第三百二十一話 幕 宇和一成(一) 二水の戦い その五
「このまま進めば殺されるぞっ! 私の指示に従えっ!」
陣を離れる前に、右往左往と逃げ惑う兵たちを大喝する。
だが、誰一人私の言葉に耳を傾ける者はいない。それどころではないとばかりに、ただひたすらに橙と黒の饗宴……いや狂宴とでも言うべきか……その中で踊っている。
風はより冷たく、より強くなってきていた。しかし、真っ黒な煙をあたりに吐き散らす炎の柱があちこちに立ち上り、それは風の中の雪を溶かし、黒い水となってぶつかってくる。
不快だ。甚だ不快だ。泥でも拭きかけられたかのように顔が体が汚れていく。
そして、それ以上に苛立たしい。
「私の言葉を聞けっ! この馬鹿どもがっっ!!」
牛馬にも劣る愚かな兵たちに、小賢しい神森武に、そして、そんな小者に背を向けなくてはならない今の状態に――そのすべてに苛立ちが募る。
頭がどうにかなってしまいそうだ。
なぜ、私がこのような目に遭わねばならぬのか。せめて、もう少し使える者を連れてくるべきだった。津田を落とし、徳田・三浦の同盟軍と戦わねばならなくなり、連戦に続く連戦となったツケだ。兵の質が著しく落ちている。津田を攻めた段階では、もう少しマシだったはずだ。
もう、よい。
愚か者をこれ以上構っている暇はない。こんな阿呆どもと心中するなど笑い話にもならぬ。かくなる上は、此奴らを盾になんとしても津々見の町まで逃げおおせるのみだ。私が残っていれば、あとはなんとでもなる。
崖の上に注意を払いながら、来た道を戻る。馬鹿どもも我先にと駆けていく。私は馬の足を落としながら、その流れに付いていくだけでよい。罠があれば、この阿呆どもが先に掛かる。だが、上から矢にでも狙い撃ちにされたら堪らない。それに注意をしなくては。
細心の注意を払って、来た道を戻る。
罠があるかと思ったが、いつまで経ってもそれらしきものに当たらない。考えることを捨て全力で逃げ戻っている兵たちが、良い的にされている様子もない。もし罠にはまっているなら、先走った馬鹿どもが大騒ぎしていないはずがないのだが、そんな怒号も聞こえてこない。
神森武……いったい何を考えている……。
奴が何を考えているのかが分からない。まさか、あの襲撃で終わりだったのか……? いや、そんな訳がない。
多くの兵が走ったせいか、山道はぬかるんでいた。馬も歩きにくそうに一歩、また一歩と私の指示に従い歩を進める。
馬でさえ言うことを聞くというのに……。
そんな思いで腹の中がいっぱいになっていった。
だが、怒りで我を忘れるなど愚か者の極みだ。体勢を立て直せば、このような辱めを与えてくれた神森武に借りを返すこともできる。今は耐えるときだ。
後方の馬鹿騒ぎなど知らぬとばかりに、夜の山道は静かになっていく。多くの兵たちが全力で駆けていった。その声が少し遠くから聞こえてくる。今では、まだ周りに残っている兵たちはだいぶ少なくなっていた。怪我でもしているか、早く走れぬ者たちが歩いているだけだ。
……もう此奴らにかける言葉などないが。
せいぜい、私が逃げおおせるための的になってくれれば良い。
先頭付近に兵たちの多くが固まっているはずだ。そこからまばらになり、私が歩いているあたりとなる。あとは最後方の八木と井上。位置的にはこのあたりが一番安全なはずだ。
また風が冷たくなってきている。もしかすると吹雪くかもしれない。そういった意味でも余り悠長なことはしていられないが。
山道を歩いて行く。
すると、前を走っていた兵たちのざわつく声が大きくなってきた。
何事だ……。
だが、今更どうにもならない。周囲を警戒しながら進んでいく。
不意撃ちを警戒していた道脇の崖がなくなり、いよいよ山道の出口に差し掛かったところで信じられない物を目にする事になった。
「……馬鹿な」
山道の入り口だったちょっとした野原であったはずの場所に、無数の氷柱が立っていた。高さは家の屋根ほどで、一本一本が一抱えに出来ぬほどに太い。そんな太い氷の柱が、雪原の中に数えられぬほど立っている。
「お、おい……なんだよ、これは」
