第三十一話 親思う心と親心 でござる その二
……あっちゃあ。そう来たか。
視線だけを動かし伝七郎の方を見ると、こちらもピクリと眉を動かした後は、何か苦いものでも噛んだように渋い表情で黙っている。
まあ、何やるかははっきりわかっていなくても、永倉平八郎を慕うものにとって好ましくない事を俺がすると言うのはわかっている訳だからな。そりゃそこに実の娘が同席したいと言えば、そういう反応にならざるをえんだろう。
すべてを語っていない以上、ここをどうにかするのも俺の責任か……。
そのまま伝七郎の方に目で合図を送る。幸い伝七郎もこちらに視線を向けてきたので、なんとか意思疎通に成功する。伝七郎はどうしたものかと聞いてきた。だから、俺はそれにこちらでやるという意味で小さく一つ頷いた。
付いてくるならそれなりの覚悟をしてもらわないといけないし、それができそうになければ置いていくしかないのだ。それ以外の選択肢はない。だから、俺はそれを確認しなければならない。
「あー、お菊さん? また、なぜ急にそんな事を?」
軽薄に見えない程度の軽い調子と態度で尋ねる。
そう振る舞いながら、何度も呪文のように『耐えられるかどうかだけを見ろ』と心の内で唱える。そうしなければ、俺は簡単に「良いよ」と言ってしまいそうだ。伝七郎を見る彼女の横顔はそれ程に思いつめていた。
俺の言葉を聞き、こちらに振り向くお菊さん。やはり、どうにも硬い。なんとかとってつけた建前じゃなくて、彼女の本心を口に出させたいところだが……。
お菊さんはこちらに振り向いてはみたものの、その両手を胸に掻き抱いたまま、再び固まってしまう。そして、視線が落ちていく。
あー、まいったな。これじゃあ埒があかない。真面目な彼女だけに、父親を心配する気持ちと自分が出しゃばる事に対する忌避感がぶつかってしまって身動き取れなくなっているような気がする。
さて、どうしたものかと頭を掻き毟るべく右手を上げたその時だった。
がちゃん──と陣幕内に甲高い音が響き渡る。
見れば、割れた土瓶が幕内でも剥き出しの土の上に転がり、そこに染み入るものが自然に任せた文様を描いていた。
「あー。失敬失敬。うっかり手を滑らせてしまいました。すみません。菊殿もう一度とってきてもらえますか?」
陣幕の入り口近辺の配膳前の食事が置かれている付近で、信吾は頭を掻きながら困ったような顔をしている。糸目を更に糸目にするという器用な目つきをしながら、こっちを見て、まいったまいったと口にするのだ。
演技は落第点だが、ナイスだ。すばらしいぞ、信吾。それに俺がついていけという事だな?
「え、あ、はい。わかりました。少々お待ちください」
先程まで固まっていたお菊さんは、ハッと我に返るとそう言葉を残し、幕を出ようとする。
あー、こりゃ本気で重傷だ。あのわざとらしい信吾の演技にも全く気がついていない。普段のお菊さんからは考えられないよ。
そんな彼女を横目に与平と源太も周りにある乾いた土を掛けたりしながら、信吾に気をつけろよとか言っているが、口にしている言葉自体はどうでもいいのは明らかだった。なぜなら、二人とも顎をしゃくって、「ついて行け」とこちらに合図を送っているからだ。
感謝する。そう思いを込めてこちらも一つ頷く。
だが、奴らの方に気をとられているうちに、お菊さんは外に出ていってしまった。
そんな彼女を見て、話を聞いた後すぐに連れて戻れるかどうか疑問が浮かぶ。正直、確率は半々もしくはそれ以下ではなかろうか。口を開かせれば、心の堰も一緒に切れてしまいそうな気がしてならない。
故に彼女を追おうとする足を止めて、一度伝七郎を振り返った。
「この決定権、俺がもらっていいか?」
それを聞いた伝七郎は一つ頷き微かに笑みを浮かべる。そして、「任せます」とだけ答えた。
