第三百九話 幕 伝七郎(六) 白の館攻略戦 その一
武殿が発たれて二日……。
なんとかなるだろうか。武殿はなんとかすると笑っていたが、今回ばかりは笑みを作っているのがはっきりと分かった。
無理もない。今回の状況は厳し過ぎる。しかし……。
もし今の状況を覆せる者がいるとすれば、それは武殿しかいない。断言できる。
ただ……武殿の負担が増えてばかりで、面目ないどころではない。
あの人は、それでもいつも大丈夫だと言う。厳しいときほど笑ってみせる。
本当にあの人は、背の荷物が増えることを厭わないから……。
怠けていたいんだと口癖のように言う。その癖に、本当に厳しいときには誰よりも背負い込んで歩こうとする……今回のように。
不甲斐ないことこの上ない。もっと分かち合えるように精進せねば、あの人だっていつかは限界を迎えてしまう。
少なくとも、ここまで力を削いでもらった惟春『ごとき』に後れをとることなど許される訳がない。いや、私が許せない。
この白亜の館くらいは絶対に落としてみせる。せめてそのぐらいはしてみせる。さもなくば、あの人に向ける顔がない。
そう心に決めると、目の前に立ちはだかる白い壁がなぜか幾分低く見えてきた。明日、最後の米を打ち込む。その為の準備はもうできている。
「さて……、これで動いてくれればいいのだが……」
武殿は、二度目か三度目で惟春の兵たちは我慢できなくなるだろうと言っていた。惟春では、それ以上には兵たちを抑えられはしないだろうと。
だが、二度目の米を打ち込んでも館内の変化は見られなかった。
我々を警戒する敵兵は日に日に憔悴していっている。それは間違いない。半次殿の報告でもそう言っていたし、そもそも今となっては私が遠目に見ただけでも、はっきりとそれが分かる程だ。
武殿の策は確実に惟春らを蝕んでいっている。そこまでは計画通りと言えるだろう。
だが問題は、予想外に惟春が兵を抑えられていることだ。とは言え、それもそろそろ限界だろう。もう長くは保つまい。
「伝七郎様。少々よろしいでしょうか?」
自分の天幕で沸き起こる焦燥感と戦っていると、外から声をかけられた。
「信吾ですか。入って下さい」
「失礼します」
天幕の入り口の布が持ち上げられた。
それと同時に冷たい風が天幕の中へと吹き込んできた。その冷たい風が油皿の明かりにキラキラと細かい光を放つ。中へと入ってきた信吾の頭も、かすかに濡れていた。
「雪が降ってきたのですか?」
「はい。陽が落ちたくらいから降り始めました」
「暦の上ではもう春ですが、まだまだ冬ですね」
「この辺りは土地柄春の訪れは遅いですしね」
髪の生え際辺りに手をやり拭いながら、信吾は中へと入ってくる。
「何か変わりがありましたか?」
「いえ。中の様子は相変わらずです」
「そうですか……」
信吾がやってきたので、何か動きがあったのかと思ったが違ったようだ。
「はっ。それで、でございますが……もし、明日動きがなければ、一度仕掛けてみるというのはどうかと思いまして」
信吾はそう言って、館の簡単な見取り図を私に見せてくる。
「現状四方の門は我々が封鎖。完全に孤立しております。武殿が火を放った為、敵方の兵糧はすでに枯渇しているものと思われます。外から見た限りではありますが、敵方の疲弊具合から見てもまずそこまでは武殿の計画通りに事は進んでおります。……ただ、予想以上に粘られてしまっている」
「そうですね」
誰の目にもあきらかだ。信吾がこうして進言に来たということは、おそらくはこちらの兵たちにも疑問に思うものが出始めているのだろう。こんな状況で、いつまで睨み合いを続けるのか、と。
私も、これは想定していなかった。まさか、包囲したこちらの方が尻を叩かれる状況になるなどと。まして、相手はあの金崎惟春。そんな状況になり得るわけがないと思っていた。そこまで保たせることなどできる訳がないと思っていた。
だが、それでも落とさねばならない。ここまで来て失敗すれば、金崎領攻略前の状態を維持することすら出来なくなる。すでに状況は、継直を倒し群雄へとのし上がるか、もしくは破滅かの二択しかないのだから。
いや、違うか。
群雄へとのし上がるしかないのだ。
選べる状況など、疾に終わっている。継直がこの辺りの均衡を崩してしまっていたのだから。動いていなければ武殿の言っていた通りに遠からず私たちは破滅へと向かっていただろう。
さて……どうする。信吾の進言通りに一度仕掛けてみるか。それとも……。
「そうですね。それも検討しておくべきでしょうね。ただ、明日もう一度米を打ち込んでみましょう。それから二日動きがなければ、三日目に決戦を挑みます。もうこんな状況なので、慣例の布告も必要ないでしょう。明け方仕掛けます」
「それがよろしいかと。我が方の士気の問題もありますが、館内があまりに静かすぎます。もしかすると、某か我々の想定外の状況になっているのやもしれません。それが何かは図りかねますが、一度当ててみないことには、おそらくいつまで経っても分からず仕舞いに終わってしまいましょう。それを避けるという意味でも、一当てしてみるのは現状最良かと」
「そうですね。有り難うございます。よく進言してくれました」
やはり、上から見ただけでは分からぬところで兵の不満が溜まっているようだ。
無理もないか。このような搦め手では戦功を上げるのは難しい。兵たちとしては、これは死活問題だろう。
槍働きだけではなくこれも戦だと私たちは武殿から学んだが、末端の兵たちにもそれを望むには、まだまだ改革が必要だ。とりあえず目先の話としては、一度戦功を積む場を設けるという意味でも、また敵方の『らしくない』状況を探ると言う意味でも、信吾の言う通りに一当てしてみるのも悪くない。
「ただ、今の状況で戦端を開くと我が方の兵が功を焦って暴走する可能性が低くなさそうですね。攻めかかるとしたら、引き際が重要になりますよ。落とせるものならば一気に落としてしまえばいいですが、無理やり落とすのはまずい。こちらが満身創痍になるような事態になっては、次の動きが出来なくなります。武殿の方も援軍が必要でしょうし、二水の状況次第では他国が動く事も懸念されます。そこの所はきちんと抑えておいて下さいね」
「畏まりました」
信吾もその事態は予想できていたようだ。当然とばかりに首肯する。
そして翌日、最後の米が打ち込まれた。
だが、この三度目の米も回収される様子は確認できたが、こちらの狙い通りに内部分裂を引き起こすには至らなかった。