第三十話 親思う心と親心 でござる その一
翌朝準備を整えた俺たちは陣を畳み、藤ヶ崎の館に向かう。
藤ヶ崎へ向かう道中、千賀は平じいに会えると無邪気に喜んでいた。たえ婆さんは終始苦りきった表情で視線を落としがちであったし、伝七郎や三人衆もその表情は晴れやかなものと言うには程遠かった。
そして、ここまでの旅路で定位置となっていた千賀の脇ではなく、少し離れたところを歩くお菊さん。
それとなく見ていると、今日も普段通りに振る舞おうと努力しているのはわかったが、いつもの彼女とは異なり歩幅が乱れがちだった。だから、ふとした拍子に遅れる。そして、その結果として、その位置を歩いていたのだった。あるいは普段通りに振る舞えぬ自分を千賀に見せたくなくて、無意識に避けたのかもしれない。
昨日、千賀との会談のあと俺は伝七郎と話し合った。そこで藤ヶ崎の館の中に入るのは千賀、婆さん、伝七郎、信吾、そして俺。その他に護衛十と決めていた。
しかし、今朝目を覚ました直後、丁度朝飯前の事だった。
……――鼻をくすぐる粥を炊く匂いに目が覚める。
今日の出来如何で俺らの命運が決まってしまうような大事な日ではあるが、一般的にはいつもと変わらぬ日常である。
早朝の陽当たりの浅い太陽。その為に未だ冷たい朝露に濡れた大地と、肌寒くも清々しい透き通った空気。
朝日の眩しさに耐えて眠気眼を無理やりに開けば、侍女の皆が朝飯を用意してくれている煙が幾筋も上がっており、時折風に乗って粥の匂いがやってきては、未だ明確に覚めぬ俺の胃袋をくすぐった。
ふぁ~。まだ頭がぼうっとするな。昨日寝つき悪かったしな。さすがに少し気が高ぶってたか。つか、ここんところ毛根の健康に悪そうなイベント目白押しだしな。やだぞ。俺は禿げたくない。
がりがりと頭頂辺りを掻いてみる。幸いうちは血統的禿ではない。しかし、毛根に酷い仕打ちをし続ければ後天的に禿げるかもしれない。今俺はそれが怖かった。
そして、周りを見渡す。近くで寝ていたはずの伝七郎や三人衆の姿が見えない。
昨日のあの様子じゃ、俺以上に安眠からは程遠かったはずだ。俺を信じる事にした伝七郎も、その伝七郎の決定を呑む事にした三人も、従ってくれるという事は信頼はしてくれているのだろうが、それでも不安なものは不安だろう。積み重ねた実績と、信頼を醸成した時間が少なすぎる。
我ながらかなり無茶をしたと思う。完全に力技で押し通った格好だ。でも、それだけに失敗はできない。よくよく考えてみれば、俺自分で自分の首絞めてばっかだな。己の性格が恨めしい。
そんな事を考えていれば、陣幕の向こうから奴らの声が聞こえてきた。全員いるようだ。近づいてきてるな。
「ああ。おはようございます、武殿。よく眠れましたか?」
しばらく待つと、奴らが陣幕の向こうから姿を現した。そして、起きた俺を最初に見つけた伝七郎が声を掛けてきた。
「ああ、おはよう。まあ、ぼちぼちな。おまえらこそ眠れたか?」
俺は関節をコキコキならしながら、固まった筋を伸ばしつつ、そう聞き返してみる。
「はは。まあ、それは。おかげで今朝は早起きですよ。三文得しますかね?」
「さあ、どうだろうな? まっ、今日ばかりはそんな端金ですまんくらい得を稼がにゃならん訳だが」
肩を竦めながら、滅入るふりをして大変だと零す。
「そうですね。頑張りましょう。そして、よろしくお願いします」
伝七郎はそんな俺を見て、くすりと微かに笑むと一つ頭を下げるのだった。
「ああ。任された」
やるしかないものな。それに言いだしっぺは俺だ。ケツはしっかり持つさ。
それにしても、ひょんな事から分かる事もある。伝七郎は何気なく言いおったが、どうやらこっちの通貨に文があるらしい。貨幣経済が存在するのはあの町を見れば想像できるというものだが、文かよ。どんな銭貨かはわからんが、とりあえず貨幣単位に文があるらしい。
伝七郎とのやり取りからそんな事を考えていると、残りの三人もそれぞれの言葉で挨拶をくれる。昨日の雰囲気では奴らも納得いかない所がある筈なのだが、それぞれがそれを呑みこんで、いつも通りに声を掛けてくれた。だから、俺もいつも通りに応える。
それは信頼だった。そして、俺にはその信頼に応える義務があった。
密かに改めて気合いを入れ直す──。いろんなものを背負っている責任もあるし、何より敗戦一つで退場する羽目になるような試合で負ける訳にはいかんのですよ。