「知らん。こんなものなんかなかったじゃないか」
先を走った兵たちが顔を引き攣らせながら、そんなことを口にしていた。
神森武かっ。
やはり、何も仕掛けていない訳がなかったのだ。
兵たちは逃げる足を止めて、互いの顔を見合わせながらああでもないこうでもないと意味のないことを口にし合っている。
ふん……。逃げるなと言っても聞く耳を持たなかった者たちがな。皮肉なものだ。
今なら、此奴らに言うことを聞かせることも出来るだろう。
だが……その前に、だ。
目の前の乱立する氷の柱に目をやる。
いや……違うな。乱立ではない。整然と並んでいる。
おおよそではあるものの、柱は規則的に並んでいる。正面はしばらくまっすぐに道が作られている。その道の左右は人が十分に通り抜けられるほどに幅があるが、真ん中の道と比べるとずっと狭い間隔で氷柱が立てられている。真ん中の道を進めば少し先に歩みを塞ぐように立つ氷の柱が見えるが、それも横を通れぬほどではない。それにその柱の脇に、そこまでの道幅とほぼ変わらない広さの道が更に奥へと続いているのも見える。
なるほどな……。
この広い道を通らせ、そこを強襲しよう……と見せかけた罠だな。神楽の者たちを伏せたり、非常識にも夜中に陣を強襲してきたりした神森武の考えそうなことだ。
「お前ら――――」
此奴らを動かすべく、号令をかけようとしたときだった。
「こんなの関係ねぇだっ!」
兵の中の一人が、緊張に耐えかねたのか自棄になったように叫んだ。
そして、その男が目の前に続く道を走り始める。
すると、それまで困惑していた他の者たちも、それぞれがそれぞれに勝手な行動を取り始めた。
走り始めた男に続く者。目の前の道ではなく、道脇に立ち並ぶ氷柱の林の中を縫うように走り始める者。考えることを放棄した馬鹿どもが思い思いに勝手なことを再びし始める。
「待て! 私の話を聞かんかあっ!!」
大喝するも、それに応える者は一人もいなかった。否、そもそも誰一人私の方を見てすらいない。
くっ、此奴ら……。後で見ておれ。まとめて処分してくれる。
再び腸が煮えくりかえる。しかし、今はどうする事も出来なかった。
そんなとき、氷柱の林の中から恐怖に塗れた叫び声、そして断末魔が聞こえてきた。
『し、忍び?!』
『ひぃぃぃっ、た、助けてくれぇぇ!!』
『ぎゃああああああああぁっっ!!』
それ見たことか。馬鹿どもに相応しい末路だ。私の命に従っておれば、無駄に命を落とさなかったものを。いや、そもそもこの様な馬鹿が生きている事自体が無駄か。手足にすらならぬ者などいても仕方がない。
どうやら脇の林の中には神楽が潜んでいるらしい。となると、陣を襲ったのは三森だな。となれば、前方はやはり手薄だ。いても少数のはず。
であれば、やはりこの馬鹿どもを盾にすれば逃げおおせる。
そう確信できた。耳障りな馬鹿の末路の声を耳にしながら正面の道へと歩を進めていく。
……妙だ。
途中なんども道を氷柱に阻まれたが、阻まれると少し離れた所に更に奥へと続く道が作られていた。そして、心なしか林立する氷柱の幅が狭くなっていっているような気がする。ただ、蛇行するように続く『通るべき道は』広く目の前にあった。
おかしい……。絶対にこれはおかしい。
だが、もう後戻りは出来ない。後方には『盾』がいない。もし、いや……十中八九後方から詰めてきているだろう陣を襲った三森に出くわす可能性が高い。
ごりりと歯が鳴った。
その時、道の先も騒がしくなった。こちらでも悲鳴のような声が上がったのだ。
……おのれ。
進むも地獄、退くも地獄か。なんという嫌らしい真似を……。
ただ、剣戟の音は聞こえてこない。
進むしかないか……。
意を決して、馬に脚を入れる。それまで意図的に進む速度を落としていたが、馬が走り出せばその騒ぎの場まではすぐに到達できた。
先に進んだ者たちは氷柱の林を抜けた場所にいた。
それまでの氷柱に囲まれた場所を抜け、小さな円形の広場となっていた。
ただ……それは、明らかによからぬ意図を持って作られた場所だった。
まだ、広くは氷の柱に囲まれている。
