第三百八話 迅速果断 でござる
「なんですって……」
伝七郎が低い声を漏らす。信吾も、言葉にこそしなかったものの、厳しい顔つきでうなり声を漏らしていた。
「……来たか。チッ、もう少し空気を読めってんだ、クソが」
悔し紛れに罵倒の言葉が俺の口から漏れる。いくら来ると思っていたと言っても、計ったように最悪のタイミングで来られれば、やはり苛つくものは苛つく。
さっき米を結んだ矢を館に打ち込んだ。それによって、ずっと動きらしい動きのなかった館内で中に籠もった敵兵が動くのを見た。四方の門に陣取った俺たちからの四×四十本分のプレゼントだ。中にいると思われる数百の兵にとって十分魅力的な贈り物となっただろう。
惟春ならば、おそらく全回収させた筈。
奴が俺の予想を遙かに超えた馬鹿ならば非常に楽だったのだが、流石にそこまでではなかったようだ。館の中で戦いが起こっていないところをみると、今回の分は全回収ののち、均等に分配されたようだ。
奴のこと、俺の策を読み切った上で、全回収の後に燃やしたりはしていないに違いない。この策に抗するには、これが最上なのだが、そうはしていないだろう。
もっとも、そうしたらそうしたで、奴の為人ではやはり問題を抱えてくれただろうが。
そうなっていないところを見るに、俺の策は俺の予定通りに奴らを蝕むことには成功している。
だが……、今継直に動かれると、この策では惟春らを仕留めきれない公算の方が高い。時間が足りない。あと半月……十日……いや、一週間でもあったならば、なんとかなったかもしれないのに。
知らず知らずに噛みしめてしまっていた歯がゴリリと鳴り、気づく。
いや、駄目だ。駄目だ。軍師が冷静さを失ってどうする。
己を戒める言葉で湧き出てくる不安を無理やり抑えこむ。
「……もう、ここを落としてから動くというわけにもいきませんね」
伝七郎が静かに顔を上げる。
もう、奴も戸惑ってはいなかった。おそらくは、俺と同じように無理やり己を律したのだろう……奴は『大将』として。
「……ああ。すまんがここはお前に預けることになる。俺は、すぐに兵を編成し直す。前にも話した通り、おそらく継直のところの軍は二水を通ってこちらにやってくるだろう。だから、俺は二水に向かう。神楽を使って情報を集めながらの動きになるから多少ズレるかもしれないが、多分そうなるはずだ」
「……武殿だけで、ですか?」
「いや。とりあえず、藤ヶ崎に爺さんがいるから、そこからも少し将兵を分けてもらって、それを朽木に移動させる。で、敦信と三森衆も二水に移動させようと思う」
「平八郎様のところの将兵をそのまま二水に回さずに、ですか?」
「ああ。更に兵を動かすような事態になることもありえなくはないからな。その時のために、爺さんのところの兵は待機にしときたい。その方が、爺さんを動かす事態になった時には都合がいい」
ここに至っては念には念を入れて、準備できるものは準備しておきたい。もう何が起こっても驚かない。すべてが『起こりうる』んだ。
「なるほど」
伝七郎は静かに頷いた。しかし、
「とはいえ、継直がどれだけの兵を振り向けているのかまだハッキリしない今の段階では、兵は再編成するとしても将の数が足りなくはないですか?」
伝七郎は、心配ですとはっきりと口にした。無理が過ぎる戦でいたずらに俺を失うわけにはいかない、と。
だから、俺は笑った。
「はは、別に俺も死にに行くつもりじゃあないぞ? そんなことをしたら、今度こそ菊に何て言われるか。それはなんとかなる。太助らも多少は使い物になるようになってきたし、敦信の下にも何人かいた。あれは十分使い物になる」
「ああ、なるほど」
そこまで口にして、ようやく伝七郎はその眉根に寄った皺を伸ばしてくれた。
「で、更に駄目押しでもう一人欲しいところなんだが……」
北で安住の先鋒を抑えこんでいる源太と与平の二人について、俺は伝七郎に確認する。今俺が知っているのは、二人が金崎領に押し入ってきた安住の先鋒をここ美和の北東方面にある比際峠あたりで計画通りに分断に成功し、安住の軍を孤立させたまま膠着させているというところまでだった。
「あれから何か続報はあるか?」
伝七郎に尋ねると、奴は信吾に視線を向けた。どうやら現在窓口になっているのは信吾のようだ。伝七郎の奴もやることが多すぎて、すべてに手が回っていないのだろう。
信吾は鬼灯が入ってきてからずっと沈黙を保っていたが、伝七郎に促され口を開く。
「いえ。今入ってきているのは比際峠にて分断に成功したというところまでです。この報せが届いたのが三日前ですので、おそらくすでに某らかの動きはしている筈ですが、早馬はまだ届いていません」
先日伝七郎から聞いた情報だな。ってことは、俺の持っている情報が現状の最新ってことか。
「……そっか。うん、分かった」
まだ、源太らは動かせない。分断した安住の部隊を撃破していれば、与平を比際峠に張りつけたまま、源太も二水に回すことができたのだが、それは現段階で計算に入れてはいけないだろう。狂った時が怖い。本来は、ここで切り札の一枚にすべく高速の騎馬隊を率いる源太を街道沿いに北上させ二水に来られるように図ったのだが、そうはいかなくなってしまった。
となると、俺の朱雀隊を中心に編成するここ美和から出る戦力と、朽木から回す敦信の三森衆で迎え撃たなくてはならない。源太の青竜隊がいないとなると、進撃してきた継直の軍に後方から強襲をかけて、それに呼応するように挟撃に持ち込むという手が使えない。流石に継直の奴も、今回の侵攻にそれを易々と許す凡将は使わないだろう。まさかの大返しと青竜隊の高機動があってこそ使える手だった。
二水に着くまでに何か考えないといけない。
今回の戦は、継直にとっても俺たちにとっても重要な一戦になる。
継直は本格的な侵攻に備えた拠点を確保する為に。俺たちは十虎閉檻における生き残りを賭けて。もし、ここで二水を食い破られると、ここまでの苦労がすべて水の泡となる。散々苦労を重ね、犠牲を払って、ようやく美和に手が届こうというのに、それがすべて一瞬で意味のないものに変わってしまう。
そんなことは認められない。断じて認められない。
だから、ここは絶対に凌ぎきる。
「……武殿?」
伝七郎が心配そうな声で俺の名を呼んだ。
っと、いかん、いかん。ついつい考え込んでしまった。
「ああ、ごめん。まあ、なんとかなるよ」
……俺がそうしてみせる。
俺は努めて明るく振る舞う。ここで不安の色なんか見せられない。まあ、今のこいつらならば少々本音を吐露したところで共に背負ってくれるとは思うが。とはいえ、残していくこいつらだって、目の前に引き籠もっている惟春を始末してもらわないといけないからな。大仕事が残っている。余計な心労をかけたくない。
だから俺は軽い調子で、
「じゃあ兵の再編案を考えてくる。今晩中に作るよ」
と天幕を出た。それに鬼灯もついてくる。
外に出ると、俺の心の中とは対照的に黒天の空には無数の星々がきらきらと輝いて、実に楽しげだった。