定を果たして、はじめて俺たちの言い分を本当の意味で認めるに違いない。
つまり北の砦攻略に失敗すれば、それで終わりなのである。もっとも千賀を連れてきている以上、説得に失敗していても終わっていたけどな。なにせあれを取り上げられると、俺たちの立場そのものが瓦解するのだから。
今回は俺たちの生き死にだけではなく、軍全体の存亡を賭けた大勝負であったし、更に言えば、今もって俺たちは掛け金を転がしている真っ最中である。大声では言えないけれど。多分伝七郎あたりは、すでにそれに気づいているだろうし、あとで苦情をもらう事必至だ。
もっとも、じゃあ今この方法をとらなければどうなっていたかと言えば、いま死ぬか後で死ぬかの差しかなかったと思う。故にこちらも腹を括って賭けに出たのだ。決断を引き延ばせば引き延ばすほど、勝ち目が薄くなっていっただろうから。
いま勝負に出た方が分は悪くないと思えた。しかし、分が悪くないという言葉通り、博打であった事も事実だった。自分の何か以外のものを背負って博打を打つのは、できれば二度と御免被りたい。心臓に悪すぎる。ただ、そう願った所で、それが叶うかどうかは神のみぞ知るという所である。俺たちの立場では、「嫌です」「そうですか、分かりました」となってくれる事など、ほとんどないだろう。
まあ、とはいえども、である。これで一つ山を越えたことには違いないのだ。
現状の再認識をしながら、平八郎から目を外し、大人しくずっと上座に座っていた千賀を見やる。
意図的にそっちを見ないようにしていたのだが、一段落のついた今、これ以上無視し続けるのは状況の悪化しか招かないと思ったのだ。
うっ。こっちを睨んでいる。突然怒りだしてから、ずっと放置していたからな。こちらが視線を向けたとたん、視線をそらし、むくれた顔がさらに膨らんだ。
……おおう。これは大変そうである。
だが、その後ろに控えている信吾はニカッと良い笑顔を浮かべて、小さく握り拳を振り上げて喜びを伝えてきたし、その反対側のお菊さんは正座したまま、静かにしなやかな動作で頭を下げてきた。柔らかな微笑みを添えて。
ぞくぞくした。
いつものようにピンと背筋を伸ばしたまま、静かに後ろに控えて座っていた彼女。その居住まいは、ここ最近の彼女のものではなかった。かといって、それ以前の彼女のものでもないように思えた。
凜とした雰囲気は今も変わらずにある。しかし、今の彼女はそれだけではなく、とても柔らかかった。清冽さと嫋やかさが混在してそこにあった。そしてそれに、矛盾しない暖かさが重なっていた。
思わず見とれれば、頭を上げたお菊さんと視線が交わり、彼女の頬は軽く朱に染まる。清冽な印象のある彼女ではあるが、今の彼女はそれに増して可憐であり、恥ずかしげに俯き頭を垂れている姿は、まるで鈴蘭の花のようであった。
彼女にしてみれば、普段通りに振る舞っているだけなのかもしれない。だが俺は、美しいという言葉の本当の意味を、今日初めて知ったと思った。
だから、不躾だとは承知してはいたが、そんな彼女に俺の目は釘付けになってしまった。
おそらく馬鹿面を晒していた事だろう。惚けたまま幾ばくかの時間を過ごしてしまった。そして、気づく。
むっ。0時方向で戦闘力が上がっている。
はい。千賀の顔がパンパンに膨らんでいました。
うーわー。これはあかんとです。
「たけるっ。ちょっとこっちにきてたもうっ」
畳を叩いて大アピールしてやがる。
「はーやーくーくーるーのーじゃっ!」
俺がそれにどん引きしていると、畳を叩く腕がもう一本増えた。
なおも、その様をじっと観察する。
すると、こちらに動きがないとみた幼女は、先ほどまで正座していたはずの両足まで動員して、前輪駆動が四輪駆動になった。
ああ、こりゃいかん。これ以上は危険だ。
「はいはいはいはい。ちょっと待て。落ち着けっ。いったいどうしたんだ、千賀っ。話を聞こうじゃないか」
動きたくないでござると言っている足腰に活を入れて、無理やり腰を上げた。
そんな俺の方を向きながら、伝七郎の奴は「よろしくお願いします」とだけ言って、くすくすと笑っている。信吾も、そして、お菊さんもとても楽しそうに小さく笑っていた。
いや、お前ら。少しぐらい助ける気はないのかよ?
