第三十五話 館へと続く道すがら でござる
あー。まいった。予想よりも早めに千賀に反応が出ちまったな。でも、いったい何に反応したんだ? 千賀がどうこうなるとしても永倉平八郎を引っ張り出してからだと思っていたのだが……。
いずれにしても、今千賀に爆発される訳にはいかない。だから、迂闊に手を出せない。原因はいまいちよくわからんが、原因は俺以外にないだろう。
困って視線を伝七郎に送る。伝七郎は首を横に振るとその場に片膝を着いて、視線を千賀の高さに合わせた。
「どうなされましたか? 姫様」
「…………なんでもないのじゃ」
長い沈黙の後、千賀はぼそりとそう答える。
その答えをそのまま受け取った訳ではなかろうが、伝七郎は「そうでございますか」と一言口にするだけであった。そして、懐より懐紙をとり出すと、そっと千賀の目の端に当てる。紙は暗く濡れた。しかし、何事もなかったかのように紙を懐に戻して立ち上がり、元の位置に戻ったのだった。
んーむ。いったい何がいかんかったんだ。千賀が泣くのは、まだ先の筈だったのに。今ここで千賀が癇癪起こしたら、すべてが台無しになる。それだけは避けねばなるまい。事の究明はすべてが終わった後だ。
「者どもっ。道を開けよ。姫様は水島の館に向かわれる。その共として、我々と後ろの兵が同道する」
胸を張り、殊更力強くそう宣する。少々想定外の出来事が起こったが、ここで弱気になっては今までの演技も無駄になる。
隣で千賀が再びぴくりと動く。しかし、それに構っていられない。
「先触れの使者を館に走らせい。館の門にて再び同じ事を繰り返すならば、次はご寛恕賜る事はないと心得よ。姫様は館の大広間に向かわれる。先に控えているよう永倉殿にはそう申し伝えよ」
相手側の意見を一切問うことなく矢継ぎ早に指示を出す。
混乱した奴らはすでに操り人形も同然だ。自身で思考する力など残ってはいない。仮にそれができたとして、今おのれの首をかけてまでも俺たちを止めにくる程の肝を持った者がここにいるのかというとそれはほぼないと言い切れた。なぜなら、最初に声を掛けてきた者がただの一兵卒だったからだ。もし、只の兵卒の中にそんな輩が混ざっているならば、むしろ喜ばしい限りである。必ず記憶しておき、引っ張り上げる価値があるだろう。残念ながら、該当する者はいなかったが。
そして、取り巻いたまま右往左往する藤ヶ崎の守衛たちを見向きもせず、俺たちは千賀を先頭に堂々と正門へと進んだ。
俺たちの歩みに合わせるように目の前にある人の壁が割れてゆく。
それでも、それを当然と全く頓着する事なく、俺たちは早くも遅くもない速さで突き進んだ。
その周りには、それを阻む事も膝を屈する事も忘れて棒立ちになっている兵の群れがあった。しかし、それを振り返る事なく、俺達は町の大通りを通って館へと向かったのだった。
本来この通りは買い物をする人々や必死でものを売ろうと声を張り上げる商人たちで賑わっているのだろう。しかし、俺たちが歩く先に人はない。むき出しの土の道がまっすぐに伸びているだけで、そこに人の影は差していない。黄緑に染まったしだれ柳が秋風にそよぎ、その影が道を撫でているだけである。人々は道の脇に寄り、何か恐ろしいものでも見るかのような眼差しでこちらを見ながら、ひそひそと語り合っていた。
本来なら、歩きながら町並みでもゆっくりと楽しみたいところだが、それはできそうもない。問題を片づけた後、じっくりと見物させてもらおう。ぱっと見た感じ、なかなか面白そうだしな。少しというか、かなり興味をそそられるものがある。
千賀はあれから黙ったままだ。演出上軽々しく声を掛ける事も出来ず、何をそんなに怒っているのか聞けずじまいだ。
幼いながらにあれは本気で怒っていたと思う。と言うか、裏切り者でも見るような目だった。そういう意味では哀しんでいたのかもしれない。ただ、いずれの感情にせよ、千賀は本気でその心を剥き出しにしていたと思う。それだけになかった事にはできないのだが、なかなかままならなかった。
