第三百十七話 幕 宇和一成(一) 二水の戦い その三
仕掛けては来なかったか。
途中に、奇襲を掛けられそうな場所はいくらでもあった。
林に崖……。奴の少ない兵では、こちらとぶつかる前に少しでも減らしておかねば勝ちの目はないだろうに。奴は、一体何を考えている……。
こちらが進軍速度を落としたのを見て、臆したのか……。
愚かな。
どう警戒しようとも、本格的にぶつかる前に我らの数を減らしておかなければ、守りに徹しても抑えきることなど難しかろうに。
もっとも、泉を惟春のもとにやったから、それも難しかっただろうがな。神森武がこちらに現れたのには少々驚かされたが、伝七郎の奴めが相手だと思えば、あり得ぬと言うほどのこともない。まあ、分かったところで、どうすることもできないようにするのが知恵というものだがな。
伝七郎よ。口惜しかろう。だが、それが私とお前の差だ。
初戦こそ兵を失ったが、まだこちらは二千強の兵がいる。敵方は五、六百といったところか。我らの進軍を読んだのは褒めてやってもいい。だが、その程度の数では焼け石に水だ。もっとも、それ以上は回せなかったのだろうがな。伝七郎の奴めが出張ってきていないことからも、それが窺い知れるというものだ。先に八百。本隊に千二百。どちらでも二水を占拠するには十分な数だ。
そして二水をとれば、継直様は藤ヶ崎を攻めるための足がかりを得ることになる。北の砦を落とされて、周辺の村落を奪われたのは痛かったが、これによりようやく体勢を整え直すことが出来るだろう。
そして、それを成した私の評価も更に上がる。結果として、北の砦を落とされたのは、私にとってはよい流れだったと言えるだろうな。
「……フッ」
思わず笑いが漏れた。
あとは……。
崖の谷間を抜け、横を流れていた小川を渡り、再び山の裾を回り込む道を進む。ここ数日の冷え込みのせいか、細かい雪が風に舞い遠見がきかなくなってきているが、むしろ、これは私の勝利をより確実にしてくれる。天も私に勝てと言っているようだ。
あの者たちも喜ぶだろう。能がなくとも、私の兵であったおかげで勝ち戦の勇者となれる。
道中に先に出した者たちの骸が転がっていた。柿屋と増援は去り、人馬の骸と折れた旗のみが残されていた。
力任せの戦で敗れたらしく、殴打されたか鎧や兜ごと骨を砕かれている者、馬もろとも太い杭で串刺しになっている者がほとんどだった。槍に突かれたというのであれば、まだ分かる。だが、杭に突かれるなど……。冷静さを失い混乱などしなければ、あのような事態にはならなかったはずだ。
まあ、それでも敵を知れたのは僥倖だ。その程度には役だったと言えなくもない。
二水の町まで、あと一里と半分といったところか。
流石に、そろそろ某かの動きがあっても良い頃だが……。それとも、神森武は二水の町での決戦を望んでいるのか。いや、仮にもあの伝七郎が拾った男だ。そこまで能なしとは思えないが……。
「宇和様。先鋒の井上様より伝令にございます!」
ようやくか。
「うむ」
「村へと続く道が氷の壁に閉ざされているそうです!」
「何を馬鹿な……。砕くなり、どかすなりしろ。そんな下らぬ報告などしてくるなと伝えろ!」
「いや……それが」
「なんだ。まだ他にあるのか!」
「は……はっ。それが、その氷の塊が尋常ではない大きさであるらしく、家二軒分ほどの高さがあるとか。それが横たわり、町へと続く道を完全に閉じてしまっているそうです。横は片方は岩壁、もう片方は御神川へと流れ込む支流が流れておりますれば、その作業にしばらくの時間が掛かるとのことにございます」
なんだと……。家二軒分?
……ちぃ。この辺りはまだ横が雑木林だが、回り込めぬ岩壁になるところを選んだというわけか。本当に小賢しい。いい加減、付き合うのも疲れてくる。
「……もういい。我々もこのまま進む。井上には、そのまま作業を続けろと伝えろ」
「はっ」
ただの時間稼ぎということもあるまい。まあ、どんな小細工を弄しようと徒労に終わる。数の力には勝てはしない。小勢が多勢に勝てる戦には、運と敵将の無能が不可欠。お前にはどちらも与えられてはいない。
さあ、せいぜい足掻くがいい。そして、絶望しろ。
伝七郎のいないこの戦では、そのぐらいしか楽しみはない。本命は、美和の伝七郎よ。奴は、この私自ら打ち破らねばならない。どちらが優れているのかを天下に知らしめてくれる。
……なんだ、これは。
氷の塊。
確かにこれは、氷の壁と呼ぶしかない代物だろう。すぐ脇を川が流れる二水への道を、藁と土交じりの巨大な氷の塊が閉ざしている。
川の水を使ったのか……。
報告通りに家二軒分ほどの高さがあり、完全に道を塞いでしまっている。
面倒な真似を……。
ガンッ。
目の前の氷を思い切り蹴る。存外硬い。
泥で土台を作って凍らせ藁を積み、そこに水を掛けてここまでの塊に育てたのか。
本当に小賢しい真似をする。
だが、所詮はそこまでだ。これでは時間稼ぎにしかならん。
「……足軽どもを使って砕かせろ。人数を掛ければ、数刻もあればできるだろう。私は後方に下がる。作業が完了したら報告しろ」
後ろで控えていた井上吉右衛門に命ずる。やってきた私の顔色を窺うように見ていたこの男は、ほっとしたような安堵の表情を浮かべた。
しかし、その時崖の上から聞き慣れない声が掛けられた。
「いやあ、それは困るなあ」
軽薄そうな声音だった。
否、それ以前に誰に物を言っている。
「何者だ!」
崖の上を見上げる。
「お前の喧嘩相手だよ。伝七郎と比べられたと言うから、どんな奴かと思って見に来てみれば、比べられた伝七郎が可哀想になるような男でがっかりだよ」
神森武かっ。
崖の上には、伝七郎や私と大して年の変わらぬ男が立っていた。ただ甲冑ではなく、胴丸ひとつの軽装で兜も被っていない。耳に掛かる程度の長髪と腰まである異常に長い白の鉢巻きを風に棚引かせながら、こちらを見下ろしていた。