しぶしぶ今まで座っていた部屋の縁を離れ、上段の間と下段の間のぎりぎりのあたりまで近寄り、千賀と対面して座る。
そこまで歩いて行く間に、千賀に対面する形ですでに座っていた平八郎の爺さんと目が合う。最初目を丸くしていた爺さんが、胡座をかいたその両膝に手をついて俯き、肩を震わせながら、笑いを堪えていたのが非常に印象的だった。
くっそ。色々と台無しじゃないかっ。このがきゃあ。
そんな周りの反応に俺は苦虫を噛みつぶしながら、ちっこい身体いっぱいに不満を表現している、我らが主様に応対した。
「……で、なんだよ? 千賀」
「それじゃっ。まずそれなのじゃ」
「それ?」
それと言われてもいったい何の事なのか、さっぱりわからん。もう少し、わかりやすく言いなさい。
「そうじゃっ」
「それってどれだよ?」
「むーっ。なんで妾の事を姫様なんて呼んだんじゃっ」
「いや、だっておまえ姫様じゃないか。みんなもそう呼んでるだろ?」
どうやら、俺が姫様と呼んだのが気に入らないらしい。とりあえず四輪駆動は治まったのだが、相も変わらず右手は畳を叩いていらっさる。
「みんなはずっとそう呼んでるから良いのじゃ。だけど、たけるはちがうのじゃっ。今までいちども、そんなふうに呼んだ事などなかったのじゃっ」
「おう。そりゃそうだな。だって俺、厳密にはおまえの臣下じゃないし。主君とか言われても、なんかこうしっくりとこないし?」
「じゃったら、今までどおりでいいじゃろ。なんで姫様なんて呼んだんじゃっ!」
「いや、だって。あの場では必要だったし」
「なんでじゃっ?」
「妙な事にこだわるな? なんでもかんでも、あの時は千賀を主君として印象づけなければならなかったんだから、仕方ないだろ?」
「うー、む? なんかようわからんけど、妾はやーなのじゃっ。だから、たけるはひめさまって言っちゃだめなのじゃっ。もし呼んだら、もう返事してやらんのじゃっ」
疎外感みたいなものだろうか? 他人との距離を気にするこいつだ。案外ビンゴかもしれない。そういう話ではなかったのだが、これにその違いまで理解しろと言っても無理がある。いくら賢くても、中身が大人という訳ではないのだから。
後ろにいるお菊さんは、千賀が何を言っているのかはっきりと分かったようで、微笑みを浮かべながら、頷くようにして、再びこちらに小さく頭を下げてきた。
「あー、わかったわかった。もう言わない。必要な時には先に千賀と相談する。それでいいだろ?」
俺がそう言うと、千賀は納得したのか、なんか妙に偉そうに大きく笑んで頷くのだった。
「それならいいのじゃっ」
一体なんなんだ。
「それだけか?」
俺はその場を立って元の場所に戻ろうとしたのだが、
「まーつーのーじゃーっ! まだ言いたい事はあるのじゃ。なんでたけるは平じいをいじめるのじゃ?」
と、まだなお吠える千賀に止められる。しかし……。
What?
頭頂でクエッションマークが、手をつないで輪になって踊り狂ってんぞ?
「おじょうさん? ちょいとばかりお待ちなさい。誰が誰をいじめてたって?」
「たけるが平じいをいじめてたのじゃ」
おー、まい、がっ。このチビにはそう映っていたらしい。確かに糾弾したのはこちらだが、真実は逆だ。むしろ、俺らがいじめられているのだ。ちなみに現在進行形である。
「違うぞ、千賀。それは大変な勘ちが……」
違いだと続けようと思ったのだが、後ろからの声が俺の言葉に被せてきた。
「おお。さすがは姫様。よく見ておられる。じいは姫様にお仕えする事ができて感無量でごさいます。近頃の若い者は老人を敬わなくて困ります。姫様はこの者のようになってはなりませんぞ?」
くぉのっ、く・そ・じ・じ・い がっ!
思わず、こめかみの血管までサンバを踊る所だったよ?
「やい、爺。そりゃどういう意味だ?」
「どうもこうも、そういう意味じゃが……。何か間違っておったかの?」
ぐぬぬ、ぬけぬけと。なぜ人間ってのは歳を重ねると、こうも性格がひねて可愛げがなくなるのであろうか。
「よくもまあ、しゃーしゃーとそんな科白を吐くよな。この爺さんは」
「なんの事やら」
もういい。こんなのに付き合っていたら、きりがない。
俺は千賀へと振り向き、その顔に向かって、まずは人差し指を一本立てて見せた。
「いいか、千賀? まず一つ。俺は爺さんをいじめていないぞ。二つ。おまえは素直な良い子だが、時に他人を疑おう。三つ。三日月ハゲがある。以上だ」
そして、順番に指を増やしていった。
「な、なんじゃとーっ?!」
千賀は自分の頭にものすごい勢いで手をやって、あちこち触っている。そして、俺がその様をにやにやニヤつきながら見ていたら、再び顔をパンパンに膨らませてムクレタ。ぷぷ。
「やっぱり、たけるはいじわるなのじゃっ。たけるなんか大きらいじゃーっ! べーっ」
良家の姫君にあるまじき事に、口の両端を引っ張って舌を出しながら、千賀は部屋の外へと走り去っていったのだった。