第三十六話 論戦 でござる その一
藍の直垂、いや素襖、確かそんなような名前の着物を纏ってその人物はそこにいた。
その男は確かに老人といってよい年齢だろう。その顔に刻まれた皺は、熟成された確かな証拠としてそこにあったし、見事といえる立派な顎髭はその頭髪とともに白く染まっていた。
その頬に走る古い刀傷はまるで戦歴を謳っているかのようにそこにあったし、素人目にもはっきりと分かるほど、その佇まいは武人として老成された雰囲気を持ってもいた。
しかし、その男はいわゆる寄る年波というものとは無縁のように感じた。
その体躯はあきらかに俺よりも大きく、更には鉄の棒でも通っていそうな背筋と俺の太ももくらいはありそうな二の腕を備えていた。だが、何よりその目だ。歳月を経た人間にありがちな、若さの代わりに何かを悟ったようなものではなく、未だ熱く燃えるような若々しく力強い眼差しを持っていた。
それにしても、だ。出てきたかよ。大広間に控えてろっつったのに、ノリノリじゃねぇか。ある意味賭けに勝ったとも言えるが、下手すると言葉通りの意味で命獲られかねん。
これは、つまるところ、前向きに検分する気になっているという事だろう。うまく運べば勝利に近づくし、負ければおそらく周りにいる兵たちが襲いかかってくる。そうなれば、千賀とお菊さんはともかく俺たちは元気よくあの世行きだ。
この男が永倉平八郎であろう。まず間違いない。
横目で伝七郎に確認する。奴は小さく頷いた。
先ほど開いた手の平が再び拳を作ろうとする。それを押しとどめるのもなかなか苦労するところとなってきた。それほど、目の前の男の発する迫力は実に大したものであった。
だが、そんな心境を外に出してしまってはそれですでに俺たちの負け、終わりだ。だから、何気ない涼しげな顔をしたまま、目の前のその男の所まで歩いて行く。
すると、平八郎は右手をさっと挙げる。
おいおい、いきなり襲う気かよ?
密やかに心の内を緊張が走る。
その時、後ろで地面の上を何かが激しく擦るような音がした。すぐにピンとくる。
──おそらく信吾らが戦闘態勢をとった時に出た擦過音だ。
まずいっ! まだ早いっ!
後ろを確認する事もなく、即座に左腕を水平にあげて押さえるような仕草をとった。幸いそれに即座に反応してくれ、その指示により信吾とその兵たちも構えは解いたようだった。警戒までは解いていないのは改めて聞かずとも分かるが、ひとまずの戦闘態勢は解除された。
見れば伝七郎も俺と同じ行動をとっていた。今回ばかりは当てにできないと思っていたのだが、意外に冷静だった。俺と伝七郎、左右対称で同じ動きをしていて、さぞおもしろい絵になっていた事だろう。
それを見ていた平八郎は、鋭い目つきのまま口の角をあげてにやりと笑う。そして、その手を振り下ろした。
顔には出せなかったが、内心生きた心地がしなかった。心臓の音が周りに聞こえやしないかと心配しなくてはならない有様だった。
だが、そんな俺たちの心境など知らぬと、平八郎の合図に併せるように周りの兵たち全員は両膝をつき平伏した。
やってくれるじゃないか…………。
居並ぶ兵たちが平伏するのを待って、永倉平八郎が千賀に向かってその場で片膝を着く。
「……姫様。よくお戻りになりました。菊も息災のようで何よりじゃ」
親父さん、さすがに面の皮が厚いな。
この期に及んで全く表情を変える事なくそう言ってのけた。どうやらその顔の皺は表情を隠すのに十分なものらしかった。
俺たちの後ろに立っていたお菊さんはその場で静かに頭を下げた。
「父上もご健勝のようで、何よりでございます……」
「平じいっ! 久しぶりなのじゃぁっ」
一方の千賀は先ほどまで怒って俯いていたのだが、それを忘れたかのように顔を輝かせ、永倉平八郎に飛びかかっていく。そして、しゃがんでいる爺さんの首に抱きついたかと思うと、うれしそうに首を何度も振って顔を擦りつけた。
「姫様、大きゅうなられましたな。爺も久しぶりに姫様のお顔が見られて、うれしく思いますぞ」
「平じいが悪いのじゃ。いなくならなければ、いくらでも見れたのじゃっ」
「……左様でございますな。爺が悪うござった。お許しください」
鉄面皮にその心が映る事はなかったが、千賀のあけすけな態度を喜び、そして、苦しんでいるのはあきらかだった。そうでもなければ、そもそも仮面をかぶる必要がないのだから。
そんな永倉平八郎の気持ちなど思いもよらぬ千賀は、ただただ彼に再会できた喜びを体中で表す。
そして、そんな千賀に合わせて謝る永倉平八郎。
それを横で聞いていて、「やはりな」と思わずにはいられなかった。
先ほどの謝罪は、本当に千賀の言葉に応ずる謝罪だったのだろうか。
否、俺にはそうは思えなかった。千賀を抱きしめ謝る姿に、その思いこそがこの道を選んだ理由の一つで間違いないと、更に確信が深まった。
そう。まるで自分が千賀の父親の側を離れた事そのものを悔いるような、側にいる事ができていればと嘆くような、そんな響きをその言葉の内に聞き、その姿に見た気がした。
しかし、千賀と平八郎とのそのようなやりとりをいつまでも眺め続けているわけにも行かぬので、話を進める為に割り込んでゆく。
「貴殿が永倉平八郎殿でございましょうか。私の名は神森武。千賀姫様が継直の手を逃れてこちらに参る折、縁あって姫様と同道する事になった者にございます。以降見知りおき願います」
まずはゆっくりと頭を下げて、丁重に自己紹介をしていく。
ここから先は経験豊富なこの老将を呑み込んでこちらのペースに引きずり込まなくてはならない。その為の地ならしは必要だった。
「これは、これは。丁重な挨拶痛み入る。拙者は永倉平八郎にござる」
膝をつき、千賀を抱き留めたままの態勢で永倉平八郎はそう応じてきた。彼の腕の中で、未だ千賀はうれしそうに顔を彼の胸に押しつけたままくりんくりんと頭を振っている。
もう、見るからに孫と爺さんであった。実際のところ、互いにそういう思いで相対している事だろう。
実に見ていて心温まる光景ではある。しかし、ここから先、そういう思いは話の決着までしまっておかねばならない。
さもなければ、この景色そのものが泡沫の夢と化す。
永倉平八郎がこうもあっさりと出てきたという事は、そういう事に他ならないからだ。
そんな平八郎の返礼を受け、再び軽く頭を下げるだけの会釈を返し、静かに微笑を浮かべる。
始めようか──。