第二十三話 藤ヶ崎へ でござる
「は、はい。勿論聞いておられます。はいっ」
変な言葉になってしまったが、なんとか反応する事には成功する。
やばい。正直、今俺は混乱している。流石にこれは想定外の展開だ。
「とにかく。もう貴方は伝七郎殿とともに新たな水島を導く立場なのですよ? 姫様は貴方を信用しきっておられます。姫様の信頼を得てしまった以上、それがあなたの水島での立場となります。その事を重々ご理解くださいませ」
へ? それはあまりにも一足飛びにすぎるのでは……。
いやいやそれ以前の話としてっ。先程の疑問も解決してないのに、新たな疑問を発生させないでもらえるととてもありがたいのですが。
俺の混乱は鰻上りだ。いや、鰻どころか、その様まさに昇竜のごとし。ほぼ垂直に昇っておりますっ。
今俺は自分がどんな顔をしているのか想像がつかない。額にじわりと浮き上がる汗が秋風に曝され、ただ冷たく感じるのみである。
というか、まだ俺の正式な立場は決まってない筈。せいぜいがあの会談を経て、客将の立場を手に入れただけだ。
千賀より委任された形になる総大将は伝七郎であり、その補佐という形で参戦したのは間違いない。そう名乗れる力があるとも思えんが、敢えて言うなら、参謀もしくは軍師の立場で参戦した事になるだろう。
だが、それは成り行きであって、決して正式な立場ではなかった。
当然この話もお菊さんの言葉であって、千賀の言葉ではない以上正式なものではない。
しかし、俺が見る限り、お菊さんは千賀お付きの侍女たちの中でもかなり千賀に近い位置にいる侍女だ。侍女頭は婆さんだろうが。
つまり、話に信憑性がまったくないなどと言う事はなく、相当以上に重みのある話という事になる。
という事は、だ。
ああ、やっぱりやりすぎたのだ。
身の丈に合った、お気楽で程ほどに幸せな異世界ライフよ、さようなら。こんにちは、重責と苦労と過労の日々。
おまんまと寝る場所はあるが、血生臭い上に、決して降ろす事のできない荷を担ぎ続けなくてはならない組織の重鎮。それを断ったところで、寝る場所もなければ、食い物を手に入れるのも死ぬ程苦労するだろう放浪生活。選択肢などあってないようなものだ。
この頭の中にある無駄であった筈の知識をフル活用すれば、あるいは普通の暮らしを送りながら稼げるようになる可能性くらいはある。
しかし、これには条件が付く。
ここはおそらく、何をやるにも力、この場合は明確に権力の力が必要になる世界の筈だ。話を聞く限りにおいて、少なくともここら近辺の体制は封建制っぽい。あるいはそれに近い何か。となれば、まず間違いなく専制政治万歳だろう。
このような世界にて誰かの統治下で何かをやるという事は、何をやるにせよその誰かに媚びへつらわねばなるまい。それをしないで何かをするのは不可能な筈。賊でもやるなら話は別だが、こんな脳筋野郎ばかりの世界でそれをやる程の力はない。無理やりやった所で寿命を縮めるだけだ。
となると、まっとうに生きるしかない訳だが、そうするには金を稼ぎ出すまでの食糧が最低限必要になる。更に言うなら金を稼ぐ為に原資もいる。
放浪者を選択すると、ただ日々を生きるというだけでも難易度が一気に跳ね上がってしまうのは明らかだ。なんせ、その権力者に話をつけるにしても伝手がない。当面の金もなければ、食料もない。住む場所もなければ泣きつく親もいないのないないづくしのないづくしだ。
そんな何の基盤もない俺がこういう世界で生きるのに、縁を無視するというのは自殺行為である。比喩ではなく文字通り本当に死ぬ事になるだろう。
「あ、あはは、あは、あは……」
「ん、もうっ。先程からどうしたというのです、武殿っ。呆けてないで真面目に話を聞いてくださいっ!」
くう。あの異世界トリップシミュレーションに費やした日々はなんだったのだ。千回を越えようかという予行演習も済ませていたというのに、なんたる不甲斐なさよ。
お菊さんはその後もいろいろと俺に説教をしていたようだが、正直何も耳に入ってはこなかった。
可愛い恋人を見つけて、食うに困らない程度に仕事して、グータラで幸せな退廃的異世界ライフを送りたかったのだが、その願いはあっさり絶たれてしまった。かくなる上は可愛い恋人だけでも死守してやるっ。
誓いを新たに頑張ろうと思う。
これは俺的に新たな旅立ちの瞬間だったのです。しかし、気が付いた時には頬を膨らませて怒っているお菊さんが目の前におられました。まずい。完全にほったらかした。
思考の海に旅立つ度に何度も注意をされて、現実世界に連れ戻されてたのでその辺りが原因かと思われます。いや、俺も悪気があってやっていた訳ではないんですよ?
ただ、その仕草が少し可愛かったなというのは秘密です。うっかり口を滑らそうものなら、延長戦間違いなしです。
「まったくもう。本当に仕方のない人。私は仕事がありますのでもう行きます。これからはきちんとして下さい。良いですね?」
溜息を一つ吐くと、お菊さんはそう言い残して、陣の方へと一人帰っていった。
そして、その後ろ姿を眺めながら、俺は自分が何をしに来たのか思い出す。
──スーパーセクハラタイムの件……、結局どうなったんだ?