二重の円を描くように氷柱で囲まれた場所。正面を起点に、まるで三等分するように出口が設けられている。そんな場所がなんの意図もなく設けられているわけがない。
場所自体はちょっとした広場のようなものだ。だが、敵とこちら……両軍の兵をすべて入れて戦っても余りある広さがある。
入り口を含めて全体を上から見ると、この氷の林はまるで鍵穴のような形状になっているのか……。
ここまで来て、やっと神森武のやりたいことが見えてきた。
背筋に冷たい物が流れる。
まずい……。これはまずい。完全にやられた。奴の目的は、我らをここに集めること。私たちは、いま完全に奴の術中に嵌っている。
そして、術中に嵌っているということは、ここで何も起こらぬはずがないということだ……。
兵たちは、今度こそ完全に恐慌に陥っている。背中で仲間の悲鳴が響き渡る中、度重なる理解しがたい経験をさせられ、治めきれぬ恐怖に感情を落ち着かせる術を持っていない。ただ顔を引き攣らせ、ガタガタと体を震わせ立ち竦んでしまっている。
まずい……。これでは、盾の役割すらこなせぬ。なんとかせねば。
「落ち着けっっ! まだ、こちらは十分な数がいるのだ。私の命に従えば、まだ戦える!!」
必死で活を入れる。
だが……、もう遅かった。私の声は、またしてもただ空しく雪舞う冬の寒空に消えていく……。
そんな中、円形の広場の三つの出口で狼煙が上がった。暗闇の中、うっすらと輝く炎に照らされ、三筋の煙が雪含む冷たい風の中を棚引いている。
来る……ッ。
「敵が来るぞッッ。馬鹿みたく固まっていないで、さっさと固まれッッ!!」
必死で声を上げた。そして、それはようやく愚かな兵たちの耳に届いた。兵たちは揃ってハッとしたような顔をして動き始める。一所に固まるように動き始めた。
よし。結果として、勝手な動きをする兵たちを一塊に出来た。これなら、数の利でまだなんとかなる。少なくとも、私がこの場を切り抜ける隙くらいは作れるだろう。あわよくば、こちらに襲いかかって来た神森武の軍を返り討ちに出来るかもしれない。
「よし、そのまま私の指示に従うんだ。そうすれば、この危機を脱することが出来る。生き残れるぞ!」
そんな甘い餌をぶら下げてやる。此奴らは、生き残ってもすべて処分する。このような者らは使い物にならない。だが、いまはそんな『モノ』でも使いこなさなければならない。
生き残るためにと、声を枯らして指示をし続ける。そのうち、なんとか『型』をつくる。兵の配置を揃え、神森武の攻撃に備える。
すると、三方の出口のあたりで多くの何かが雪の大地を踏みしめる音が聞こえた。馬に乗った武者たちだった。一騎また一騎とその影の数は増え、それらが氷の柱で区切られた大円と小さな円の間をぐるぐると回り始めた。
兵たちに再び動揺が走る。
「静まれ! 静まれぇっっ! ここで動揺すれば、敵の思うつぼだぞっっ!!」
必死で声を上げた。兵たちも、もう考えることが出来なくなっているのか、それとも考えることを放棄しているのか、恐怖に顔を引き攣らせつつも私の命に従って、周囲を巡りつづける敵騎馬から距離をとるように、よりいっそう密に固まっていった。
こちらは、広場の中央で敵の突撃に備える。
ぐるぐると回る敵騎馬。その足を徐々に速めつつ、回り続けている。
こうなったら、我慢比べだ。仕掛けた方が痛い目を見る。いまは、ただ耐えねばならない。
しかし、それは長く続かなかった。
こちらが広場の中央で、騎馬が襲いかかってくるのを待ち構えていたら、周りを巡っていた騎馬は再び三方の出口へと消えていった。
なんだ……どういうことだ??
訳が分からない。だが……、嫌な予感はさらに強くなっていく。
気持ち悪かった。
だが、すぐにそんな時間も終わる。
正面出口に、一つの白い影が立ったからだ。
烏帽子に白衣……白の狩衣。手に笏も持っている。
戦場に神主?? 場違いにも程がある。
だが、間違いなくそこにその男は立っていた。そして、たった一人でこちらに近づいてくる。
まだ、だいぶ距離はある。しかし、その男の顔には見覚えがあった。
神森武だ。