陣幕を出ると、まだ炊き場として使っている一角に向かって歩くお菊さんの背中が見えた。
「お菊さん。待って」
彼女の背中からそう声を掛ける。
これも普段の彼女らしくはないのだが、ややうつむき気味で歩いていた彼女はその声を聞き届けたのか、ゆっくりとその歩みを止め、顔を上げた。
彼女は泣いていた。
涙を流していた訳ではない。声を詰まらせ肩を震わせていた訳でもない。だが、見る者の心を締め付けるその哀しげな表情は、俺の目には泣き顔以外の何物にも映らなかった。
「……武殿」
お菊さんは力ない目で俺の顔を見上げる。視線が右に左に落ち着かない。それは、彼女が普段人と対面している時にとる態度とはかけ離れたものだった。
「ん。お菊さん、湯はいいよ。あいつらには喉が乾いたら、粥飲んどけと言っといた。思う存分飲むだろう。代わりにちょっと付き合ってよ」
「そんな事……」
「大丈夫、大丈夫。あいつら馬鹿だから、粥と湯の区別はつかない。全く問題ない」
躊躇う彼女に、勢いに任せた適当な言葉を並べる。奴らが聞いていたら、「流石にそれはないわ……」と抗議されそうだが、聞いていないから問題ない。
「でも……」
それでも彼女の態度は煮え切らない。ならばっ。
「まあまあ。本当に大丈夫だから。ねぇ、こっちだよ」
彼女に向かって右の掌を上にスッと腕を伸ばす。おいで、と。
かなり強引だったかもしれない。でも、躊躇い続ける彼女をそこから引っ張り上げる方法を考えても、これしか思いつかなかった。
それを見る彼女はいつぞやの時と同様に目を丸くして驚く。そして、何かを思い出したかのような顔つきでほうっと一つ、長い息を吐くのだ。
その表情の意味する所が不可解で俺が首を傾げていると、今度は苦笑を浮かべながら、差し出した掌の上にそっと両手を乗せる。
「……もう。本当に武殿は強引ですね?」
そう言って、小さく、とても小さくだけれどもクスリと笑ってくれたのだった。
よくわからんが、気分を変えるのに多少の役には立ったのだろうか? だといいんだが。あとは、とりあえず人の少ない話せる場所に移動して、ゆっくりと話を聞いてみないとな。
彼女の手を取ったまま、陣を出て川の畔を目指す。朝食が済んで兵たちが陣を片すまでの時間を考えるとそうは悠長にしている訳にもいかない。この後、藤ヶ崎の館に向かわなくてはならないのだから。
辿り着いた場所はちょっとした河原だった。
そして、まるでそこに設えたかのようにあった手ごろな岩の上に並んで座り、彼女が口を開くのを待ってみた。
しかし、手を引き歩いていた時はいくらか気分も変わっていたようだったが、いざ話をする段階になると先程までの彼女に戻ってしまった。
まいったなあ。とは言え、ここはせっついてもいい結果は出そうにないしなあ。
そんな事を考えながら、目の前を走る流れに目をやる。
そこは然程の水深もなく、精々あって腰までの渓流だった。とても澄んだ水が流れの中に点在する岩にぶつかり、ささやかな飛沫をあげては流れに消えていく。川中、川縁関係なく沢山の岩や石が転がり、淀みとなっている部分には砂地も見えた。
また、対岸には俺達が座っているこちらの川縁とさほど変わりのない景色があり、開けた水際の少し向こうで、群生したススキのような植物が風に揺れている。
そして、その藪の中にぽっかりと穴が開いている場所を見つけて思う。ここは、もしかすると山の動物たちの水飲み場でもあるのかもしれないと。
そう思ってしまったのは、この川が俺たちの陣を支えてくれていた水源でもあったからかもしれない。
目の前を速すぎず遅すぎず過ぎ行く流れ。それが奏でる心地よい音と、土、そして水の匂い。そこにあるすべては、渇きを癒し、また一時の安らぎを供するものばかりであった。
しかし今その場では、与えられる安らぎを受け入れられぬ者が、出口の見えぬ情理の狭間を彷徨い続けていた。