逃げ道や回り道の分岐なんぞとっくの昔に通過している。後はもうまっすぐに道が続いているだけなのだ。
寝床としている本部の陣幕内でそんなやり取りをしていると、お菊さんが朝飯と湯を運んできてくれた。
「おはようございます。皆さんの食事をお持ちしました。こちらでよろしいですか?」
ただ、こう……動きやその表情にいつもの切れがなく、ゆるゆるとした動き、他事を考えてどこか上の空になっているような表情であった。
らしくない。彼女とて人間だから、そりゃあそういう日もあると言えば、それまでだが。なんかこう、それで片づけるにはしっくりこない違和感のようなものを覚えた。
しかし、その程度の事でなぜと尋ねる訳にもいかず、とりあえずは気づかなかった事にするしかなかった。だから。
「おっ。今朝の当番はお菊さんか。悪いね。今日もきれいだなー、はっはっはっ」
碗と櫃、それに湯が入っていると思われる土瓶をこちらに運び込んでくれているお菊さんにいつぞやと同じように軽い調子で声を掛ける。
そんな俺を置いて、三人衆は食事を運んできてくれた彼女を手伝うべく、それぞれ動き出した。
それにしても、我ながらうまくない。もう少し女と話すテクニックが欲しい。
こちらに来てからというもののやたらと怨敵イケメンとの遭遇率が高かった訳だが、こいつらが揃いも揃って残念なイケメンばかりというのはなんという運命の悪戯なのか。
タイプこそそれぞれが違えども、どれもこれも面の出来は半端ない。故に絶対こいつらはモテる筈である。しかし、話してみてわかったのは、どいつもこいつも女経験に乏しいという事だった。
それを知った時、「いつでもモテると思っているから無頓着なのかあっ」と激しく糾弾したくなった俺はいたって正常だと思う。しかし、如何に俺が吠えようとも、こいつらはベジタリアンなライオンなのだ。こういう時こそ、俺らのような十把一絡げの役に立つべき生き物のくせに全く頼りにならないとは、なんたる体たらくであろうか。
こうして、実践で経験値を上げる事は言うに及ばず、座学を積む事も絶たれた俺に成長の文字はなかった。真面目に考えると死にたくなってくるな。涙が止まらねぇ。
しかし、そんな俺の思考を嘲るように、お菊さんからも予想外の反応が返ってくる。
「ありがとうございます、武殿。武殿の分はこちらでよろしいですか?」
前回みたいに無視されるとは思わなかったが、これはこれで思いもよらぬ反応だった。
お菊さんは、やはりどこかぼうっとしたままだった。
手も動いているし、ぱっと見様子がおかしいようには見えない。しかし、これはおかしい。なんというか説明のできない違和感を感じるのだ。
そりゃ、彼女くらいの美貌を持っていれば、綺麗だ、美しいなどという言葉は聞き飽きているかもしれないが、なんというかここ数日話をして得た印象として、基本的に生真面目な彼女は生真面目な反応をする傾向が強い。前回のとき無視されたように。良くも悪くも反応がまっすぐだと思う。だから、多分彼女の本来の反応だと、ああ言った場合、人間関係が無視される領域を抜けれていれば、何かしら小言をもらうのではなかろうかと思うのだ。
だからであろうか。今のお菊さんを見ていると、心ここにあらずというか、うわの空というか、そのように感じてしまう。おそらく、その辺りが違和感の正体だと思うのだ。
んー。やはり、おかしい。踏み込むべきか踏み込まぬべきか、判断が難しい所だ。
そして、決める。
やはり、どうしても気になるわ。あまりにも、らしくなさすぎる。
「……お菊さん。どうかしたの?」
俺の前の碗に櫃から粥をよそってくれている彼女に尋ねた。静かに。怯えさせないように。
「………………」
お菊さんの動きが止まる。そして、そのまま沈黙する彼女。
それを見て、俺はそれ以上の言葉を重ねずに、彼女が口を開くのを待った。
しばらく待つと不意に俺の顔を見つめ、次に伝七郎の方を向く。でも、言葉が出てこない。何かを言い躊躇っているように見える。そして、視線を落とし再び固まった。
これは何がしかの切っ掛けがいるかもしれない。
そう思い検討しようとしたまさにその時、彼女はその胸にそっと握った右の拳を押し付けるようにしながら顔を上げた。
「私も藤ヶ崎の館に連れて行ってもらえませんか?」