第三百七話 招かざる客 でござる
吹き付ける風が未だ焦げ臭い。
つい先刻真っ黒な煙を吸い込んだばかりの空には、星が瞬いていた。漆黒の空の大半が馬鹿馬鹿しいほどに澄み渡っている。すっかり日も沈み、いよいよ風が冷たさではなく痛さを、この身に与えてくるようになった。
そんな中、美和の町を背に、目の前に立つ真っ白な巨大な館を見上げる。
白の館――――
金崎家がその繁栄を誇示するために作った白い要塞。敷地面積はもしかすると藤ヶ崎の館の方が広いかもしれない。二百メートル四方くらいはあるだろうか。だが、四メートル近くはある真っ白な漆喰の壁は外界と決別するかのようにそびえ立ち、おまけに周囲にはきちんと整備された小さな小川のような物が巡らされ、堀のようになっている。綺麗な水の中を泳ぐ大きな鯉がいなければ、俺はこれを迷わず『堀』と呼んだだろう。
中の建物も、中央で存在感を放つ真っ白な本館のほか、急造で作られたと思しき櫓が何棟も建っており、もし俺たちが不用意に近づけば手痛い反撃を加えてくるに違いない。
蔵とともに、こいつも燃やせればよかったのに……そう思わずにはいられなかった。
白壁の外からでも炭化した建屋が何棟も見えるが、それと比べて櫓の綺麗なこと。思わずため息が漏れる。とはいえ、白壁近くに隣接して立つ櫓は、当然中の建物群とは離れており、潜入してこれを燃やせというのは、いかな神楽でも容易ではなかっただろう。所詮、俺の無い物ねだりだ。
町中を抜けて白の館に着いた俺たちは、館の西門と南門に兵を展開した。
到着した時には伝七郎らもすでに着いており、先に連絡した通りに館の四方の門を封鎖していた。しかし、俺たちが到着したのを機に兵を再分配し、北門を伝七郎が担当、東門を信吾に担当してもらう事となった。西は俺、南は重秀が担当し、四等分に再編した兵で囲むことにしたのだ。
俺は……このまま奴らを飢え死にさせる。
蔵を狙った利点は多々あったが、その中でも一、二を争える大きな理由がこれだった。
本当は水を断てればそれにこしたことはなかった。水の方が早く決着に持って行けるから。しかし、この地の水が豊かであるためにそれはできなかった。だから、相手の貯蓄を限りなくゼロにして、それから兵糧攻めにもっていく……それが俺の策。
将兵にまったくといっていいほど忠誠心がない金崎家に仕掛けるにはこれに勝る策はなかったと思う。絶対に、惟春のために耐えられなどしないから。おそらく、数日のうちに館内で派閥で分裂が起こるだろう。
あとは、それを助けてやるだけでいいのだ。
この策を披露したとき、またもや伝七郎らに怖いと言われてしまった。だが、やむを得ない。
確かに、お世辞にも敵に優しい策とは言えない。こんなやり方をする人間は、間違いなく怖い人間だ。碌な死に方はしないと思う。
でも……俺たちがあの不利な状況から自分を保ち、先々では千賀にきちんとした国を渡してやれるようにするには誰かがこういう役目を引き受けないといけない。まともなやり方をしていたら、生き残っていく事すら覚束ない。
そんなことを考えながら白の館を見上げていると、後ろから声をかけられた。
「ここにいたのか」
「なんだ太助」
「一応、言われた通りに一握りずつ米を小袋に詰めて八十本用意したぞ」
太助はそう言って、立てた親指で自分の背後を指差す。
見れば、確かに指示通りのブツが出来上がっていた。
三日ほど後に、このうちの半分を中に打ち込む。そして、その二日後に残りの半分。まだ耐えていれば、その更に二日後に残りを打ち込む。
人間、耐え続けるよりも、緩みを作られる方が辛い。
この小袋は悪魔の果実だ。一度口にすれば、もう逃れられない。腹ではなく、心を蝕んでいく。どんどん減っていく量は、俺たちへの憎悪以上に仲間だったはずの者たちへの憎悪を育てていくだろう。自分が食える物を奪う『敵』として。
人間の大半は、それほど心が強くはないのだ。
白の館を囲って四日目。未だ動きはない。不気味なほどに。
調べてある惟春の人物像では、もうとっくに中が騒がしくなっていてもおかしくはない。
美和の町で反乱を起こしていた民は、今は静かになっている。あの甚兵衛とか言う反物屋は思っていたよりは力を持っているらしい。
白の館を囲んだ翌日、あいつは再び俺たちの前に姿を現わした。己の仕事の成功を俺たちに印象づけるためだったとは思うのだが、どうにもそれだけではないような気がしてならない。どこがおかしいのかと説明を求められても上手く言葉にできないのだが、どうにも引っかかる。行方不明になっている鏡島典親が未だに見つからないという報告も兼ねていたようだが、それを報告する奴の口は無念無念と口にしていたが、俺の目には本当に無念がっているようには見えなかった。
多分、そういう些細なことの積み重なりが原因なのだろうがな……。
どうにもすっきりしない気持ちを抱えたまま、今日も静かな白の館の南門を眺める時間が続く。
だが、とうとう事態は動いた。
その日の夜、伝七郎らと作戦の継続か、新たな策を講じるか議論していた最中のことだった。
櫓に見える敵兵らはあきらかに憔悴しているのに、館内で争いが起きている気配がない。そのことに、これは何かがおかしいと俺の天幕に集まり、伝七郎や信吾と首を傾げていたのだが、そこに鬼灯が飛び込んできたのだ。
「大変です!」
鬼灯は前置きもなく、俺の天幕に入ってくる。
「ど、どうした?」
彼女にしては、大変珍しいことだった。俺は努めて冷静に返事をしたつもりだが……見事に言葉がつっかえた。
伝七郎も信吾も驚いたようで、一斉に彼女の方を振り向く。
しかし鬼灯は、それでも臆することなく俺の下へと早足でやってくる。そして、俺の側に片膝をついた。
そこまできて、ようやく伝七郎らにも頭を一つ下げた。
「……とうとう継直が動きました」