それぞれが表面を取り繕ったままのそんな一行ではあったが、少なくとも誰に邪魔される事もなく大通りのど真ん中を通り、伝七郎の誘導に従って水島の館へとまっすぐ進んで行けた。
しばらく歩き、遠見の時に見えた武家町らしき所を通る。
そこは閑散としていた。道には敷き詰めたのかと錯覚するほどの落ち葉が散らばり、屋敷の門の前を風に煽られ舞っている。屋敷の数自体は結構あるというのに人の気配がほとんどない。
もしかすると、継直の内乱の影響だろうか。こちらでも結構奴につく人間が出たのかもしれない。そう思える程、そこは人の気配、特に生活の臭いが希薄だった。
結局、その武家町を通る間、通りで見かけた士分はただの一人もいなかった。
さすがに永倉平八郎以外に武士階級がゼロという事はないだろうが、相当数の離反が出た可能性がやはり高い。伝七郎が言っていた旧臣はほとんどが向こうについたという言葉は旧水島の本拠に限った話ではないという事だろう。お菊さんの親父さんもその後始末にはさぞ苦労したに違いない。先程の門の前でそれらしい身分の者が即座に出てこれなかったのも、この辺りが影響しているのかもしれない。
動くものが見えぬ屋敷街を眺めながらそんな感慨を覚え、更に道沿いを進む。
しばらく行くと、白漆喰で綺麗に塗られた土壁が見えてくる。そして、その土壁が延々と続いているのが見えた。
間違いない。こんなものを持てるのは領主だけだ。つまりこれが、水島の館なのだろう。いよいよか。
自然と拳に力が入るのが自分でも分かった。だから、無理やり手の平を開いた。力を入れすぎてはいけない、緩すぎず締まりすぎずの平常心こそが今は最上だ。さもなければ、あらゆる経験で勝る永倉平八郎と互角にやり合う事すらおぼつかない。まして勝ちきる事などできはしないだろう。
そう自戒する。そして、知らず知らず肺腑に縛っていた空気を解放してやった。
そして、天を仰げば、陽はそろそろ昇りきろうとしていた。
館への到着前に改めて皆を横目で見る。こんな事をしなくてはならないのも、ここ藤ヶ崎の兵たちがいくら俺達を着かず離れずで付いてきているからだ。
それに文句をつける事もやってやれない事はないのだが、それで得られるものは鬱陶しさから解放されるだけというささやかすぎる収穫である。そんなものに今現在唯一の武器である権威を乱用したくはない。乱用すれば、相手もそれに慣れてしまって肝心な所で使い物にならなくなる。
そうして走らせた横目に映る皆の姿だが、あまり良い雰囲気ではない。それぞれがそれぞれに胸の内で思うものがあるのだろう。門を通って以降だれも口を開いておらず、一行はただただ歩き進んでいるだけであった。
特に千賀とお菊さんは酷いものだ。千賀は先ほどの状態のまま俯き気味に固まっており、お菊さんもきれいな口元を一文字に引き結んだまま俯き気味だ。ともにかろうじて足だけが動いて前に進んでいるような有様だった。
できれば、こんな不安定な状態で対永倉平八郎戦に突っ込みたくはなかったがなあ。
しかし、そんな思いもむなしく、ついに館の門に到着する。
そしてそこにあったのは、それまで望ましくない状況に陰鬱になりがちだった脳みそに、活を入れるような物体だった。
なんつーでかい門じゃー、こりゃ。こういうものは旅行先で見るもんだろ、常識的に考えて。
その大きさ自体もさることながら、冠木や鏡柱に使われている木の立派なこと。正直度肝を抜かれた。白漆喰で塗られた延々と続く壁といい、たかが一地方領主でこうまでも立派な門構えを持った館を持てるってのはどういう事なのか。いや、どうもこうもない。単純にこの町の実入りが相当に良いという事だろう。
本当はもう少し眺めていたい。個人的な嗜好の問題で、大いに好奇心をくすぐられた。しかし、それはまた今度という事にせざるを得なかった。
なぜなら、その立派な門の前には二百を超えていると思われる兵が整列し、門前の中央に一人の老人が立って待っていたからだ。