第三百十八話 二水の戦い その五 でござる
氷塊の前で、俺と大して歳の変わらなそうな男と、四十近い男がこちらを見上げている。若い方は宇和一成……かつて、伝七郎と共に若き俊英として千賀の父親に推挙された男。もう片方はよく知らないが、現在の宇和の配下だろう。
だが……黙って様子を見ていたら、宇和一成に怯え、宇和一成の顔色を必死で窺っていた。
情けない……。
おっさんの方じゃない。宇和一成がだ。
これが伝七郎と比べられた男かと思うと、何でか知らんが腹が立ってきた。本当は涼しい顔をして、奴のこの『急所』をサクッとついて片付けるだけのつもりだったのに……。演技と言い切れない素の感情がにじみ出ているのが自分でも分かる。
未熟。
頭では理解できている。でも……。たぶん、俺は次もやってしまうのだろう。俺も……要修行だ。
だが……、勝ちはもらい受ける。
「神森武かッ」
「いかにも神森武だ」
陰険そうな顔を怒りで歪めながら怒鳴る宇和一成に、哀れむような視線を向けてやる。ちょうどよいことに、こちらは崖の上だ。奴は、その視線を見上げる形で受ける事になる。
案の定、怒鳴り散らしたいのを必死で抑えているのがはっきりと伝わってきた。
いい感じで刺激できている。
視線は俺を射殺さんばかりに鋭くなっており、口元もわなわなと震えている。なんとか体裁を保っているが、歯牙にもかけていなかった俺に伝七郎の名前を出されて見下ろされたのは、奴にとって最大級の屈辱だったようだ。
随分と安っすいプライドだことで……。
殻を破ってみせた伝七郎を横で見ていた俺には、千賀の親父さんがこいつを評価しなかった理由がはっきりと分かった。
宇和一成は、その胸の内をはっきりと伝えてくれる視線はそのままに、無理やり冷静さを装った声音で俺を煽りにきた。
「……ふぅ。さようか。で、戦うのか。それなら受けて立ってやるぞ。さっさと降りてくるがいい。私自ら相手をしてやろうではないか」
「ははは。馬鹿を言うなよ。なんで、こちらから行かねばならんのだ。無理やり押しかけてきたのはそちらだ。待っていてやるから、さっさと上ってきな。それとも怖いか? 三下」
俺がそう言った瞬間、奴はとうとう我慢の限界を超えたのか顔を引き攣らせた。
「……口の利き方に気をつけろ、成り上がり者が。少々のツキに恵まれただけの小者が身の程を弁えるがいい」
「ご託はいいよ。さっさと掛かってきな。それとも何か? そのツキだけの男が怖いのか? 本物のすごさって奴を是非俺に見せてくれよ。少なくとも伝七郎の奴は見せてくれたぞ。さて、お前はどうだろうな」
わざと鼻で一つ笑い、小馬鹿にするような表情を作って煽り返してやる。この言葉とその表情は、目の前の男には効果覿面だった。
怒りだろう。いや、憤怒というものなのかもしれない。宇和一成の顔が赤から白になった。侮っているのがありありと出ていた表情が一転無表情となり、目が据わった。
かかった。
確信する。これで奴は、もっとも残忍な方法で俺を殺すことに拘るだろう。それを達成するために、俺に向かってくる……それが死へと続く螺旋回廊の入り口だとも知らずに。
こいつは知らない。
己の何が伝七郎に及ばないのか。
だから、己とあいつを見比べて、己の不遇を不当と怒る。ちょっと見る人間が見れば一目瞭然なのだが、そんなものなど顧みようともしない。
だから……、簡単に操れる。
知識? 知恵?
そんなものじゃあない。そんな程度のものなら、まだ救いようがある。こいつは知識も知恵も、決して伝七郎に劣ってはいないのだろう。むろん、俺などよりは遥かに優れているに違いない。
でも……、こいつは伝七郎はおろか、俺にも決して勝てない。
知識など覚えればいいだけだ。知恵など、ケツに火が付けば某か出てくる。そんなものに頼るだけなら、同じ土俵に立つ者には先を読むことなど簡単なのだ。それこそ、始めて出会ったときの太助たちよりも容易に動きが予想できる。
宇和一成……お前が伝七郎に及ばないもの……。それは人としての『器』。『格』だよ。
ガラスの天才では、本物の天才には勝てないんだ。
ましてお前では、凡人の俺にも勝てない。小さな器に盛られた塩など、どれほど盛ろうがコップ一杯の水で簡単に溶けてなくなるのだから。
「……言ったな。作業など後回しだ! 井上! 全軍に準備させろ!」
「は、ははっ!」
取り繕っていた感情をもう隠しもしないで、宇和一成は命を下す。どうやら、今以て偽兵はばれていないらしい。さすがにもしバレていたら、もう少し用心されただろう。
「おお、怖い。では、こちらも準備をして待つとしよう。名将の指揮の冴えって奴を、是非見せてくれることを期待する。では、『良い』戦いになることを楽しみにしている」
「減らず口を……」
崖の上で背を見せた俺に、そんな奴の最後の言葉が投げつけられた。
「武様。では、こちらもご指示の通りに」
万が一に備えて、俺のすぐ側で黙って目を光らせていた敦信が声を掛けてくる。
「ああ。頼む。ああは言ったが、敵の方が数が多いし、奴も伝七郎と比べられた人間……決して凡将ではないはずだ。相応の対応をしてはくる。こちらは、ここを耐えきらねばならない。耐えきってこそ、勝てる。そこは……口惜しいがお前たちの働きに頼るしかない。すまないが、耐えきってくれ」
先ほど崖下の宇和一成と話していたときの声とは違って、小声で応じた。
すると敦信は、ああ確かにこいつは三森の大将なんだなと思わせる凶悪な笑みを初めて見せた。
「……何を仰いますか。この様な戦で武様の下で戦える……そのような栄誉を与えられたこと、我らは感謝しております。お心を痛めることなど、何一つありません。我らも……そして神楽の者たちも、思うことは一つ。武様の御前には鼠の子一匹現れることすらないでしょう」