「おっかえりなさいませー。武様。どうでした?」
セクハラがうやむやになって、まったく予想だにしなかった罪状でお説教をされた俺は、いまいち腑に落ちぬこの一連の話に頭を捻りながら陣へと戻ってきた訳だが……。今回の話をややこしくした張本人が、とてもいい笑顔で迎えてくれました。
「……与平。そこに直れ。貴様、わかっていてやったな?」
「えー? 何の事です?」
与平の奴はしれっとした顔ですっとぼけやがりましたよ? その面に貼りついている厭らしい笑いがすべてを白状しておるわっ。
「とぼけるなよっ。お菊さんが大して怒ってなかったの、知ってて煽っただろっ」
「そんな事ありませんよ? 間違いなく武様は、酒を注ぎに来てくれたお菊さんに抱きついて、口づけしようとして張り倒されてましたよ? お菊さん、顔赤くして咳払いなんかしてましたし」
与平の奴は心外だと言わんばかりに、己の正当性を主張する。
だったら、そのニヤついた顔はなんだ? 説明しやがれっ!
……ちっ。まあいい。よくないがいい。となると、俺が怒られなかった理由がやはり分からん。いや、怒られはしたが、あれは怒られたうちに入らんだろう。大半が別件だったような気がする。
与平はその厭らしい笑いを浮かべたまま、座るよう勧めてきた。隣で源太が俺の分の湯を碗に入れてくれている。
「まあまあ、武殿。無事菊殿には謝れたのでしょう? だったら、よろしいじゃございませんか」
信吾もこちらは苦笑いを浮かべながら、尻をずらして俺の為に場所を開けてくれた。
源太から湯が注がれた碗を受け取りつつ、とりあえずそこに座って碗に口をつける。石が積まれて作られてる簡易的な竈で沸かした湯だ。焚き火の煙が時々こちらに流れてきて、夏場に川のほとりでやったキャンプを思い出す。
今少し心穏やかであったならば、それなりに楽しめただろうなっ。こいつら、絶対わかってて俺を嗾けただろう。
疑念がどうしても晴れない。
「武殿。昨晩菊殿に抱きついて口付しようとしたんですって? 駄目ですよ? 強引なのは。きちんと相手の了承をとらないと」
そして、事の顛末を与平らから聞いたらしい伝七郎が、なんとも平和な忠言をしてくれる。
おう。それには全面同意だがな? 今はそういう話じゃねぇんだよ。つか、お前もこの軍の総大将だったら、風紀を乱すような真似しでかした俺にもっとビシッと言わんかいっ。……藪蛇になりそうだから言わないけどなっ。
なんかこいつらの反応見ていると自分の感性がおかしいかのような錯覚に陥りそうになる。
つか、一番の原因はお菊さんだよねー。もうちょっと真面目に怒ってくれたら、こんな風には感じはしなかっただろうがなあ。いや、軽く済んだのだから、いいのはいいんだけどね。あまりに予想外の反応だったので、未だに思考の混乱が収まらん。
もういい。済んだ事にしとこう。それがおそらく、きっと、多分正しいのだ。
「わかった。もういい。んで、そろそろ出発か?」
「ええ。そろそろ陣を畳んで出発します。あちらに向かいつつ、もしもの時は改めて考えましょう。いずれにしろ、藤ヶ崎方面と逆は危険すぎます。あちらは完全に継直の手に落ちてますから」
伝七郎は、今度は先程とは異なるきりっとした軍の最高責任者の顔つきでそう答える。
「どのみち今の俺らに安全な場所などない……か。この場に留まるなど論外、と。とは言え、むやみに動いて水、食料が入手できなくなるのも問題……。そして、今ある食料もさほどに余裕はない、か。きついな、やはり。とりあえずは移動しつつ偵察の情報を待つしかないか。もし藤ヶ崎が落ちてたら、いよいよ厳しくなるなあ」
伝七郎の言葉とこれまで皆と会話をしてきた内容を思い出しながら、そう口にする。
他の三人も先程の緩い雰囲気からがらりと気配を変えて、俺と伝七郎の会話を黙って聞いている。炎の周りで寛いでいるように周りからは見えるだろうが、今の奴らは紛う事なく将としてそこにいた。
「まっ、今は考えてもどうにもならんな。主人は当然として、率いる者たちも無駄死にさせないよう可能な限りの情報を確定させておくのは基本だ。しかし、今回ばかりは良いも悪いもない。落ちてない事を祈るしかない。落ちてたとしたら、敵の数次第ではその場で取り返す方向で考えるしかあるまいよ。さすがに根無し草のままでは軍を維持できない」
「ですね」
伝七郎はそう短く締める。奴はすでにその事を念頭に置いていたようだ。改めて検討した雰囲気さえなかった。
残る三人もその言葉に動じる事なく、俺と伝七郎の交わす方針の確認を静かに腹の底に落し込んでいるようだった。
「よしっ。じゃあ、動くかね? 俺らの未来を切り開く為に」
「ええ。参りましょうか」
「「「はっ」」」
各々が気を引き締め直して、立ち上がる。
目指すは南東。我らが背水の地、藤ヶ崎──。